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エジプト外国人観光客襲撃事件

1997年(平成9年)11月17日午前9時15分(日本時間で午後4時15分)ころ、エジプト南部の観光地で有名なルクソールで、日本人やスイス人などの観光客がテロリストグループによる銃の乱射で死傷した。

ルクソール・・・エジプトの首都・カイロから南に約700キロ離れたナイル河東岸にある人口約5万人の観光地。古代の大都市テーベが繁栄した場所で、古代エジプト王朝の遺跡「王家の谷」や「カルナック神殿」、「ルクソール神殿」などの大規模建築物の遺跡が数多く残されている。カイロから飛行機で1時間、年間約6万人といわれる日本人観光客の多くが立ち寄る。

観光客がルクソール郊外のナイル河の西岸にあるハトシェブスト女王葬祭殿(デイル・アルバーリ寺院)の観光を終えて、外に出ようとしたところを待ち伏せていた6人(8人説や11人説もある)の武装テロリスト集団が葬祭殿入り口の3人の守衛を襲った後、観光客に向けて銃を乱射。さらに、短剣などで刺したという。

テロは警察官らが現場に到着するまでの約30分間続き、葬祭殿前の広場は次々に倒れた観光客で血だらけの修羅場となった。

事件発生当時は、「外国人観光客を乗せたバスが襲撃された」あるいは「乗っ取られた」といった報道がされた。

ルクソール警察の発表によると、主犯4人と外にいた2人は合流後、誰もいない観光バスに乗り込み逃走。一方、エジプト人住民らの目撃では、4人は入り口付近にいたタクシー運転手を脅して車に乗り込み、約300メートル離れた駐車場でほかの2人と合流、運転手1人が乗っていた観光バスを乗っ取ったという。

その後、一部の住民は走るバスを止めようとしがみつき、100人以上の警官隊は発砲するなど壮絶な逃走劇を展開。前方を警察車両に封鎖された犯人グループは、バスを捨てて走って「王家の谷」方面へ向かったが、警官隊に追いつかれ、6人全員射殺された。

これによって、日本人10人、スイス人43人、イギリス人4人、他3人の計60人、エジプト人のガイドや警察官計3人、テロリスト6人の合わせて69人(67人あるいは68人と発表した報道機関もあり不明)が死亡し、85人が負傷した。ルクソールではこれまでこうしたテロは発生したことがないという。

テログループの6人はいずれも20歳代で、ルクソールから北へ約60キロ離れたケナを活動拠点とし、そこから徒歩で砂漠を縦断してルクソールに入り、警備が手薄で構造上も攻め込みやすい現場の葬祭殿を選んだと見られている。調べでは、リーダーはマハモート・ファラシューティと名乗る20歳代半ばの男性。過去に警官を襲撃したり観光客を襲おうとするなど「危険人物」とされ、数年前から指名手配を受けていた。

ルクソール警察が遺留品として押収したのは、ロシア製旧式自動小銃のカラシニコフ6丁、ナイフ2丁、未使用弾丸約40発など。弾は観光客の乱射や警官隊との銃撃戦でほとんど使い果たしたと思われ、同警察では、200〜300発は撃っていたのではと推測している。また、他に押収された物に、リュックサック大のバッグがあり、中に食料のビスケット、紅茶などが入っており、現場付近に残された車両はなく、ケナからルクソールに至る道路の警戒拠点を通過した形跡もないことからも、砂漠地帯を歩いて縦断してきたと見られている。

さらに、この6人は観光客を装った身なりの下に、グループの制服と思われる黒っぽい上下服を着用していたことも分かった。赤いストライプの入った濃紺のベレー帽に赤いはち巻きも用意、観光客を襲う時点で、これらに着替えた可能性が強いという。このはち巻きには、<死ぬまで撃ち続ける>と書いてあったとか。(自分が死ぬまでなのか、相手が死ぬまでなのか分かりませんが・・・)

被害にあった日本人観光客は、大手旅行会社「JTB」が企画したエジプト・ギリシャ10日間のツアーに参加、8人(4組)の新婚夫婦(26歳〜32歳)と2人(1組)の夫婦(64歳と62歳)と女性添乗員1人(47歳)の合わせて11人で遺跡を訪れていた。このうち、添乗員1を含む10人が死亡、新婚夫婦の夫(当時29歳)が重体となった。遺体の検視の結果、ほとんどの人が正面から撃たれていた。

殺された日本人の遺体の脇には、犯行声明とおぼしきビラが残されていた。ロイター通信によると、ビラには<観光客はエジプトから出て行け>と書かれており、<アブドゥル・ラーマン師の破壊部隊>という組織名が書いてあったという。

オマル・アブドゥル・ラーマン・・・イスラム原理主義の過激派組織「イスラム団」の精神的指導者。1940年(昭和15年)、エジプト・ファイユームに生まれるが、幼少時に失明している。1981年(昭和56年)10月6日のサダト・エジプト大統領暗殺(「イスラム団」の姉妹組織「ジハード」が実行)に際し、暗殺を正当化する「ファトワ」(高位聖職者が下すイスラム法判断)を発布した容疑で逮捕され、激しい拷問を受けたとされるが、1985年(昭和60年)に無罪となって釈放。1986年(昭和61年)に別件で短期間投獄されたあと、海外に出国した。その後は、サウジアラビア、スーダン、パキスタンなどを転々としながら、各地の支持者に異教徒の侵略者(イスラエル、ソ連など)や世俗政権(特にエジプト)に対する聖戦を呼びかけた。アラブ人義勇軍をアフガニスタンの戦場に送る運動でも大きな役割を果たしたとされる。1990年(平成2年)7月、危険人物としてすでに有名だったアブドゥル・ラーマンがなぜかすんなりアメリカに入国し、ニュージャージーに移住した。その後、ジャージー・シティのアル・サラーム・モスクを拠点にエジプト政権批判運動を展開。1992年(平成4年)ごろから国内外で活発なテロ活動を開始。テロの対象となったのは政府関係者などの他は、軍、警察官、外国人観光客、ベールをしていない女性などであった。1992年(平成4年)からの5年間で、兵士や警察官など1100人を殺害している。このうち外国人観光客は、今回の事件を除くと34人を殺害している。 このため1993年(平成5年)の観光収入は、前年比42%も減った。1993年(平成5年)2月のニューヨークの世界貿易センタービル爆破事件、1995年(平成7年)、エチオピア訪問中のエジプトのムバラク大統領を狙った暗殺未遂事件、同年11月のパキスタン・イスラマバードのエジプト大使館襲撃事件の首謀者として、アメリカで終身刑が下された。このため、今回のルクソールでの観光客の虐殺を実行したのは、「イスラム団」のメンバーあるいは同調者と見られている。

イスラム原理主義・・・イスラム教に基づく国造りをすべきだ、という考え方。イスラム教は、その体系の中に刑法や商法に相当する法律などを含んでおり、イスラム法だけを使って国家運営をすることができる。それを実行しているのが、イランなどイスラム急進派の国である。一方、エジプトでは政教分離を実施しており、イスラム教は宗教としてのみ存在し、政治や法律は欧米から導入したものを使っている。今回の事件に見られるような残虐なテロリズムにつながっているが、その半面、欧米やイスラエルにやられっぱなしのアラブ地域、イスラム社会を団結させるための思想的な道具としても使われている。

原理主義の最大勢力は、1928年にエジプトで結成されたスンニ派の「ムスリム同胞団」で、非合法ながら、事実上、国内最大の野党勢力。サダト前大統領を暗殺した「ジハード団」などの過激主義組織は、同胞団の穏健路線に反発する勢力。

事件のあったこの日は、政府要人の殺害を計画したとして逮捕された「イスラム団」のメンバーなど66人に対する裁判が始まる日でもあり、犯行が裁判に反対する意味を持っていた可能性もあると見られている。

エジプトでは、1997年(平成9年)9月18日にも首都カイロの中心部にある観光地のエジプト考古学博物館の前に停まっていた観光バスがイスラム原理主義過激派に爆弾と銃で襲撃され、乗っていたドイツ人ら10人の観光客が死亡し、15人のエジプト人が負傷している。 10月30日に、同事件の被告に対して、死刑の判決が出たばかりで、今回の事件は、現地ではこれに対する報復テロという見方もしている。

また同年11月13日には、エジプト南部のテロリスト拠点となっている町の近くを通る鉄道で、観光客用の豪華列車が銃撃され、警察官など3人のエジプト人が殺された。

そして、同年11月17日、今回の事件である。

翌18日、葬祭殿は見物が再開されたが、訪れる客はまばら。旅行代理店関係者は「ルクソールの町全体を見ても、ふだんに比べグンと少ない感じ。これからもっと減るかも」と心配する。ホテルや航空券のキャンセルが相次ぎ、“常客”の日本人の姿が減るなど、事件は余波を残している。

同日、エジプトのムバラク大統領は、事件現場を視察し、「犠牲になった日本人ら外国人の遺族に心から哀悼の意を表したい」と語った。また、大統領府によると、治安の総責任者であるアルフィ内相は同日、事件の責任をとって辞意を表明し、受け入れられた。事実上の解任と見られる。ムバラク大統領は、有力側近の1人をあえて解任することで、治安面強化の決意を内外に強く示したようだ。

同日、日本人観光客10人の遺体と重体になった男性の1人が、カイロ郊外のマーディー陸軍病院に空路移送された。日本からの遺族は日本時間の20日朝にカイロ入りし、病院内に安置された遺体の最終的な身元確認した。

観光客を狙ったテロの目的は、エジプトにとって最大の外貨収入源である観光業に打撃を与えることにあった。外国からの観光客をテロの対象にすることで、エジプトへの観光客を減らし、そうすることで、エジプトの経済は打撃を受け、政府に対する人々の不満をかきたてて政府転覆を図るという筋書きであった。テロを起こしている人物は、いずれもイスラム原理主義者と見られている。

そのため、エジプトへの観光客は激減していたが、政府は1995年(平成7年)に、イスラム原理主義に対する大規模な取り締まり、弾圧を行い、穏健派の原理主義系元国会議員なども逮捕した。こうしてテロリズムは下火となり、観光客は再び増えるようになっていった。

その後、イスラム原理主義の組織は壊滅したと見られていたが、小さなテロ集団が互いに組織されない状態で、エジプト国内に残っていることが、次第に明らかになってきていた。こうした中心を持たない過激派組織は、ひとつを摘発しても他のグループには波及しないことから、全体を潰すことは難しく、そのため、エジプトでのテロ行為を減らすことは簡単ではないと考えられている。

12月8日付のアラブ紙『アルハヤト』によると、エジプト南部ルクソールの観光客襲撃事件で犯行声明を出したイスラム過激派組織「イスラム団」は、観光客や観光産業への攻撃中止を決定した。報道によると、同組織はルクソールの事件を検討した結果、組織内の指揮命令系統の混乱によるミスで生じたと結論付けた。その上で、多数の死傷者を出した事件に困惑、組織内の今後の混乱を防ぐため、中止決定を発表したという。しかし、決定の経緯や背景などは不明な点が多く、治安当局などで分析を急いでいる。エジプト政府は「テロ組織との対話は一切行わない」と徹底対決の姿勢を打ち出している。

事件の翌年の1998年(平成10年)4月15日、事件によって死亡した女性添乗員(47歳)の母親(当時78歳)がエジプト政府に対し、総額9500万円の損害賠償を請求していたことが分かった。3月18日にエジプト大使館に申し入れ書を提出した。

6月15日、死亡した日本人観光客の遺族5人が、「危険が予想できたのにツアー客に情報を提供しなかった」としてJTBと関連会社のディスカバーワールド社に総額6億5000万円余の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こしている。

その後、損害賠償についてどうなったのか不明。

参考文献・・・
『毎日新聞』(1997年11月17日付/1997年11月18日付/1997年11月19日付/1997年11月20日付/1997年12月9日付/1998年4月16日付/1998年9月18日付)
『文藝春秋』(2001年10月増刊号)

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