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現役映画女優愛人刺殺事件

1969年(昭和44年)12月14日、姫路市の北端、広峰山に近いドライブウエイのパーキングエリアの車の中で、大映の契約女優の毛利郁子(当時36歳)が一児までもうけた7年越しの愛人の水田照正(40歳)を包丁で刺した。その後、水田は病院へ運ばれたが、約3時間後に出血多量で死亡した。

日本で、現役女優が殺人を犯したのは初めてのことだった。殺された水田は姫路市で芸能やプロレスなどのプロモートをしており、妻子のいる男だった。

毛利郁子は四国の小都市に生まれた。古い商家の娘で、経済的には不自由なく育った。高校時代から、美貌と大柄な肉体は人目をひいた。高校卒業後、家業を手伝っていたが、田舎にいては勿体ないからと、大分県別府で親戚が経営する温泉旅館のフロント係になった。19歳のとき、全国温泉旅館美人コンテストに応募し、見事に「ミス温泉」に選ばれた。

だが、地元のヤクザに目を付けられ、甘い言葉で外へ誘い出され、監禁され、強姦された。処女を奪ったのは日本生まれの中国人であった。その中国人に言われ、福岡に連れて行かれ、中州のクラブで働かされた。この男は郁子のヒモになった。おまけに嫉妬深く、暴力的でもあった。

耐え切れなくなった郁子は地元暴力団の親分に泣き、中国人のヒモと別れさせてもらったが、今度は親分の2号にさせられた。郁子は若い衆に「姐さん」と奉られる身になり、それはそれでいい気分ではあったが、郁子はここから抜け出したいと思っていた。まるで、B級ヤクザ映画である。

福岡で2年経った。たまたま、大映で新人を募集しているのを知り、断りもなく単身で上京。郁子はテストに合格し、研究生になった。

1956年(昭和31年)、25歳のとき、研究生から本採用になり、月給3万4000円から、一気に7万円になった。

1957年(昭和32年)、26歳のとき、『透明人間と蝿男』に主役として抜擢され、脚光を浴びた。

当時の映画界は、各社ともエロティシズムを前面に押し出し、中田康子(東宝)、泉京子(松竹)、小宮光江(東映)、前田通子(新東宝)、筑波久子(日活)と、肉体派女優を看板にしていた。

毛利郁子は大映の肉体派女優として、遅いスタートを切った。

身長160センチ、体重50キロ、B96・W55・H92という、堂々たる肉体であった。

スタートが遅いのを郁子自身、承知していて仕事には一生懸命だったという。当時、すでにテレビに押され、映画は斜陽化を始めていたという背景もある。

他社のライバルには負けまいと、郁子は肌の露出を多くしていった。裸の他に、何か変わったことをしようと思い、好きな蛇を体に巻きつけて出演した。週刊誌のグラビアにも裸に蛇を巻きつけて気軽に登場した。『白蛇小町』(1958年)、『執念の蛇』(1958年)、『青蛇風呂』(1959年)と、蛇がらみの猟奇作品に続けて登場した。

郁子はアパートに暮らしていたが、青大将やヤマカガシを部屋に放し飼いにしていた。「飼っていると、馴れるから、可愛いものよ」「夏なんか一緒に寝ると、とても気持ちいいの。冷たいから」などと芸能記者に話していた。

福岡の暴力団とは完全に縁が切れ、スターへの道を歩もうとしていた。郁子は大映多摩川から時代劇に向いているということで大映京都へ移された。

毛利郁子が出演した映画作品は、主役を演じた『透明人間と蝿男』(1957年)から数えて『秘録怪猫伝』(1969年)までに全部で51本あったが、勝新太郎演じる「座頭市」や市川雷蔵演じる「眠狂四郎」という大映の人気時代劇のシリーズ作品にも出演した。

郁子は京都でも男で失敗した。郁子が28歳のとき、共演した俳優のS(当時39歳)と京都で家を借りて同棲し、すぐ妊娠して、郁子は正式に結婚するつもりで男児を出産した。ところが、この俳優の母親が東京からやってきて、「お前のような女と一緒にしておいては、子どもの将来のためにならない」と、生後2ヶ月の赤ん坊を連れ去った。郁子はこの俳優との仲も解消、借家から出て、大映の宿舎になっていた佐々木旅館で暮らし始めた。

1962年(昭和37年)2月、郁子が30歳のとき、姫路のヘルスセンターに出演しないかという話があった。郁子は引き受け、興行師の水田照正の家へ挨拶に行った。

水田は自分の妻を「俺の妹だ」と紹介した。

郁子はもともと、胸板の厚い性的魅力のある男が好きであった。処女を奪ってヒモになった中国人も、暴力団の親分も、同棲した俳優もそんな感じの男であった。水田もまた、そういう感じの男に見えた。ショーは何事もなく終わった。

3月、京都の宿舎に、水田から誘いの電話があった。

「今、京都にいるんだが、食事に付き合ってくれませんか」

南座の近くのレストランで一緒に食事をとり、京極あたりを散歩したのち、夜10時ごろ、別れた。

郁子は水田から誠実で紳士的という印象を受けた。宿舎に帰ってからも水田のことが頭から消えなかった。

1週間後、郁子は水田から再び誘われた。

「大阪から漫才師を呼びに来たんだけど、よかったら、一緒にドライブしませんか」

水田は女遊びが激しい男だったが、郁子はそれを見抜けなかった。郁子は女優としての限界は自分でも分かっていた。ドロドロした芸能界も、性に合わなかった。水田と結婚して、芸能界から足を洗いたい・・・。

郁子は誘われるまま、生駒の旅館に入った。

<その夜、私は女の本当の喜びを初めて知ったのです。S(同棲した俳優)と違い、水田は狂暴と思えるほど積極的で、そのセックスは疲れを知らず私を攻め続け、私は気が狂いそうになりました。「キミは一生、連れていく。絶対に放しはせん」と、行為の最中に彼はささやき、私はモウロウとした意識の底でその言葉を聞いたのでございます> (郁子の供述)

しかし、水田に妻子がいることが、いつまでも郁子に分からないはずがなかった。水田の方は秘密がバレても動揺せず、むしろ、それまでの数多くの愛人とのことをあからさまに話したりした。

郁子に求められ、水田は次のような契約書を書いた。(縦書き)

契約書

一、毛利郁子を内妻として、左(下)の通り誓います。
一、私は、もし、事故死または病死のときは、あなたの生活を生涯見ることを約します。
一、もし、他の女性と関係のあるときは、いかなる場合でも、いかなる手切金にも応じます。
一、もし、出産したときは認知します。養育費も見る事。

昭和38年12月9日
                                    水田照正
毛利郁子様

< 『悪女たちの昭和史』(ライブ出版/松村喜彦/1992) >

この契約書を書いた直後、水田の浮気がバレた。相手は郁子の付き人のN子だった。郁子がなじっても水田は平然としていた。

「N子に頼まれて、6万円、都合してやったんだ。そのついでに、その晩、一緒に泊まってな」

郁子は水田の正体を知った。

1966年(昭和41年)夏、郁子は妊娠していることに気がついた。水田は堕ろすように要求したが、郁子は産む決心をした。子育ての準備のため、京都市内に、ローンで建売住宅も購入した。翌1967年(昭和42年)2月、男児を出産した。早産だったが、元気に育った。

郁子が姫路の水田に電話しても「興業で忙しい」「プロレスがあるんだ」「結婚式の仲人をやっている」と口から出任せを並べて、京都へ足を向けようとはしなかった。

1969年(昭和44年)12月8日、水田は前ぶれもなく郁子のところにやって来た。

「ねえ、今晩は、思いっきり、可愛がってね」

恨みも憎しみも忘れ、思わず郁子は、水田にしなだれかかった。

「お前はセックスが好きだからな。独りじゃ、体がおさまらんだろう。どうだい、若い彼氏でもつくってみる気はないかい」

このひと言で火照った体は冷水を浴びたように、一瞬のうちに冷めた。子どもは2歳になっていた。

こんな男、殺してやりたい!

郁子が初めて抱いた殺意である。

12月14日、郁子は正月映画『秘録怪猫伝』を撮り終えた。翌日から新しい映画の撮影に入る予定であったが、姫路へと向かい、途中の金物屋で包丁を2丁買った。

午後1時ごろ、水田の事務所に電話したが、留守だった。その後、姫路へ向かう大通りをなんとなく歩いていたときに、信号のところで、見慣れた水田の車のスカイライン2000GTが停まっていた。郁子は走り寄って車窓を叩いた。運転席の水田はびっくりした様子だったが、すぐに後部座席を開けた。姫路市内では人目をはばかって、郁子はいつも後部座席に乗せられていた。

「話があるから来たのよ」

「とりあえず飯でも食おう」

2人はトンカツ屋へ入った。水田は郁子へ顔を向けず、テレビばかり眺めていた。食事を終え、車に乗り込むと、水田は「頭がスッキリするところへ行こう」と言った。

そして、着いたところが、姫路市の北端、広峰山の山頂に近いドライブウエイのパーキングエリアだった。他に車が2台ほど止まっているだけだった。

「年が明けたら、早々に認知しないとね。さもないと、子どもが可哀相だから」

水田は聞いているのかいないのか窓の外へ目をやったままだった。

午後4時ごろ、水田が口を歪めて呟いた。

「お前、自分で産んだ子ぐらい、自分で負えよ」

これを聞いたとたん、郁子は風呂敷の中から2丁の包丁を取り出した。

「そんなもんで、どうする気だ。やれるもんなら、やってみろ」

郁子は包丁を1丁取られそうだったので、1丁は後部座席に投げ捨て、もう1丁を両手で握り、覆い被さるように体をぶつけた。

郁子はすぐに車の外に出て、助けを求めた。その後、40歳の水田は救急車で病院へ運ばれたが、約3時間後に出血多量で死亡した。

病院で、水田は「俺が自分でやったんだ」と、薄れていく意識の底で、最期まで郁子をかばい続けた。それが、郁子に対するせめてもの償いであった。

事件後、郁子が最後に出演した『秘録怪猫伝』が公開されると、物見高い観客が多数集まり、この作品はヒットした。

神戸地裁姫路支部の法廷で、水田の妻が、「夫が最期まで自分でやったと(郁子を)かばい続けたのは、よほど好きだったのでしょう。夫の趣旨もくんで、どうか寛大なご処置をお願いします」と訴えた。

大映側も永田社長をはじめとする関係者の減刑嘆願書を提出した。

1970年(昭和45年)4月17日、神戸地裁姫路支部は懲役7年を言い渡した。

郁子は「殺意はなかった。ただ、脅かすために2丁の包丁を持っていた」と控訴した。

1974年(昭和49年)9月17日、大阪高裁では「殺意はあったが、残された子どものことを考えると、7年は重過ぎる」として、1審判決を破棄し、懲役5年を言い渡した。

郁子は女子刑務所の和歌山刑務所に収監され、刑に服した。そして3年後には、仮釈放されたが、再び、芸能界へ戻ることもなく、その後、新しい夫を得て平穏な家庭生活を送っているという。

女子刑務所には、札幌刑務所の女区(札幌市)、福島刑務支所(福島市)、栃木刑務所(栃木市)、笠松刑務所(岐阜県羽島郡笠松町)、和歌山刑務所(和歌山市)、岩国刑務所(山口県岩国市)、麓(ふもと)刑務所(佐賀県鳥栖市)、沖縄刑務所(沖縄県南城市)の女区がある。

参考文献・・・
『悪女たちの昭和史』(ライブ出版/松村喜彦/1992)

『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)

日本映画データベース毛利郁子出演映画一覧

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