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御殿場事件

2001年(平成13年)9月16日(日)の夜、静岡県御殿場市内に住む高校1年生のA子(当時15歳)は母親から帰宅が遅くなったことを問い詰められ、次のように告白した(<>内)。翌17日、話を聞いた母親が警察に被害届を提出する。

< その日は町田市でバスケットボールの試合があり、御殿場駅に着いたのは午後7時55分ころです。改札を出て駅の階段を下りると、中学時代の同級生だった平田健児くんから肩を叩かれ、「久しぶり。覚えている?」と声をかけられました。平田くんはもう1人の知らない男の子と私の前に立ちはだかると「いいから来い」と言って、私の右手首をつかみ、「携帯で母親に遅くなるって電話しろよ」と言いました。私は言われるままに母親に電話して「電車が止まっているから遅くなる」と伝えました。平田くんに右手を引っ張られ、もう1人の男に横に付かれて逃げ出せない状態で繁華街を歩きました。

しばらく歩いていくと、カラオケ店の駐車場にある自転車置き場に4人が待ち構えていて、平田くんが目配せすると、その4人は私の後ろを取り囲みました。さらに進んで集会場みたいな建物付近にくると、陰からさらに4人の男の子が出てきて前方を取り囲みました。誰か助けてと叫びたかったけれど、周囲には人もいなかったし、怖かったので、そのまま計10人の少年に取り囲まれて中央公園に向かいました。

公園に着いたのは午後8時20分ころです。噴水の近くのベンチに座らされ、「どこの高校に通っているの?」とか「彼氏はいる?」などと訊いてきたので曖昧に答えていました。1時間ほどベンチで話をしていると、リーダー格の男が「もうやっちまうぜ」と言い出し、他の男たちも「おう」と相槌をうち、平田くんに手首をつかまれて、公園内の池の近くにある工事中の終日亭(ひねもすてい)という小屋(柱と屋根はあるが、壁がない休憩所)の方に連れて行かれたのです。小屋に隣接する芝生まで来ると、背中を押されて倒され、仰向けにされました。午後9時50分ころです。

中央公園(御殿場市) 1000円もって公園へ行こう!(「終日亭」の画像あり)

やめてと言って手足をばたばたさせましたが、両手両足を押えられ、リーダー格の男に馬乗りになられ、ポロシャツをたくし上げられて胸などを触られました。その男はジャージのズボンを足首までずらしましたが、生理用のパンツにナプキンがついているのを見て、残念そうな表情で「こいつ生理になっているからいいや」と言って、下半身に手を出すのを止めました。本当にみじめな気持ちでとにかく早く終わってほしいと願うばかりでした。リーダー格の男が5、6分、わいせつ行為をしてから離れると、別の男が馬乗りになり、胸を両手で触りました。他の男たちは薄ら笑いを浮かべて楽しそうにしており、最後の方で平田くんが同じようにいやらしいことをし、10人全員からいやらしいことをされました。

全員が終えると、リーダー格の男が「警察や親にチクったら承知しないぞ」と言いました。脱がされた洋服を着て家の方に向かって走って逃げました。途中でコンビニに隠れたりしながら、家に帰ったのは午前0時ころです。> 

<『踏みにじられた未来 御殿場事件、親と子の10年闘争』(幻冬舎/長野智子/2011)>

11月26日、御殿場市内の高校に通う当時高校1年生の平田健児(当時16歳)は御殿場警察署の警察官に任意同行を要請され、警察署へ連行された。警察署で平田は取り調べでA子のことを訊かれても「知らないし、顔も思い浮かばない」と言ったが、警察官は六法全書を持ってきて、「認めないと1年じゃ済まない。認めれば罪も軽くなる。すぐに楽になる」と言われ、認めてしまう。さらに、「最近、どんなヤツと遊んでいるのか。よく遊んでいる先輩は誰だ」と訊いてきたので、平田は適当に当時遊んでいた友達の名前を挙げた。警察官は中学の卒業文集を持ってきて「この中に犯人がいる」と言ったが、平田は分からないから知り合いの写真を適当に指差した。このとき平田が挙げた先輩や友人など30人以上の名前の中から「犯人10人」という被害者の供述を元に当時15〜17歳の少年10人(↓)が次々と逮捕されていくことになる。

当時高校2年生の少年4人・・・川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁
当時高校1年生の少年5人・・・平田健児・B・C・D・E
当時中学3年生の少年1人・・・F

2002年(平成14年)1月24日、当時高校2年生の川井祐二(当時17歳)の自宅に御殿場警察署の警察官が訪ね、任意同行を要請した。祐二を乗せた警察車両が御殿場警察署に着くとすぐに取り調べが始まった。祐二は警察官に「平田の事件に関することを話せ」と言われたが、何のことか分からずにいた。2時間ほど祐二は「知らない。やっていない」を繰り返し言い続けたが、警察官に「前年の9月16日に何をやっていたか思い出せ」と言われ、祐二はカレンダーを見て、その日が日曜日であることに気づき、高校入学と同時に毎週土、日にやっていたアルバイトがあり、タイムカードを使用していたから祐二は警察官に「そのタイムカードを取りに行ってほしい」と頼んだ。これでアリバイが成立すると思い、タイムカードを取りに行った警察官を待っていたが、警察官に見せられたのは逮捕状だった。

「平成13年9月16日、犯行時刻は午後9時50分から午後11時ころだな。10人で共謀して1人の女の子を強姦しようとしたが、生理中だったために、キスをしたり胸を触ったりしたという強姦未遂の容疑で逮捕する」

警察官は逮捕状を読み上げると祐二に手錠をかけた。

逮捕から3日目、否認を続けていた祐二の元に警察官がアルバイト先のタイムカードを持ってきた。そのタイムカードに記録されていたのは「午後1時47分出社〜午後8時24分退社」とあった。バイト先の会社から事件があった中央公園までは約3キロメートルの距離。「自転車移動でも犯行時刻の午後9時50分には中央公園にいられただろう」と勝ち誇ったように言われた。さらに、祐二は警察官から裁判になれば、「時間もかかるし、お金もかかる」と言われ、小学5年生のときに両親が離婚した後、母親の女手ひとつで育てられた祐二は母親に金銭的な負担をかけたくないという思いから、やってもいないことを認めてしまう。

3月8日、静岡家裁沼津支部で少年審判が開かれ、逮捕された10人の少年全員が自白は強要されたものだとして一転否認に転じた。

翌9日、祐二から母親に手紙が届く。そこには「9月16日に関すること、どんな小さなことでもいいから調べてほしい」という趣旨のことが書かれてあった。

祐二の母親はまず、この日が日曜日であることに気づき、バイト先のタイムカードを確認した。被害者であるA子の証言によれば、犯行時刻は午後9時半を過ぎているが、公園への到着時刻は<午後8時20分>で、駅から歩いてきた少女をカラオケ店と集会場で待っていた少年たちが合流して取り囲むのはそれ以前の時刻になる。また、公園に一緒に到着した10人の少年たちにその後、合流した少年がいたという証言はなく、犯行に関わったのも公園に到着する前に合流した10人、ということになる。祐二がアルバイト先を退社した時刻が「午後8時24分」なので午後8時20分より前に中央公園の近くのカラオケ店や集会場に到着するのは不可能である。

さらに、祐二の母親は9月16日の新聞のテレビ欄を見て午後9時から『ビバリーヒルズ・コップ3』という映画を放送していたことに気づいた。このころ、祐二の母親はパートナーと交際を始めたばかりの時期で、そのパートナーが自宅に遊びに来ていてその夜、アルバイトを終えて帰ってきた祐二と3人でこの映画を観たのを思い出している。

このころ、同じく逮捕当時(川井祐二と逮捕された日が同じ1月24日)高校2年生の勝俣貴志(当時17歳)の両親もアリバイ探しに奔走していた。父親は貴志の友人たちに電話をかけて連絡を取り、証拠探しを始めたが、そのうちの友人の1人が御殿場駅前の飲食店で友人7人と計8人で午後8時から10時過ぎまで一緒にいたと言った。父親は7人全員を自宅に呼んで事情を聞いた。友人たちはどこに座っていたかまで覚えており、その日と同じ服装をしてもらって写真撮影をし、この写真を飲食店に持っていき、その日の伝票も確認した。また、その時の従業員も働いていて8人のグループのことは覚えていた。

祐二や貴志を含めた6人についてはタイムカードや第三者の証言などの客観的な証拠も見つかったが、警察はこうした証拠類の裏付け捜査をほとんど行わなわず、「証人が友人じゃダメ、未成年じゃダメ」「親が共謀して口裏を合わせている。証拠をねつ造している」と言った。少年審判の検察官も「肉親が口裏を合わせてウソを言っている」と決めつけた。

静岡家裁沼津支部で開かれた少年審判ではこうした警察、検察の主張が全面的に認められる形になった。

○当時高校2年生の少年4人・・・川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁→地検に逆送し、刑事裁判
○当時高校1年生の少年4人・・・平田健児・B・C・D→少年院送致/平田が退院後、処分取り消しの申し立てにより再審開始
○当時高校1年生の少年1人・・・E→不処分→後に不処分を取り消され、地検に逆送し、刑事裁判
○当時中学3年生の少年1人・・・F→保護観察処分

川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁の4人については静岡家裁が判断できないのできちんと刑事裁判で決着をつけるようにという、それ自体よく分からない判決となった。

(これ以降、刑事裁判の被告人となった当時高校2年生の川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁の4人についてのみ記述/他の6人については表[↓]を参照)

5月30日、静岡地裁沼津支部(裁判長・高橋祥子)で川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁の4人の少年に対する初公判が開かれた。この裁判では被害者のA子のプライバシーを保護するため、A子だけ別室でマイクを通しての出廷となった。

弁護人が「堀内聡太くんは父親が営む寿司店で店の手伝いをしていた。友人や客などたくさんの目撃者がいます」と主張すると、検事は「それは親や友人たちが口裏を合わせている可能性がありますのでアリバイは認められません」と反論した。

弁護人が「同じく事件当夜、川井祐二くんはアルバイト中でした。彼のタイムカードは20時24分に勤務終了となってますので犯行時刻に中央公園にいるのは不可能です」と主張すると、検事は「そのタイムカードは偽造された可能性がありますので証拠価値はありません」と反論した。

弁護人が「勝俣貴志くんは事件当時居酒屋にいました。友人も一緒でした。次回、公判にそのとき接客した店員を証人申請します」と主張したが、なぜか次回公判(日にち不明)に居酒屋の店員は証人出廷を拒んだ。あとで分かったことだが、店員は検察官に脅されて怖くなったと周囲に漏らしていた。

事件当時、A子は事件があった中央公園近くのコンビニに駆け込み、助けを求めたと供述していた。そこで証人として、A子が駆け込んだとされるコンビニを夫とともに経営している女性が証人として出廷したが、弁護人に「事件当夜、集団で暴行され、コンビニに逃げ込んだ女子高校生がいたか?」と訊かれ、「その日、私がレジをしていましたが、そんな人は来ていません」と証言した。さらに、「彼女はコンビニ店内で携帯携帯で通話していたそうですが、記憶にありませんか?」との質問にも「ありません」と答えている。

傍聴席がざわめき、「A子のウソがバレたな」「へんだよな」という声が上った。

これに対し、検事は傍聴席に向かって「傍聴席!不規則発言は禁止だ! しゃべったヤツは全員、名前と住所を調べ上げるぞ!」と言い、裁判長に向かって「この証人は被告人の家族と親しくしている可能性があり、証言の信ぴょう性はありません」と言った。

弁護人がA子に「あなたは逃げ込んだコンビニで自宅に電話したのですね?」と訊くと、A子は「はい」と答えたが、弁護人は「おかしいですね。あなたの携帯電話の発信記録にはその時間帯に発信した記録がないんですけれど」と言うと、A子は「そのとき携帯の電池が切れていて電話できなかったんです」と答えている。

弁護人がA子に「9月16日午後8時過ぎ、腕を無理やり引っ張られて公園に連れられたそうですが、あなたは抵抗しましたか?」との質問に、A子は「後ろに体重をかけて早く歩けないようにしました」と答えているが、弁護人は「そのとき、あなたは頻繁に携帯でメールのやり取りをしている。携帯の履歴にはそう記録されています」と言うと、A子は「本当は声をかけられて嬉しくてついて行きました」と答え、弁護人から「どうして最初からそう言わなかったのですか?」と訊かれ、A子は「軽い女と思われて恥ずかしかったから」と答えている。

弁護人がA子に「少年たちに『帰宅が遅れると親にウソの電話をしろ』と命じられたのは午後8時5分ですね? あなたの携帯の発信の記録にも午後8時4分53秒に記録があります。しかし、そのわずか1分後(正確には、午後8時6分14秒)にある男性に電話してますよね」と言った。

そこで、そのときのある男性・Y(当時19歳)が証人として出廷した。証人台に立ったYは弁護人に質問され、「9月16日、携帯の出会い系サイトで知り合ったA子とこの日の夜、少なくとも3時間は一緒にいて、話をしたり、カーセックスをしていた」と証言した。そのYの証言に対し、A子は「そんな人、知りません」と言った。だが、弁護人が「彼の携帯にあなたの電話番号の着信履歴があります」と言うと、A子は「すみません、ウソをついていました」と言って泣き崩れた。法廷内のスピーカーからA子の泣き声が聞こえてくる。

9月16日のA子と男性Yの携帯電話とメールの発信と着信履歴、Yの証言によると・・・

○午後7時5分 A子がYに「終電の前なら、親に電車が止まると言い訳して少しなら会える」と電話。通話時間29分33秒間。
○午後8時4分53秒 A子が母親に「電車が止まって遅くなる」と電話。通話時間1分5秒
○午後8時6分14秒 A子がYに「JR東海道線富士駅で待っている」と電話。
○午後8時13分 A子がYに「北口で待っている」とメール。
○午後8時19分 A子がYにメール。
○午後8時21分 A子がYにメール。
○午後9時2分51秒 YからA子に電話。
○午後9時15分ころ、A子とYが富士駅で会う。

9月19日、静岡地裁沼津支部で第3回公判が開かれた。

この日、法廷の証言台に小型のテレビモニターが置かれた。少年たちの目に触れないようA子が別室に入り、カメラ前で証言する様子をモニターに映し出す方式がとられた。

弁護人が「犯行時間帯に本当は別の男性と会っていたのでは?」と訊くと、A子は小さな声でしゃべり始めた。

「事実と違うことを言ってしまって、みんなとかに迷惑をかけてしまって申し訳ありませんでした」

A子は最初の供述がウソであることを法廷で謝罪した。これでやっと終わった、と思った。

だが、A子は続けて言った。

「この前は9月16日にやられたと言いましたが、本当は9月9日でした」

実際の犯行日は1週間前の日曜日だったと証言を変えたのだ。事件からすでに1年あまりも経っているにも関わらず、検察側は日付け以外の犯行状況は事実ですので裁判をそのまま続けてほしいと訴因変更(検察官が被告人の犯罪容疑の一部を変更すること)請求を提出した。

刑事訴訟法312条1項・・・裁判所は検察官の請求があるときは、公訴事実の同一性を害しない限度において、起訴状に記載された訴因又は罰条の追加、撤回又は変更を許さなければならない。

犯行日の変更の理由が最初の犯行日は男とデートをしていたのを叱られたくなかったからついたウソで、本当は1週間前の出来事だったと説明した。法廷で泣きながらウソを認めたA子がさらにまたウソを重ねて保身する必要があるのか疑問である。

A子が言うことが事実としたら9日に少年たちから強姦未遂という犯行を受けたにもかかわらず、1週間後に出会い系サイトで知り合った見ず知らずの男性と深夜に出かけたことになる。

A子が犯行日を9月16日ではなく9日だったと供述したことにより、A子の事件に関する供述は次のように変遷した(<>内)。

< 被害に遭ったのは16日ではなく9日です。9日である根拠は家族で一緒に参加する行事が毎月第2日曜日にあったのですが、この日は行事を休んで部活に行ってしまったので、罰が当たったと思ったのでよく覚えているのです。9月9日、午後7時半から午後8時ころまでの間に御殿場に着き、駅の階段を下りていくと、平田くんから「久しぶり、俺のこと覚えている? 今、時間平気? ちょっと話があるから来て」などと声をかけられました。恋の相談か、誰か私を好きなのかと思って、嬉しくて自分からついて行きました。はじめは軽く手を引っ張って連れて行かれましたが、途中から手を離してくれました。平田くんに家に電話しろと言われたことはありません。前に家に電話しろと言われたと供述したのは、16日に家に電話したことと辻褄を合わせるためです。

2、30分ほど歩いてカラオケ店まで行くと、男が4人くらい出てきて、斜め前の神社からもさらに男が4人くらい出てきましたが、その中には中学で同級生だった男子のような顔も見えました。犯人は平田くんを含めて10人と言ったけれど、同級生の子の名前は出しませんでした。はっきりと目の前で見たわけではなくあやふやだったし、そこにいるなんて信じられなかったから名前は出さなかったのです。他の人ははっきり見てないから分からなかったし、そのときの人数もはっきり数えたわけではないです。

中央公園のベンチでは平田くんから「どこの学校? 付き合ってよ」などと質問されたけど、つまらなく感じたし、会話は弾みませんでした。ベンチで座っているときに、噴水の霧だか、雨の霧だか分からないけど、顔にかかった記憶があります。ベンチに座って10分ほどしてから噴水が始まった記憶があり、噴水が出るとライトアップされるので、周囲の人の顔も見ようと思えば見られたけど、興味ないから見ませんでした。

30分くらい話をしていると、最後に平田くんから「俺と付き合ってよ」と言われたけど「好きな人がいるから無理」と言いました。しばらく経ってから「もういいよ、やっちまおうぜ」という声が聞こえ、平田くんに手首をつかまれて終日亭まで連れて行かれました。

被害状況については当初の供述と同じです。被害に遭っていたのは一人当たり長く5分、短くて2、3分くらい。全部でだいたい40分くらいでした。10人からされたことは間違いありません。

芝生が乾いていたか、濡れていたかは覚えていません。天候のことも覚えていませんが、その後、家に帰るときにたまにぽつぽつと雨が顔にかかったりしました。

公園を出てから2、30分で家に着きました。途中、追われていたために逃げ込んだコンビニにいたのは2、3分。家に着いたのは午後11時前くらいです。以前、深夜12時近くであったと言ったのは、16日の帰宅時間に合わせたからです。犯人から口止めされていたし、自分から喜んでついていった結果、このような被害に遭ったことが恥ずかしくて、その日にすぐとか、次の日に家族に被害を打ち明けることができませんでした。

16日にYに会ったとき、生理は終わりかけで、9日は生理がまだ始まっていませんでしたが、おりものがあったので生理用のナプキンをしていました。16日の帰宅後、母への言い訳に警察沙汰になるとは思いもしないまま、本件被害に遭ったことを話したところ、警察に被害届を出すはめになってしまいました。しかし、いつ被害に遭ったかは重要なこととは思わず、とにかく被害自体は本当のことだから構わないと思ったし、警察が犯人を叱って終わるものだと軽く考えていたので抵抗はありませんでした。

16日のデート後、Yは親にバレなかったかと心配してメールをくれたので、同級生から公園に連れて行かれてやられたことにしてあるから大丈夫と答えると、そんなことして大丈夫かと訊かれましたが、本当のことを話すから大丈夫と答えました。>

<『踏みにじられた未来 御殿場事件、親と子の10年闘争』(幻冬舎/長野智子/2011)>

ちなみにA子が帰宅途中に立ち寄ったというコンビニの監視カメラについては弁護団に問い合わせたところ、9日当時の映像は残っていないとのことだった。

事件があった日を16日とした当初のA子の供述では<工事中の終日亭>となっており、中央公園の管理事務所に確認をとってみると、確かに改修工事が行われていてテープが張ってあり、中に入れない状態だった。では9日はどうだったかというと、まだ工事が始まっていなかったのである。のちに終日亭にテープが張られたのは9月14日ということが判明した。A子を立会人として9月21日に行われた実況見分のときも終日亭にテープが張られていたが、このときA子が目にしたものを犯行日の記憶として供述調書に書いた可能性があった。

この事件ではA子の汚れた衣類や暴行によって怪我を負った事実などの客観的証拠や目撃者は一切存在していない。A子の供述にもあるように犯行に加わった少年は平田以外、分からないと証言している。検察側の証拠は少年たちの自白調書だけであり、そこにはA子の事件があった日を16日とした最初の供述に基づいた内容しか書かれていない。10人の少年たちの書いた自筆の申立書には<9月16日の夜、中央公園でレイプしようとした>と明記してあり、10人のうち1人として「犯行日は9日」と供述しなかったのはなぜなのか。また、9日、終日亭はテープが張られていないにもかかわらず、A子と10人の少年の書いた供述調書では<終日亭は工事中>ということになっている。

10月10日、静岡地裁沼津支部で第4回公判が開かれ、高橋祥子裁判長は「訴因変更を認めます」と告げた。つまり、裁判長が「A子が事件に遭ったのは9月16日ではなく、9日だった」というA子の供述を認めたことになる。

少年たちの供述調書やアリバイ確認などの手続きは一切なく、犯行日の1週間前の違いは「問題なし」として審理は進められた。

犯行日が9月9日とされたにもかかわらず、9月16日にA子と会っていたYが検察側の証人として再び証言台に立った。検察側が「あなたは9月16日にA子さんと会ったそうですが、何時に会ったのですか? もう一度答えてください」と質問すると、Yは「彼女と会ったことは憶えていますが、何時に会ったかは憶えていません」と答え、検察側が「A子さんとどのくらい一緒にいましたか?」「A子さんと何をしましたか?」「A子さんを車で自宅まで送りましたか?」とのそれぞれの問いにも、Yはすべて「憶えていません」と答えている。

Yが「憶えていない」と証言を変えた理由は検察側から「淫行条例違反(18歳未満の青少年へのわいせつ行為)で逮捕する」と脅されたから・・・?

10月15日、川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁の4人の少年たちが約9ヶ月にわたる勾留から保釈される。そこには両親や親戚だけではなく、たくさんの支援者やマスコミが来ていた。

保釈の条件として、保釈金250万円。共犯者とその家族に会ってはいけない。3日以上、家に帰らない場合は届け出をする、ということだった。

祐二は高校2年生のとき逮捕されており、復学して留年してでも高校を卒業したいと思っていたが、学校側は2年生までの単位は補習で取らせてあげられるが、復学は難しいと言った。祐二は卒業を諦め、2年生の単位だけを取って通信制の高校へ編入した。

別の高校に通っていた貴志は自主退学を促され、自ら退学届を出し、その後、母親が経営する飲食店を手伝い、土木関係の仕事をするようになった。

少年たちの家族や友人たちは9月9日のアリバイ探しを始めた。

平田は9月10日が自分の誕生日なので前日の9日のことを覚えていた。この日の夜は地元のサッカークラブに入っていてサッカー仲間の家でカレーを食べていたことが分かった。

貴志も前日の9月8日が母親の誕生日で店が休みの9日の夜、家族で御殿場近くの焼肉屋に出かけており、店に確認するとカツマタ様4名と書かれた伝票も残っていた。

堀内聡太にもアリバイがあり、9月9日は聡太の父親が経営する大事な用事があり、両親が朝から出ていたので聡太は代わりに店の手伝いをさせられていた。その日は他に従業員3人一緒に働いていた。午後8時半から午後9時ころ、聡太は手伝いを終えて、中庭に吊るしてあるサンドバッグを30分ほど叩いていた。その様子を従業員の1人がはっきり目撃している。その日の夜は雨が降っていたが、それにもかかわらず外でサンドバッグを叩いてるのを見て不思議に思ったという。

実はこの日、台風15号の接近により、東海地方は厚い雲におおわれ、御殿場を含む静岡県東部一帯には「大雨・洪水注意報」が出されていた。犯行時刻とされる午後9時から午後10時ころ、犯行現場である中央公園からおよそ南方550メートルのところにある御殿場地域気象観測所のデータには「午後10時までの1時間の降水量は3ミリ」となっており、さらに御殿場消防本部では「台風の影響で風速7.2メートル。最大瞬間風速は17.6メートル」と記録されていた。

降水量・・・空から降る雨だけでなく、雪、あられなどが降るとき、それを溶かして水にした場合の深さをいい、その量は水の深さミリで表し、、雨だけの降水量を「降雨量」と呼ぶ。この事件では「雨」しか降っていないので、「降水量」「降雨量」「雨量」と違う表現を用いているが、全て同じ意味になる。

また、この日の同じ時間帯に現場から約200メートル離れた路上で交通事故に遭った男性がいた。「天気は雨。土砂降りじゃないけれども、傘をささないと濡れるくらい。傘をささないと雨が頭に当たるとか肩に当たるのは明らかに分かりました」実際、保険会社が作った事故報告書にも「天候−雨」と記録されている。

裁判官立ち会いの元、山形県新庄市の防災科学技術研究所で降雨実験が行われたが、無風状態の中、1時間、1.5ミリの雨を降らせただけで、芝生は十分に濡れ、水分を吸収したハンカチが変色するという結果が出ている。

防災科学技術研究所

関係証拠によれば、9月9日の御殿場駅設置の雨量計では次のように観測された。

午後7時までの1時間に1ミリ
午後8時までの1時間に3ミリ
午後9時までの1時間に2ミリ

ちなみに「中央公園(御殿場市) 1000円もって公園へ行こう!」のサイトによると、御殿場駅から中央公園までは「徒歩12分」となっている。徒歩の時速を4キロ/時とすると、800メートルの距離になる。

中央公園(御殿場市) 1000円もって公園へ行こう!

同じく9月9日の中央公園の南方約550メートルにある御殿場地域気象観測所では次のように観測されている。

午後8時までの1時間に3ミリ
午後9時までの1時間に1ミリ
午後10時までの1時間に3ミリ

御殿場地域気象観測所 2001年9月9日 (20〜22時)

だが、検察側の証人である静岡地方気象台職員は「降雨量には数ミリの誤差があり、観測地点と500メートル離れた中央公園の雨量は同じではありません。3ミリの降雨量が観測されても犯行現場で同じ程度の降雨があったとは言えません」と反論した。

A子の供述では<噴水の霧だか、雨の霧だか分からないけど、顔にかかった記憶があります><芝生が乾いていたか、濡れていたかは覚えていません。天候のことも覚えていませんが、その後、家に帰るときにたまにぽつぽつと雨が顔にかかったりしました>という証言以外、雨に関する供述はしていない。また、少年たちも犯行現場で「雨で服が濡れた」という内容の供述はしていない。

8月26日、静岡地裁沼津支部でこの事件の裁判長を務めていた高橋祥子判事が定年のため退官。

2005年(平成17年)10月27日、静岡地裁沼津支部で川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁の4人に対する判決公判が開かれた。高橋祥子裁判長に代わって判決は姉川博之裁判長が下した。逮捕から4年近く経っての判決だった。

姉川裁判長は目の前に一列に並んだ川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁の4人に対し、判決文を読み上げた。

「主文 被告人を懲役2年に処する」

「A子が犯行日時を偽り、捜査も稚拙だったことから審理も長期化したので、検察の求刑3年に対し2年に減刑した」「A子の供述の変遷も15歳の少女の考えとして充分理解できる」「少年たちの自白は犯行日時など一部に暗示・誘導があったとはいえ、犯行の根幹部分はおおむね一致しており、その任意性に疑いがない」「また、犯行現場に雨が降ったとは限らない」

弁護団は即日控訴するはずだった。そのために、すぐに「控訴趣意書」を提出する手筈であったが、この「控訴趣意書」を作成するにあたって必要となるのが1審の判決書で、これの提出がいつまで経っても行われず、5ヶ月近くかかっている。結局、1審判決から半年近く経ってから控訴審の手続きが始まった。

2006年(平成18年)12月13日、東京高裁(中川武隆裁判長)で川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁の4人に対する控訴審の初公判が開かれた。

東京高裁では雨量が観測された場所でもその時間内の降りかたなどを表していないため、弱いながらも雨が降り続いていたと言い切ることはできないと、1審の判断を踏襲。さらに、その判断を科学的に証明する証拠として次の2つのデータを採用した。

「御殿場市・小山町広域行政組合消防本部記録」の気象状況表で、2001年9月9日、午後8時20分から午後9時40分までの1時間20分は雨量0ミリというものと中央公園から東北東約700メートルにある「御殿場市役所農業研修所センター」に設置された「長期自記雨量日照自計器」の観測から同日午後9時台と午後10時台の雨量は約0.0ミリというデータだった。これら2つの証拠が示しているように中央公園に雨が降っていたとはいえないため、A子の話は不自然ではないと弁護側の主張を却下した。

御殿場市・小山町広域行政組合消防本部 / 御殿場市

ところが、「御殿場市・小山町の消防本部」の記録は静岡県警が作成した気象状況表であり、この記載は警察の書き間違いであり、実際には次のような観測がされた。

午後8時20分から9時40分までの1時間20分の雨量は2.5ミリ
午後8時から9時までの1時間の雨量は1.0ミリ
午後9時から10時までの1時間の雨量は2.0ミリ

また、「農業研修所センター」の降雨記録によると雨量を記録する用紙の設定が12時間ズレていたことが判明。データは9月10日の午前9時から午前10時の雨量のもので0だった。

本来の時間通りにデータを読むと、雨量は午後9時から午後11時までに2.5ミリ記録されていることが分かった。

検察側はこれらの間違いを指摘されて、雨量に関する追加の証拠を取り下げたかに思えたが、、、。

2007年(平成19年)8月22日、東京高裁(中川武隆裁判長)で川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁の4人に対する控訴審の判決公判が開かれた。

「主文 原判決を破棄する。被告人を懲役1年6ヶ月に処する」

「A子の供述は日付を除いてほぼ一貫しているので信用することができる」「犯行時の天候については犯行現場で雨が降っていたとは言い切れない」「16日にデートをした男性はA子が生理中であった記憶はないと供述しているが、生理が終わりかけていたと供述するA子の変更後の供述と矛盾しない。また、9日はまだ生理ではなかったが、おりものがひどく、ナプキンを当てていたとの供述も不自然なものと言えない」「被害現場近くは暗く、A子が被害時に終日亭の状況を正確に認識していたとは考え難く、A子を立会人として行われた実況見分のとき、終日亭にテープが張られていたことを鑑みると、実況見分時に認識したことを取り込んで当初の供述調書が作成されたと解されるから、A子の変更後の供述の一部に客観的事実と整合しなくてもその供述全体の信用性に影響は及ぼさない」

終日亭に関することについては、「9月9日の被害に遭った現場近くは暗くて、A子が正確に認識できたとは思えず、9月21日にA子を立会人として事件現場の実況見分を行った際、工事中のテープが張られてあったのを見て、この日、A子が目にしたものを9月9日の犯行日と認識して、9月9日は終日亭にテープが張られてあったと供述調書に書いたものと解釈される」ということらしい。ちなみに、終日亭にテープが張られたのは9月14日なので当初の犯行日である9月16日に<工事中の終日亭>と供述したことに関しては矛盾はしていない。

弁護側は「公園だけ雨がまったく降らないということはありえない」とする鑑定人の意見を採用しなかった高裁の判断に納得できず、最高裁に上告。高裁における「雨に関する事実誤認」を争点にした。その際に次のようなデータも提出されている。

日本気象協会による平成19年10月11日〜11月30日までの期間におけるアメダス御殿場、御殿場中央公園(北に約400メートル)、JA御殿場本店(北に約800メートル)の3点で雨量の相関関係の調査を実施した結果のデータで、いずれも強い相関関係が認められた。

その他にも東京大学、北海道大学、東北大学の名誉教授3人による9月9日の客観的な分析資料も添付された。東京高裁での「犯行現場で雨が降っていたとは言い切れない」との判断は気象学的な見地からありえないという。

中央公園の南方約550メートルにある御殿場地域観測所によると、9月9日の事件当日の午前0時から午後9時までに40ミリ程度の雨が降っており、かつ日射も観測されていなかったこと、湿度も常時90%と高かったという事実から芝生を含めた地面は乾いた状態であると考えられず、充分に水分を含み、方々に水たまりがある状態であったと推察される。

御殿場地域気象観測所 2001年9月9日・・・0〜21時までの降水量を合計すると42ミリとなる。日照時間も1日を通して0.0時間であることが分かる。

ちなみに、当初の事件日だった9月16日・・・16時までの1時間の降水量が1ミリとなっているだけで、1日を通して他の全ての時間帯は降水量0ミリとなっていることが分かる。

また、半径3キロ以内に7ヶ所の観測点があることからも充分な密度での観測値が得られている。

2009年(平成21年)4月14日、1通の封書が川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁の4人の元に届いた。

<主文 本件各上告を棄却する>

<理由 被告人四名の弁護人ほかの上告趣意は、憲法違反という点も含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張であって、刑訴法405条の上告理由に当たらない。よって、同法414条・386条1項3号により、裁判官全員一致の意見で主文のとおり決定する 平成二一年四月一三日 最高裁判所第一小法廷 裁判長裁判官 櫻井龍子 以下・・>

刑事訴訟法405条・・・高等裁判所がした第一審又は第二審の判決に対しては、左(下)の事由があることを理由として上告の申立をすることができる。

一 憲法の違反があること又は憲法の解釈に誤があること。
二 最高裁判所の判例と相反する判断をしたこと。
三 最高裁判所の判例がない場合に、大審院若しくは上告裁判所たる高等裁判所の判例又はこの法律施行後の控訴裁判所たる高等裁判所の判例と相反する判断をしたこと。

雨に関するデータについて、ひと言のコメントもなかった。

これで川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁の4人の懲役1年6ヶ月の有罪が確定した。

  2001年9月9日 事件発生。
  
当時高校2年生の

川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁
2001年11月 地検に逆送し、刑事裁判。
2002年 5月30日 静岡地裁沼津支部で初公判。
9月19日 静岡地裁沼津支部での第3回公判でA子が被害に遭ったのは「2001年9月16日」ではなく、1週間前の「9月9日」と犯行日を変更。
10月15日 保釈される。
2005年10月27日 静岡地裁沼津支部で4人に対し懲役2年の判決。
2007年8月22日 東京高裁で1審判決を破棄し、懲役1年6ヶ月の判決。
2009年4月13日 最高裁で上告棄却し、懲役1年6ヶ月が確定。
  
当時高校1年生の平田健児 2002年1月 少年院送致(12月、退院)。
2004年4月 「僕はやっていない」と静岡家裁沼津支部の処分取り消しを申し立て。 
2007年1月 静岡家裁沼津支部が異例の再審開始決定。
2008年2月20日 静岡家裁沼津支部で第1回審判。本人尋問で無実を主張。
  
当時高校1年生のB・C・D 2002年1〜2月 少年院送致(12月、退院)。
  
当時高校1年生のE 2004年 3月 静岡家裁沼津支部で不処分を決定。
12月 東京高裁が静岡家裁沼津支部の不処分を取り消し。
差し戻して地検に逆送し、刑事裁判。
2007年5月29日  静岡地裁沼津支部で懲役2年6ヶ月・執行猶予4年の判決。
2008年9月? 東京高裁で控訴棄却。
2009年4月13日 最高裁で上告棄却で、懲役2年6ヶ月・執行猶予4年+試験観察処分。
  
当時中学3年生のF 2002年2月 保護観察処分。

5月26日、川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁の4人が静岡地検沼津支部に出頭し、川越少年刑務所に収監された。4人ともに懲役1年6ヶ月という判決だったが、未決勾留期間(逮捕から判決確定まで勾留された日数)が9ヶ月あり、その約数ヶ月分が刑期に算入されたため、実際の刑期は4人とも懲役1年1ヶ月〜2ヶ月となった。

刑法21条・・・未決拘留の日数は、その全部又は一部を本刑に算入することができる。

2010年(平成22年)6月28日、川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太の3人が川越少年刑務所から出所。

8月7日、勝亦信仁が川越少年刑務所から出所。未決勾留期間が短かったため出所が他の3人よりも遅れての出所となった。 4人ともに身元引受人がいるにもかかわらず満期での出所となった。

仮釈放するには、大雑把にいうと、身元引受人がいる・改悛の情が認められる・刑期の3分の1を経過している(刑期の3分の1を経過すれば仮釈放の「審査」を行うことができると解釈され、実際は刑期の3分の2を経過していることが条件となる)・事件に対し充分反省している・再犯の虞が少ない・本人が仮釈放を望んでいる・被害者が仮釈放に同意している(殺人や性犯罪などの犯罪は被害者の同意がなければ仮釈は認められない場合が多い)といった条件が必要だが、4人とも満期での出所となった理由が分かっていない。

刑法28条・・・懲役又は禁錮に処せられた者に改悛の状があるときは、有期刑についてはその刑期の三分の一を、無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる。

2011年(平成23年)12月21日、川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁の4人が静岡地裁沼津支部に被害者とされていたA子の嘘の申告で有罪になり精神的・財産的に被害を受けたとして合計2000万円の損害賠償請求訴訟を提起した。

2013年(平成25年)3月13日、静岡地裁沼津支部(山崎まさよ裁判長)で 川井祐二・勝俣貴志・堀内聡太・勝亦信仁の4人がA子に対し合計2000万円の損害賠償を求めていた裁判があったが、山崎裁判長は「刑事手続きの再審で無罪にならなければ民事上の責任追及はできない」とし、賠償請求を棄却した。

元少年たちは地元では札付きの不良で有名だったらしく、暴走族・暴力団ともつながりがあったという不確かな情報まである。だからといってやってもいない事件で逮捕され、裁判で有罪にされていいはずがない。「疑わしきは罰せず」といった法に基づいた理念があるが、それどころか、初めから「有罪ありき」で裁判は進められた感じさえある。そして有罪とした証拠がA子の供述のみで、検察や裁判官は法廷で一度ウソの供述までしたA子の供述を信用し、アリバイがある元少年たちの供述を信用せず、アリバイの調査もしなかった。事件当日の雨に関する科学的なデータさえも採用せず有罪とした。これで、警察、家裁、地裁、高裁、最高裁の下した判断が正しいと言えるのか疑問である。

御殿場事件については計5回?のテレビ放送があった。

2003年(平成15年)2月2日(日)、テレビ朝日系列の『ザ・スクープ SPECIAL』で「検証! 少年10人『えん罪』事件」と題して放送。

2005年(平成17年)12月18日(日)、テレビ朝日系列の『ザ・スクープ SPECIAL』で「親と子が共に戦った1500日 〜御殿場事件、注目の判決は!?〜」と題して放送。

2008年(平成20年)3月9日(日)、テレビ朝日系列の『ザ・スクープ SPECIAL』で「御殿場事件第3弾・・・徹底検証!! 疑惑『雨量ゼロ』」 と題して放送。

2009年(平成21年)6月1日(月)、テレビ朝日系列の『報道発 ドキュメンタリ宣言』で「それでも僕らはやってない〜親と子の闘い3000日〜」と題して放送。それまではいずれも日曜日の午後2時〜3時25分の放送だったこともあって知名度は低かったが、この日の放送は月曜日のゴールデンタイムでの放送で高視聴率を記録したことにより、知名度が大幅に上昇、番組ホームページには2万件以上ものアクセスが集中した。

2012年(平成24年)2月19日(日)、『報道ステーション・サンデー』で「密着10年・・・キャスター長野が追った謎 御殿場事件 “それでも僕らは やってない”」と題して放送。

参考文献・・・
『踏みにじられた未来 御殿場事件、親と子の10年闘争』(幻冬舎/長野智子/2011)
『冤罪File』(キューブリック/2008年9月号/2009年9月号
『静岡新聞』(2012年2月5日付/2014年3月14日付)

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