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藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件

1987年(昭和62年)2月26日の朝、神奈川県藤沢市のアパートで、無残に切り刻まれた死体が発見され、その死体の傍らにいた2人の男女が藤沢北署に逮捕された。捕まったのは、その部屋の住人で、不動産業のS(当時39歳)と主婦で元看護婦の茂木M(当時27歳)。殺されたのはMの夫で、コミックロックバンド「スピッツ・ア・ロコ」のリーダーの茂木政弘(32歳)と分かった。

看護婦・・・保健婦助産婦看護婦の一部を改正する法律(改正保助看法)が2001年(平成13年)12月6日に成立、12月12日に公布、翌2002年(平成14年)3月1日に施行された。これにより、保健婦・士が「保健師」に、助産婦が「助産師」に、看護婦・士が「看護師」に、准看護婦・士が「准看護師」となり、男女で異なっていた名称が統一された。

「スピッツ・ア・ロコ」は、1983年(昭和58年)6月、『キープ・オン・ラブ』『愛論人(アイロンマン)』のシングル2枚とLP『人情』を出し、デビューしていた。ロックではあったが、どちらかと言えばニューミュージックに近い路線で、誰でも楽しめるポップスロックを演奏。ステージでの彼らはそれぞれ祖父母、父母、子どもに扮して、「家族」を演じ、政弘は娘役の女装をした。このユニークな演奏スタイルが注目され、横須賀をはじめ横浜などのライブハウスに出演するようになった。物珍しさもあってライブハウスはいつも満杯だった。政弘のパートはドラムで、作詞や作曲も担当した。容貌がマイケル・ジャクソンに似ていて、「和製マイケル」と呼ばれ、1987年(昭和62年)1月、神奈川テレビに出演した。だが、政弘の表情がいまひとつパッとしなかった。自己紹介も小さな声でボソボソ答えるだけで、あとは笑顔を見せず、一人浮いたような状態だった。その後はライブハウスの出演が2、3本あるだけで、メンバーの中には「いつまでもライブハウスでもあるまい。この辺で脱退して他の仕事にでもつく」と言う者も出てきていた。

Sの部屋を訪ねた知人が部屋に入ったとき、SとMの2人が政弘の足、胴体、頭部をバラバラにし、死体を切り刻んでいる最中だった。死体はノミやノコギリでどれがどこだか分からないほどコマ切れにされ、床には内臓がゴロンと転がっていた。しかも2人とも一心不乱に頭部の骨についた肉をハサミで削り取っており、この知人の通報を受けて駆けつけた警察、両親にもまったく無関心のまま、ひたすら作業を続けていたという。

殺された政弘とSはいとこ同士で、子どもの頃から仲が良かった。音楽だけが生きがいの政弘に対し、Sは不動産業と称してはいたが、実際にはほとんど何もせず、戦争の本を読んでいた。しかも、1979年(昭和54年)に、宝石詐欺の前科があった。これは執行猶予になったが、その後も横浜市内で地上げした土地をめぐってトラブルを引き起こすなど詐欺まがいの行為を続けた。

どうしてこの2人が気が合うのかが不思議だが、2人は頻繁に行き来した。1986年(昭和63年)4月、政弘はMと結婚するが、政弘とSとのこうした付き合いはその後も変わらなかった。

3人に共通していたのは、いずれも横浜市にある新興宗教団体の大山祇命(おおやまねずみのみこと)神示教会に入信していたことだった。この教会は横浜に本部を置き、当時信者数は70万人を超えていた。中でも殺された政弘は、両親ともに熱心な信者で、1974年(昭和49年)入信、1985年(昭和60年)に脱会している。妻のMも1979年(昭和54年)入信、1986年(昭和61年)に脱会している。さらに、Sもこの新興宗教の熱心な信者だった。そもそも宗教団体を紹介したのはSだった。

一方、Sはミュージシャンである政弘に「世の中は悪魔でいっぱいだ」「悪魔を祓い、救世の曲を作れるのは政弘しかいない」「政弘は音楽でこの世を良くするように神から送られてきた使いだ」などとふきこんでいた。

その言葉を信じていた政弘は、事件前にSの部屋に泊り込んで、「救世の曲」作りに没頭していたという。

その頃、政弘とMとの間に別れ話が出ていたことやロックバンドの解散話が出るなどのトラブルがあった。Sはこれは「悪魔が取り憑いている」せいだと言い出し、政弘も「悪魔が取り憑いていた。祓ってくれ」と言い出した。

同年2月22日の午後、Sと向き合うようにして悪魔祓いを行った。3本のロウソクに火をつけた「祭壇」の前で、にらめっこをしたり、身体に塩をすり込んだりしていた。そこにMも加わって悪魔祓いをした。

政弘が先に目をそらせば悪魔が去ったことになるというものだったが、政弘はとうとう最後まで目をそらさなかった。そのため、Sは、「肉体が死ななければ悪魔も死なない」と政弘の殺害を決意した。MはSの言葉を信じて疑わず、政弘の首を絞めるSを手伝って殺した。

悪魔を追い払えば死体が生き返ると信じたらしいが、その後、2人は悪魔が再び乗り移らないように、3日間ほとんど眠らずに政弘の死体を切り刻み、頭蓋骨などに塩を詰めていたという。2人は儀式の最中、政弘が作っていた「救世の曲」をカセットで聴き、口ずさみながら死体を解体、ナイフやハサミでそいだ肉や内臓は台所から排水溝に流していた。アパート脇の下水の側溝には肉片が散乱し、回収できないほど遠くまで流れていた。

SとMは捕まったとき、「悪魔、悪魔」と口走っていた。

3人がかつて所属していた宗教団体では、「悪魔」や「悪魔祓い」の言葉は存在せず、まして死体を切り刻むなどというまじないなどもない。

この事件は犯人のどちらかが発端者になり、もう1人が巻き込まれて2人同時に感応精神病になったものと言われた。感応精神病とは、精神異常者の宗教的恍惚感や幻覚などが、それを信じる暗示性の強い人に伝わり、同じような症状を起こす病気。

だが、1992年(平成4年)5月13日、横浜地裁は、「精神鑑定の結果、2人とも善悪を判断する能力があった」として、Sに懲役14年、茂木Mに懲役13年(ともに求刑・懲役15年)の刑を言い渡した。

その後、Sは控訴したが、東京高裁で控訴棄却となり、Sの懲役14年が確定した。

この事件については参考にした文献すべてにおいて、殺害の動機やその状況が異なった記述になっているため、その部分については最も詳細に書かれている『バラバラ殺人の系譜』(青弓社/龍田恵子/1995)を参考にした。

この藤沢での事件に続いて、翌3月から5月にかけ、次のような「信仰殺人」事件が続いた。

1987年(昭和62年)3月、千葉県野田市で、新興宗教を信じるA子(当時57歳)が孫で男児のBちゃん(1歳)を絞殺するという事件が起こった。A子が新興宗教に入ったのは1984年(昭和59年)ころで、毎週の集まりにもほとんど欠かさず参加するほどの熱心な信者だった。A子は若い頃、息子と娘を出産後、精神状態が悪くなったことがあるが、年月とともに回復した。ところが、息子のC(当時32歳)のすし店が経営不振になってから、また精神が不安定になった。Cはすし店を閉店し、自分の妻と3人の子どもを連れて、母親のA子と一緒に暮らすことになった。しかし、それ以降、A子は夜眠れない状態が続き、「悪霊がいる」と口走るようになった。一緒に暮らし始めてから数日後の午前6時過ぎ、A子は放心状態で「子どもの悪霊を取り除いた。Bは血しぶきをあげてあの世へいった。みんなで拝め」と口走っていた。驚いたCはBちゃんの布団を上げると、すでに冷たくなっていた。取り調べに対してもA子は、「孫が可哀相」と言ったかと思うと、「家に帰らなくては」と突然、立ち上がったりするなど、精神が不安定であった。

4月14日、長崎県で、両親が見守る中、長女(当時32歳)と長男(当時47歳)が次男(41歳)を殴る蹴るの暴行を加え、出血多量で死なせている。調べによると、長女は自称祈祷師で、次男が炭鉱が閉山になったために3日前に帰省、この日未明、首が痛いと訴えたために「これは狐が取り憑いている。悪霊を祓わなくてはならない」と、長男と2人で次男を押さえつけ、胸や腹などを足で踏みつけたり投げつけたりして肋骨骨折による心臓内出血で死亡させた。午前4時ごろ、次男の様子がおかしくなったので慌てて病院に運んだものの、約1時間後に死亡した。

5月18日、北九州市で、女祈祷師(当時56歳)が自宅で体の不調を訴えた信者を次々と放置したまま死なせた遺体が発見された。死後1年半経った女性(74歳)の白骨死体が見つかり、さらに翌日には、なんと「祈祷で生き返る」と信じていた家族がこの祈祷師に預けていた女性(65歳)の遺体が見つかった。さらに、2日後、白骨化した男の乳児の遺体も見つかった。この日、祈祷師のマンションを訪ねた人が「部屋の中から異臭がする」と警察に届け出て事件が発覚した。祈祷師は事情聴取に対し「自分たちは神の子である。死者を蘇生させる儀式をしていた」「自分は猿田彦の生まれ変わり」と語り、3つの死体と同居し、誰にも知らせずに祈祷を続けていた。祈祷師は内縁の夫(当時57歳)とともに、1982年(昭和57年)ころ、不動明王、大日如来などの祭壇、仏像などを部屋に備えて信仰生活に入り、信者も約8人いた。今回、死体で見つかった2人の女性も信者であった。いずれも病気を抱え、祈祷師宅に熱心に通っていた。遺体で発見された男の乳児の母親も信者で、祈祷師や信者たちの手伝いのもとに長男を出産したが、その際、生まれた長男を祈祷師が「この子は猿田彦の神の子、私に預けなさい」と自宅のマンションに引き取っていた。祈祷師は預かったこの乳児を祭壇の前に寝かせ、おしめを取り替えたり、水やリンゴジュース、重湯などを与えていたが、生後1ヶ月ほどで急死。だが、その死体を祭壇の前に置いたまま、「猿田彦の神が私の体内に入っている。蘇生させる」と祈祷を続けていた。この間、乳児の母親は何度も「子どもに会わせて」という電話をしているが、「神のお告げで誰も来てはいけない」と来訪を拒否、子どもが死んだことも知らせていなかった。

参考文献・・・
『バラバラ殺人の系譜』(青弓社/龍田恵子/1995)
『極悪人』(ワニマガジン社/1996)
『実録 戦後殺人事件帳』(アスペクト/1998)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『猟奇殺人のカタログ50』(ジャパン・ミックス/CIDOプロ編/1995)

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