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中国自動車道少女死亡事件

2001年(平成13年)7月24日午後10時半ころ、神戸市北区長尾町上津(こうず)の中国自動車道下り線の路肩(西宮北インターチェンジから約5.7キロ西の地点)で、大阪市東淀川区瑞光5、大阪市立新北野中1年生の上家法子(かみいえのりこ/12歳)が頭から血を流して倒れているのを通りかかった車のドライバーが見つけ110番した。

法子は紺色の半そでTシャツに短パン姿で裸足、両手には手錠がかけられ、全身に打撲の跡があり、後頭部と左太ももを骨折していた。この手錠は金属製の頑丈なもので、警察が使用するものとは違う市販品だが、ミリタリー専門店など限られた店でしか販売していないことが判明した。

その後、兵庫県西宮市山口町の病院に運ばれたが、約4時間半後の25日午前3時ごろ、死亡した。

兵庫県警は発見現場が徒歩では侵入できない場所にあることから、法子が何者かに誘われたか拉致され、車内で殴られた上、車から投げ捨てられたか逃げようとして自ら飛び降りた可能性があると判断、その状況から「未必の故意」による殺人罪が成り立つとした。その後の調べで、法子が車から転落した際に頭を骨折し、さらに、現場で大型トラックに轢かれたことによって左太ももを複雑骨折したと断定した。死因はその際の失血死と判明した。

通報したドライバーは法子を発見し、その横を通過した後、もう一度見ようとバックしたが、そのとき、緑色の幌のついていた10トントラックが法子の足を轢いて通過したところを目撃しており、その後、110番通報したという。このトラックは法子を避けようとしたがよけきれずに轢いた後、そのままのスピードで逃げたという。

法子の家族は父親(当時55歳)と母親(当時35歳)、姉(当時15歳)、妹(当時10歳)、弟(当時9歳)の6人家族である。

事件の約1年前の2000年(平成12年)8月13日、当時、小学6年生だった法子は、姉と一緒に大阪市中央児童相談所を訪れ、「家族と離れて生活したい。しんどい。家に居場所がない」と訴え出た。児童相談所は家庭環境から自宅で過ごすのは無理と判断、法子は11月から家族と離れて大阪市淀川区内の児童養護施設で暮らすことになり、そこから新北野中に通学していた。姉も1ヶ月後に、別の施設に入所した。児童相談所がこの家庭に介入したのは、父親の法子やその姉に対する度を越えた虐待が主な理由であった。この事実は学校側も把握しており、法子は施設のある学区の小学校に転校したという。

法子を知る友人によると、法子は小学5年の後半頃に、公衆電話から“活動電話”を始めるようになったという。「活動電話」とは彼女らの隠語で「テレクラに電話し、エンコー(援助交際)の相手を探すこと」

2001年(平成13年)7月16日、法子は学校から戻った後、「歯医者に行く」と言って外出したが、そのまま行方が分からなくなり、両親が大阪府警淀川署に保護願を出した。

7月17日、法子の父親が東淀川区の自宅近くで法子を見つけ連れ戻した。

7月18・19日、法子は「体調が悪い」という理由で学校を休んだ。

7月20日、この日から夏休みに入り、法子が東淀川区の自宅に戻った。

7月21日、両親が法子が使用するための携帯電話を購入。これまでの調べで、法子の携帯電話には頻繁に男性から連絡が入っていたといい、友人に「何人かの男性の知り合いがいる」と打ち明けていたことが分かっている。

7月23日、帰宅が遅い法子を心配した父親が自宅周辺を捜していたところ、午後9時ごろ、阪急京都線上新庄駅付近で見つけた。帰宅するよう諭したが、法子ははいていたスリッパを脱ぎ捨て裸足で走って逃げた。法子はこのとき、テレクラの相手に会いに行く途中だった。

7月24日午前2時ころ、法子は東淀川区で女友達らと一緒にいたが、「若い男の人と会う」と言い残して、大阪府吹田市南部の橋近くに向かった。そこで別の女友だち2人と落ち合い、若い男2人が乗った白色ワゴン車で、男のうちの1人の大阪市内のマンションに行った。この5人は明け方にいったん解散した。

午後4時ころ、法子は再び女友達らと吹田市内で集合し、JR吹田駅前のスーパーで遊んでいたが、法子が携帯電話で誰かと話した後、、「待ち合わせしている」と言い残し、1人で自宅近くのファミリーレストランに向かった。約5分で戻ったが、ひどくおびえていたため、女友達が法子の携帯電話の着信記録から相手に電話した。すると、電話に出たのは男性で、「また(法子と)会う」とも言ったという。声から判断して、中年風だったという。    

午後5時過ぎ、法子の母親が大阪府警東淀川署に捜索願いを出した。

午後8時半、法子は吹田駅の近くにあるスーパーの前で、小学校時代の友人6人と一緒にいたが、そのとき、法子の携帯電話が鳴り、一緒にいた友人に「男友だちに会いに行く。ちょっと遅くなるかもしれない」と言った。友だちが「誰に会うの?」「顔も知らない男の人は危ないよ。会ったらだめ」と制止したが、法子は自転車に乗ってJR吹田駅に1人で向かった。このときの法子の所持金は約2000円で、この時点で着ていた上着はオレンジ色のTシャツだった。

午後9時ころ、法子は自宅の母親に、「JR吹田駅前のダイエーにいる」などと話している。

午後10時10分ころ、法子はさっきまで一緒にいた友人の携帯電話に、「男友だちから電話があって行くことにした。スーパーには戻れない」と連絡した。友人の「どこにいるの?」の問いに「別に」と答え、「迎えに行かないといけない」と涙声で言っているが、このとき、すでに中国自動車道を走っているものと見られている。

午後10時15分ころ、法子が携帯電話で父親に、「お父さん、今から1人で帰るから」と話している。そのとき、法子は無理に元気を出したような声で第三者に確認しながらの会話だったような気がすると父親は語った。その後、携帯電話の電源が切られていたことが判明する。

午後10時半ころ、法子が一緒にいた友人のところから30キロ離れた高速道路の上で発見される。このとき、法子の携帯電話は発見されておらず、法子が着ていたのは紺色のTシャツであることから2時間の間に着替えていることになる。

9月8日、兵庫県香住町(現・香美町)立香住第一中学教諭のF(当時34歳)が逮捕監禁致死容疑で逮捕された。Fは「自分がやったことに間違いありません」「相手が12歳と分かって援助交際するつもりだった」と全面的に容疑を認めた。

法子の携帯電話の通話記録を調べたところ、最後に法子を誘い出した人物はプリペイド式携帯電話を使っていたことが判明したが、身分証明書類の提示が義務付けられる以前に購入したプリペイド式携帯電話だったため、所有者の特定は難航した。

プリペイド式携帯電話・・・プリペイドカードを購入し、前払いした料金分だけ通話できる携帯電話。1998年(平成10年)にツーカーホン関西が売り出し、その後NTTドコモなども販売を始めた。各社代理店などのほか、コンビニでも買える。本体は数千円から1万円を超えるものもあり、カードは3000円(約30分通話)が主流。30〜60日の有効期間内は着信できる。月々の基本料金や契約時の身分確認などは不要だったが、2000年(平成12年)4月の横浜の小2誘拐事件などでプリペイド式携帯電話が使用されたことから身分証明書類が義務付けされるようになった。
横浜の小2誘拐事件
[ 横浜の小2誘拐事件 ] 2000年(平成12年)4月20日、横浜市の路上で横浜市神奈川区のクリーニング店勤務の秋山勇人(当時30歳)の長男で小学2年の徹君(当時7歳)が下校中に車で連れ去られた。その後、自宅に3000万円を要求する電話があり、秋山は言われたまま指定された銀行口座に792万円振り込んだ。その後、現金自動受払機(ATM)から計296万円を引き出された。犯人との電話での連絡回数は48回にも及んだ。神奈川県警が身代金目的誘拐事件として捜査中、兵庫県警が神戸市北区の有馬温泉で不審な男を任意同行、持っていたプリペイド式携帯電話の番号が強迫電話で秋山が教えられた番号と一致したため、元タクシー運転手のM(当時37歳)を緊急逮捕した。2000年(平成12年)4月25日午前3時26分、Mの供述から徹君を110時間ぶりに横浜市神奈川区片倉のアパートで無事保護、一緒にいたクリーニング取次ぎ業のH(当時55歳)も現行犯逮捕した。犯人の2人は犯行の約1ヶ月前の3月中旬から徹君の誘拐を計画し、3月21日、犯行に使ったプリペイド式携帯電話を横浜市内のコンビニで購入。秋山の自宅を下見するなど入念な準備をしていた。2人にはそれぞれ約600万円と約120万円の借金が消費者金融などにあり、「徹君を殺すつもりはまったくなかった」と供述した。現金の受渡しに使われた口座は届け出の住所や名義人が実在しない架空口座だった。2001年(平成13年)3月29日、横浜地裁はMとHに懲役10年(いずれも求刑・懲役13年)の実刑を言い渡した。

Fが捜査線上に浮上したのは、プリペイド式携帯を持っていて、法子の場合と同様に、ツーショットダイヤルで知り合った女性に手錠をかけて遊ぶ特異な性癖があるという、テレクラ業者からの聞き込みからだった。Fは携帯を2本持っており、プリペイド式はテレクラ専用だったことも判明。法子との通話は事件当日だけだった。 また、Fの自宅に手錠が多数あったことも判明した。

Fは兵庫県西宮市出身。和歌山大学教育学部を卒業後、1989年(平成元年)から西宮市の中学校で社会科の臨時講師をしたのち、1993年(平成5年)、正式に教員に採用され、香住第二中学校に赴任した。この中学の同僚によると、Fの評判は「気が小さく、真面目な性格」「女子生徒の扱いが苦手」だったという。1999年(平成11年)4月からFは香住町立第一中学で社会科教諭として勤務していたが、生徒によると、「授業中に座っている女子生徒の後ろから覆い被さることが何度もあった。気持ち悪くて、みんな社会科の授業を嫌がっていた」「女子生徒と援助交際しているという噂が校内でひろまっていた」という。

Fは同僚の男性教諭に「女子生徒をどう扱ったらいいのか分からない」「自分の気持ちが生徒に伝わらない」と悩みを打ち明けたことがあったらしい。

2001年(平成13年)4月からFは2年生を担任し、陸上部の顧問も務めていたが、6月15日から心身症での通院を理由に休職願を出し休んでいた。その後、夏休み直前に成績表の引き継ぎで登校した以外は、一度も出勤していなかった。

事件発生後の7月30日ころ、Fが勤務する香住町立第一中学の校長は豊岡市内の喫茶店でFと会って話をしている。Fは独身で1人暮らしだったが、「夜は午前0時ごろ寝て、朝は7時ごろ起きている。家ではテレビを見たり、本を読んだり、ゆっくりと生活している」と落ち着いた様子で話している。

Fの供述によると、7月24日午後9時ころ、JR吹田駅で自分のワゴン車に法子を乗せ、宝塚インターから中国道に入り、中国道の路側帯に車を止め、いたずらした後、催涙スプレーをかけ、逃げ出さないように手錠をかけた上、手錠を座席に固定。ビデオ撮影するために福知山市内のホテルへ向けて走り出した。催涙スプレーと手錠に驚いた法子は「早く帰して。手錠を外して降ろしてほしい」と訴え、固定された手錠を座席から外し、後部座席のスライド式のドアを開けて飛び降りたという。

さらに、Fは6月9日にも京都府の無職の少女(当時17歳)とテレクラで知り合っていたが、同じ手口で暴行してビデオ撮影していたことが判明した。Fは自分のプリペイド式携帯電話と通話したことが分からないように、女子高生の携帯電話を奪ったという。

2001年(平成13年)9月29日、神戸地検はFを監禁致死罪で起訴した。

9月30日、法子をひき逃げした容疑で兵庫県警交通捜査課などの事情聴取を受けていた鳥取県名和町の男性(53歳)が休憩中に首つり自殺を図り、運ばれた病院で約8時間後に死亡した。

男性は調べに対し、「トラックを運転中、黒い物体をまたぎ衝撃を感じたが、人間かどうかは分からなかった」などと供述していたという。交通捜査課は「捜査上の問題はなかった」としている。

交通捜査課によると、男性はNシステム(自動ナンバー読み取り装置)の情報などから浮上。交通捜査課は29日朝から、西宮市内の高速隊西宮北分駐所で任意の事情聴取を開始。同日はいったん帰宅させた後、30日も再び事情を聴いていた。

同日午後0時50分ころ、昼食のため聴取を中断し、男性を一人で外出させた。午後2時になっても戻らないため、捜査員が捜したところ、午後2時20分ごろ、男性が無線塔の階段にロープをかけ首を吊っているのを発見した。現場にあったかばんから「迷惑をかけた」とする家族や上司あての遺書も見つかったという。

男性は、運送会社の米子支店に勤務。事件当日、京都市から岡山県津山市に、10トントラックで雑貨を運んでいたという。

10月5日、兵庫県教委はFを懲戒免職とした。同時に監督責任を問い、同校の校長と教頭を「綱紀粛正や服務規律の徹底が不十分だった」と判断して、戒告処分にした。

10月12日、兵庫県警有馬署捜査本部は、Fを別の少女からホテルで金を奪った強盗容疑で追送検した。調べによると、同年6月9日、ツーショットダイヤル形式のテレクラを通じて知り合った京都府福知山市の無職の少女をホテルに連れ込み、両手に手錠をかけた上、約3万円入りのポーチを奪った疑い。Fは「援助交際に使う金が欲しかった」と供述した。

11月27日、神戸地裁で初公判が開かれた。Fは監禁致死罪の起訴事実については全面的に認めたが、強盗罪に関しては否認した。

2002年(平成14年)2月18日、神戸地裁で論告求刑公判が行なわれ、検察側は「被告の責任は殺人罪に比肩するほど重大」などとして懲役12年を求刑した。

3月25日、神戸地裁でFに対し森岡安弘裁判長は「卑劣かつ自己中心的で刑事責任は重い」としながらも、被害者が車から飛び降りて死亡したことは「全く予想しない事態だった」との弁護側の主張を認め、懲役12年の求刑に対し懲役6年を言い渡した。

森岡裁判長は判決理由で「性的欲望のまま、被害者を援助交際の対象にし、死亡させる重大な結果を招き、教員に対する社会の信頼を失墜させた」と指弾。しかし、「殺人罪に比肩する」とした検察側の主張を退け、Fとの接点となった援助交際について「被害者にも落ち度が全くなかったとは言えない」とした。

3月28日、神戸地検は神戸地裁の判決を不服として大阪高裁に控訴した。

10月15日、大阪高裁(白井万久裁判長)で控訴審初公判が開かれた。検察側は「女子生徒は被告に殺されたも同然。被告に有利な事情はなく、1審判決は不当」と主張。弁護側は「被告は女子生徒の飛び降りを全く予想できなかった。1審判決が軽いとは言えない」と反論して結審した。

11月26日、大阪高裁は神戸地裁の懲役6年を支持し、検察側の控訴を棄却した。

判決理由で白井裁判長は「少年少女を指導する立場にありながら破廉恥きわまりない行為」と被告を批判する一方、「飛び降りは予想外の行為。テレクラを利用した少女にも多少の落ち度があった」と述べた。

参考文献・・・
『事件 1999−2000』(葦書房/佐木隆三+永守良孝/2000)
『殺ったのはおまえだ 修羅となりし者たち、宿命の9事件』(新潮文庫/「新潮45」編集部/2002)
『毎日新聞』(2001年3月29日付/2001年7月25日付/2001年7月26日付/2001年7月27日付/2001年7月28日付/2001年9月9日付/2001年9月10日付/2001年9月11日付/2001年9月29日付/2002年2月18日付/2002年3月25日付/2002年3月28日付/2002年10月15日付/2002年11月26日付)
『神戸新聞』(2001年10月1日付/2001年10月6日付/2001年10月13日付/2001年11月28日付)
『週刊文春』(2001年8月9日号)

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