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荒木虎美3億円保険金殺人事件

【 「事故」発生 】

1974年(昭和49年)11月17日午後10時ころ、大分県別府市の国際観光港第3埠頭の岸壁から、日産サニーが暗い海面に転落した。テールランプが海中に消えて5秒くらい経ったころ、暗い海から男の声がした。

「助けてください!」

近くでは、何人かの太公望がチヌを狙って竿を出していたが、釣り人の1人が男の声のする方を懐中電灯で照らすと、岸壁から7、8メートルのところで男が泳いでいた。釣り人が慌てて、タモを差し出してやると男はそれに掴まった。やがて男は岸壁に上がって事無きを得た。

男は荒木虎美(とらみ/当時47歳)であった。荒木は一命にかかわる大事なことを岸壁に引き上げられてから、突然、言い出した。

「ありがとう。私はいいが、実は車の中には家内と子どもが残っている。私が運転すればよかった」

同乗者がいると聞いて、釣り人は慌てた。やがて、パトカーが到着。第3埠頭は、それから夜半にかけて救助隊と野次馬で騒然となった。

午後11時40分、転落した車が海中から引き揚げられた。車の中には、荒木の妻の玉子(41歳)、長女の祐子ちゃん(12歳)、次女の涼子ちゃん(10歳)の3人がいた。3人は溺死していた。

一方、救出された荒木は近くの内田病院に運ばれた。病院内で荒木は語った。

「以前から家族に関門大橋を見せることを約束していたので、今日の昼過ぎ、長男に留守を頼んで自宅を出たんです。運転は、私と妻が交互に代わりながら北九州まで行き、関門大橋を見物した。帰る途中、日出町で別府湾の夜景がきれいだったので、別府国際港から夜景を楽しもうと妻が運転してフェリー岸壁内に入った。このとき、私は助手席でうつらうつらしており、車が海に飛び込む際、玉子が『あーっ』と大きな声を上げたので、はっとして気づいたときにはすでに海の中だった」

荒木は玉子の運転ミスによる事故であることを強調した。

荒木は体が落ち着くと、別府市内に住む養女に着替えを持って来るように看護婦に頼んだ。養女が着替えを病院に持って行き、これから別府署の事情聴取に行こうとしたとき、荒木は再び、看護婦に頼んで養女の自宅に電話をかけさせた。荒木の用件は、車のトランクを開けて中に入っている封書に入った書類を急いで焼いて欲しい、というものであった。

その書類とは荒木の遺書であった。なぜ、荒木は遺書を書いておかなければならなかったのか。また、事故のあと、なぜそれを焼き捨てておくよう養女に指示したのか。荒木の行動は不可解であった。

【 「事故」に至るまでの過程 】

1927年(昭和2年)、荒木虎美は、大分県佐伯市の農家に生まれた。荒木の旧姓は「山口」といった。工業学校在学中に予科練に入隊し、自分では、特攻隊に選ばれたが、終戦で死に損なったと言っていた。戦後、工業専門学校に入り、卒業すると新制中学の代用教師になったが、当時は左翼運動に関わっていたという。

1949年(昭和24年)、その教師をしているときに、最初の犯罪を起こす。妻以外に愛人がいたが、その愛人が山口の子を身ごもった。しかし、当時は優生保護法が成立したばかりで堕胎罪があったため、公然と妊娠中絶できなかった。そこで、山口は知人の鍼灸師(しんきゅうし)に中絶を頼んだ。鍼灸師は愛人のお腹の子を堕ろしてやった。すると、山口はこの鍼灸師を「医師法違反と堕胎罪を世間にばらす」と脅かした。他人の善意を平気で逆手に取る神経に鍼灸師は驚き、呆れるとともに怒りもした。そして山口を恐喝で告訴した。山口は執行猶予付きの実刑を受けた。そのため、教師を辞めるはめになったが、知人には左翼運動家だったため政治的弾圧を受けたと話した。

その後、妻を佐伯市に置いて、1人で別府市内に働きに出た。そこで始めたのが肉屋だった。しかし、地道な商売など向かない性格だったのと借金苦でとうとう嫌気がさし、放火による保険金詐取を計画する。火事の2週間前、別府市内の保険会社で家屋と家財道具に合計20万円の保険をかけている。

1950年(昭和25年)1月20日、店に放火し全焼した。山口は火災保険の保険金を受け取ったが、不自然な保険契約などが発覚し、保険金詐欺と放火罪で起訴された。山口は無罪だとして容疑を否認し、最高裁まで争ったが、結局、8年の懲役刑となった。だが、サンフランシスコ講和条約(1952年4月28日)の恩赦によって、およそ6年で仮出所することができた。出所後は、自分の有罪の決め手のひとつになった証言をした妻とも離婚した。

その後、不動産業を始めたが、1967年(昭和42年)7月、共同経営者の妻と不倫し、そのトラブルから脅迫、傷害罪を犯し、宮崎刑務所で再度、服役した。

1972年(昭和47年)11月、宮崎刑務所を出た山口は、別府市内で不動産ブローカーの仕事をしながら、次々と女性と付き合い、保険金殺人の獲物を物色していた。

1973年(昭和48年)6月ころ、「子どもが大好きなので、母子家庭の母親と結婚したい」と言って、結婚相談所、町内の民生委員などを訪ね、適当な女性を紹介してくれるように頼んで回った。

その結果、荒木玉子と知り合った。当時、玉子は借家に住んでいたが、同じ町内のアパートに山口も住んでいた。彼女は生活保護を受けながら、土産物店でアルバイトをし、中学3年の長男である友広(当時15歳)をかしらに3人の子どもを育てていた。

ある日を境に山口は頻繁に玉子の自宅に現れるようになったが、子どもたちは山口をうとんじた。

山口は養育費をちらつかせ、玉子に免許証があると分かると車(「事故」のときに運転した中古の日産サニー)を買い与えたりした。皮肉なことに、玉子一家は山口のお節介が仇となり、それまで受けていた生活保護を打ち切られてしまう。

玉子としては、女手ひとつでこれから子どもたち3人を育てていかなければならないことを考えると、むやみに、山口を遠ざけることもできなかった。

実は、山口には片手では数えられないほどの愛人がいた。いずれも、中年の女性で、中には人妻もいた。この人妻と知り合ったのは1973年(昭和48年)の夏で、出会いから数日後に肉体関係ができた。大工をしている夫は頼りなく不満は募るばかりだった。そこへ口達者な山口が現れて彼女に言い寄る。山口はこの人妻と四国に20日間も旅行に行ったりした。人妻は身も心も山口におぼれてしまい、ついに夫と別居してしまう。山口は人妻をそそのかして、夫から財産分与してもらい、家の権利書を入手すると、それを500万円で買ってやるといって領収書に捺印させた。そして、人妻から権利書を手に入れ目的を遂げると消えた。

玉子は山口と交際を続け、1974年(昭和49年)8月1日、婚姻届を出した。山口は「荒木」姓となり、3人の子どもとも養子縁組を結んだ。だが、3人の子どもはどうしても、荒木虎美のことを好きになれなかった。形だけでも「お父さん」と呼ぶことはなく、「アレ」と呼び極端に遠ざけた。そのことを承知していた荒木はあえて同居はせず、玉子が一人暮らしを続ける荒木のアパートに「通い妻」をする形態を取った。その方が荒木にとっても好都合であった。それは玉子と結婚する前から交際中の女性が何人もいたからである。

その直後から、いろんな口実をつくって、妻子たちに保険をかけ始めた。荒木が玉子、祐子ちゃん、涼子ちゃんにかけていたのは、住友生命、協栄生命、大同生命、第一生命、安田火災海上、千代田火災海上の6社で、3人が死亡したときに支払われる予定の総額は3億1000万円にも上った。受け取り人は荒木の養女と祐子ちゃん、涼子ちゃんらになっている。しかし、祐子ちゃん、涼子ちゃんともに死亡した場合、保険金を受け取るのは養父の荒木本人ということになる。保険の掛け金は年払い、6ヶ月払い、月払いとさまざまだが、平均すると月13万円であった。ちなみに、事件のあった1974年(昭和49年)当時の国家公務員(上級職)の初任給は7万2800円だから、かなりの額である。

また、この頃、荒木は水泳の練習を始めている。

最後の保険契約から12日後の11月17日(犯行当日)夜、荒木はドライブに行こうと、家族を誘った。次女の涼子はドライブを楽しみにしたが、長女の祐子ちゃんは、元々、荒木が大嫌いであったし、友達の誕生会に誘われていたため、行くのを嫌がった。それを聞いた荒木は普段の声色ではなく本性をあらわにして怒った。

「祐子はどこにいるんだ。お前ら、一体、誰のお陰で生活できると思っているんだ。早く呼んでこい!」

そして、母親に説得されて仕方なくドライブに出掛けることになったのである。ずっと反抗的だった長男の友広は、受験勉強を理由に同行を断った。お陰で命拾いすることになる。

【 「事故」発生後 】

3人が「事故」で亡くなっても、荒木は涙ひとつ流さなかった。11月19日、葬式が行われたが、荒木は本来なら喪主として焼香に訪れる人に挨拶しなければならない立場にありながら、姿を見せなかった。

別府国際港での車の転落事故はただの事故ではなく保険金がからんだ殺人の可能性があるという噂が広まった。

「事故」のあと、荒木は何回も別府署に呼び出されて、かなり厳しい事情聴取を受けていたが、それは事情聴取というよりも取り調べに近いものであった。

11月21日、荒木は記者会見に応じた。

「現状は自分だけが助かっていることや多額の保険金が掛けられているといった状況だけで、私は不利になっている。転落して海中に沈んだとき、たまたまフロントガラスが割れていたので、そこから抜け出して助かったが、確率は半々だ。私は死んでいたかもしれない。あなたがた、岸壁に飛び込んでごらんなさい」

「保険はすべて玉子が加入したいと言うから入れたまでのことで、私は保険は大嫌いだし、だから私は保険の受け取り人にもなっていない。多額過ぎるというが、私はそうは思わない。保険会社の話では1人1億5000万円まで加入できるそうですよ。3人で3億なら1人1億ではないですか。毎月の払い込み金額もわずか11万(実際は前記した通り、月平均13万の支払い)そこそこだし、年収700万円の私にはなんでもないことですよ」

「葬式に出なかったのは、家内の親戚が私を責めるからです。私は家内や子供たちの供養をしてやりたかったが、妻の身内から何時間にも渡って私は責められた。たまりかねて私や私の身内は葬式に出ないことにした。私はこの疑いが晴れたら供養するつもりです」

11月26日午後、荒木は「交通事故証明書」を持って、別府署の交通課を訪れた。保険金を請求するためである。荒木の周りは報道陣が取り巻いていた。

応対した署員は事故については調査中であることを告げて、証明書の発行はもう少し待ってほしいと言った。

荒木は後日、弁護士をよこすと捨てゼリフを残して帰って行った。

翌日の11月27日、荒木は掛け金を払っていた保険会社に対しても同じ行動を取っている。だが、保険会社も事件の可能性が高いと見て、警察の捜査でただの事故という結論が出るまでは保険金を支払わないことにしていた。

12月10日、別府署に設けられた捜査本部では、九州大学の牧角三郎教授に亡くなった玉子の遺体の傷などから事故当時、運転していたのは誰かを鑑定依頼していた。鑑定の結果、遺体の右ひざの皮下出血は助手席のダッシュボードのへこみと一致する。つまり、玉子は助手席、荒木は運転席にいたことは間違いない、とした。

荒木は週刊誌やテレビの取材に対して、雄弁に自らの潔白を語った。

12月11日、荒木はフジテレビの「3時のあなた」に出演した。

司会者の寺島純子と推理小説家の大谷羊太郎らが荒木を挟む形で座り、事故当時の模様について質問した。バックには亡くなった3人の大きな写真が飾られている。

荒木はこの番組で、「私は泳ぎながら『車の中に家内と子供たちが閉じ込められている。なんとかしてください』と言ったんです。そうしたら、『大変だ。110番しろ』と言っているのを聞いたんです」と言った。だが、実際には、岸壁にはい上がってから「車内に家内と子どもがいる」と言っているのでこれは嘘である。

そこで、戸川昌子が鋭い質問をした。

「泳ぎながら聞こえるかしら?」

荒木が「大変だ。110番しろ」と聞いたのは岸壁に上がってからである。戸川にそう言われて荒木は逆上した。

「本人の言うことと他人の言うこととどっちを信じるんですか。くだらない。愚問はやめなさい。私の言うことが信じられないなら自分で水中に飛び込んで実験してみたらどうです。もうテレビには出ませんよ。そんなバカなことばかり訊くんだったら。人の話を信用しないなら、訊きなさんな。なんですか、当の本人を呼んでおいて。失礼じゃないか。私は答えない」

ついに、荒木は本番中にもかかわらずスタジオを出て行ってしまった。カメラはその一部始終をとらえていた。荒木がスタジオにいたのはおよそ30分ほどであった。

荒木は出口で報道陣に囲まれたが、興奮状態の荒木は大声で怒鳴り散らすばかりだった。控え室に入って記者会見を開いた。会見の冒頭で逮捕状が出たことを記者から知らされるが、荒木はそのことを予期していたかのように顔色ひとつ変えなかった。ここからは荒木の独壇場となった。事件の発端から捜査の方法まで、ときには記者の質問を制してまで整然と話し続けた。

会見後、フジテレビの裏門に姿を現した荒木を待っていたのは警視庁捜査1課の刑事であった。午後5時50分、荒木は逮捕された。

「荒木虎美だね。殺人容疑と保険金詐欺未遂、ならびに恐喝の容疑で同行してもらう」

荒木は警察の車に乗り込む段になっても、殺到するカメラマンを制し、笑顔を見せる余裕の表情を見せた。車に乗ったあとも、相変わらずの笑顔で見送りのテレビ局員に手を振るという前代未聞の逮捕劇となった。

前夜、荒木の逮捕状を取った大分県警は、荒木をクロとする決定的な物的証拠をまだつかんでいなかった。テレビ出演は事前に把握し、番組中の発言は全て録画していた。荒木を泳がせ追及の材料を少しでも集めようとの狙いからだった。

だが、警視庁は殺人容疑者のテレビ出演を放置した大分県警の姿勢を社会常識上、不適切だとして厳しく叱責。大分県警は慌てて、急遽、逮捕に踏み切ったのだった。

検察はその後の捜査で、荒木の犯行を思わせる証拠を次々と明らかにしていった。

中でも注目される事実は荒木の乗っていたサニーの車体に設置された5つの水抜き孔のゴム栓がいずれも抜かれていたことである。水抜き孔は車内にたまったゴミを掃き出すために車体の底に付けられたものであった。事故車のサニーは中古車だったが、捜査員が確認したところ、以前の2人の所有者が水抜き孔のゴム栓を抜いた事実がなかった。とすると、栓を抜いたのは荒木ということになる。事故のあった夜、目撃者の証言によるとサニーは転落してから5秒くらいで海中に沈んでいったという。

もうひとつの有力な事実は、運転席の前にあるルームミラーが固定式から脱落式のものに荒木が取り替えていたというものである。転落の衝撃でルームミラーがはずされれば、脱出の際の障害にもならないというわけである。

さらに、捜査本部では横浜と別府の両港でサニーの中古車を使って転落実験を行った結果、転落の衝撃でフロントガラスが割れることが判った。操作本部では、海中からの脱出方法はかなづちを使用したものと見ていた。それはサニーのダッシュボードにかなづちがあったからであった。

翌1975年(昭和50年)1月2日、科学的なデータの裏付けも得られた検察当局は、荒木を罪状否認のまま、殺人罪で起訴した。

有罪なら死刑、無罪なら億万長者という天国と地獄ほどの差のある裁判がこれから行われることになった。

3月17日、大分地裁で第1回公判が開かれた。

検察の起訴状朗読に続き、冒頭陳述では、事故が起きる1ヶ月前に、荒木が愛人を乗せて現場の下見をしていたことや刑務所仲間に犯罪計画を漏らしていたことが述べられた。

罪状認否に立った荒木は検察官を睨みつけたまま言った。

「玉子との結婚、保険契約、別府国際港での転落と妻子3人の死亡の事実は認めます。しかし、それ以外の起訴事実は検察官の言いがかりだ。運転していたのは玉子で、私は玉子の過失による事故だと思う。妻子3人をドライブに連れ出して殺したというのは言いがかりもはなはだしくゲスの勘繰りだ」

一方、弁護人の木村一八郎弁護士は「警察のマスコミ操作により、荒木が犯人であるという世論が形成されていることは重大な問題である。荒木は無実であり、転落は単なる事故か、玉子の無理心中だ」と主張した。

だが、木村弁護士は第2回公判で、突然、弁護を辞任した。その後、山本草平ら3人の弁護士が弁護団を編成した。

荒木は法廷で検察官にこう言った。

「自分が死ぬかもしれん危険を冒してまで、車ごと海に飛び込む奴がおると思うかね。な、あんた、そう思わんか。わしと一緒にもう1度、飛び込もう。そしたらそれが分かるよ」

だが、検察官は冷ややかな笑いを浮かべるだけである。

荒木が運転していたとする九州大学の牧角三郎教授の鑑定結果に対し、山本弁護士らは論理的に矛盾があるとして、鋭い尋問を証言台に立った牧角教授に浴びせた。その度に牧角教授はうろたえてしまう。第12回、第13回、第14回公判で、明らかになったのは鑑定の科学的合理性よりも、むしろその曖昧さだった。

1976年(昭和51年)9月13日、第15回公判が開かれた。

荒木逮捕時に警察も弁護側も予想しなかった証人が現れた。証言台に立ったのは別府市内で鮮魚商を営む森崎卯一郎であった。森崎は「事件当夜、荒木が運転する日産サニーが別府国際港第3埠頭に入る手前の国道210号線で信号待ちしているのを見た」と言った。

弁護側の反対尋問が行われた。

「白っぽいサニー1000ならいくらでもあるが、あなたの見た車と転落した車が同じだと断定できるのか」

これに対し、森崎は答えた。

「丁度、友人が事故車と同じサニーに乗っていた。サニーのデラックスはツードアでそう何台もない車だから間違うことはない」「そのとき、友人の車かと思って、声でもかけようと、信号待ちしているサニーの横に並んで運転席の方を見たら、黒っぽい背広を着た大柄の男がハンドルを握っていた。丁度、第3埠頭の手前の信号のところだったと思います」

荒木は噛みつきそうな目つきで、森崎を睨みつけて言った。

「私は玉子の運転するサニーで第2埠頭にまず行き、それから第3埠頭に行ったんだが、あなたの見たサニーは別の車ではないのか」

森崎は反論した。

「いや、そんなことはないはずだ。事故があったときは第2埠頭と第3埠頭の間にはテトラポットが積んであって第2埠頭から第3埠頭に行くには国道210号線に出なければ行けないはずだ」

荒木の顔色がすっと変わり、森崎を睨みつけながら怒鳴った。

「俺たちは第2埠頭に最初入ったんだ!」

森崎は訊きかえした。

「じゃあ、第2埠頭から落ちたんですか」

荒木は山本弁護士らを振り返ると叫ぶように言った。

「先生方、そんなところで居眠りせんでいいから、わしが死刑になるかならんかという瀬戸際やちゅうのに、何か言わんか!」

さらに、荒木は森崎に噛みついた。

「あんたの見た顔というのはこの顔か」

被告席から立ち上がり、「ええ、この顔か! この顔か!」といかつい顔で、森崎に迫った。

森崎も負けてはいない。

「そうだ。あの夜、サニーを運転していたのは荒木さん、あんたに間違いない!」

「でたらめ言うな! 偽証罪で訴えてやる!」

そう言って、荒木は森崎の胸ぐらを掴んだ。

刑法169条・・・法律により宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、3ヶ月以上10年以下の懲役に処する。

物証がない難事件で荒木にとって有利に働いていた公判であったが、森崎証言の他に、もうひとつ荒木にとって不利な証言があった。

荒木は玉子と結婚し、1974年(昭和49年)8月1日に婚姻届を出しているが、その前の月の7月に、宮崎刑務所で荒木と2度も一緒になったことのあるSが、荒木のアパートを訪ねたとき、荒木が保険金詐欺をやると言っていたことを証言した。

「S君、もうそろそろでかいことをやらにゃあ。俺は家族に保険を掛けて、車ごと海に飛び込み、自分だけ脱出する。これが一番確かな儲かる方法だよ。肝心なことは、車には体の弱い者を乗せることだ」

荒木は刑務所で服役中にも、それとなく計画を漏らしていた。エドワード・ケネディが自分の車に愛人女性を乗せたまま事故を起こし、女性だけを死亡させた事件を報じた週刊誌をSに渡して言った。

「それを読め。ケネディだって、あんな事件を起こしたが、とうとう自分がやったかどうかは立証されなかった。今度こそ、俺は大金を掴む」

Sがそのことを証言すると、荒木は目の色を変えて言った。

「裁判長、こんな懲役太郎の言うことをまさか信用するんじゃないでしょうね」

Sも言葉を返した。

「俺が懲役太郎ならお前は懲役次郎だろうが!」

「何オ!」

2人の怒鳴り合う声が法廷内に響き渡った。

そんな荒木だが、一度だけ法廷内で涙を見せたことがあった。

荒木のドライブを断って命拾いした友広が証言に立ったとき、荒木はむせび泣きをした。

「こんなに大きくなって・・・・・・」

しかし、友広は検事の尋問にきっぱりと言った。

「あの男を死刑にしてほしい」

そして、帰るとき、友広は荒木に向かって叫んだ。

「お前がやったんだ!」

1980年(昭和55年)3月28日、大分地裁は荒木虎美に対し死刑判決を言い渡した。

「本件犯行はまれにみる計画的、残忍なものであり、まったく情状酌量の余地がない。極刑が相当であり、死刑に処する」

1時間余りの判決朗読が終わると、荒木は起立して「口頭で控訴することを申し上げます」と言った。

判決は数々の矛盾があった牧角鑑定を荒木運転の根拠として採用しているが、そうしたのは、森崎や刑務所仲間のSの証言に加えて、法廷での荒木のあまりの傍若無人な振る舞いが結果的に裁判官の心証を悪くしたためのようだ。

荒木は自分で自分の首を締めてしまったのかもしれない。

犯罪や裁判を題材にした作品が多く、法廷ウォッチャーとして知られる作家の佐木隆三は死刑判決後に荒木と面会や手紙のやり取りをしているが、荒木は初対面の佐木に対して、「この裁判に勝てば、私には女房、子供の保険金3億円が入ります。そうすればどんなお礼でもします」と言ったという。

佐木隆三・・・1937年、旧朝鮮威鏡北道吉州面生まれ。本名・小先良三。1956年、福岡県立中央高校卒業後、八幡製鉄所(現・新日本製鐵)に就職。『新日本文学』や『文學界』に小説を発表。1960年、八幡製鉄労組の活動をはじめ、安保闘争の直前から日本共産党に入党。組合活動を活発化させるが、その後、共産党を離党、批判する小説を書く。1963年、「ジャンケンポン協定」で新日本文学賞を受賞。1964年、八幡製鉄を退職。1971年、沖縄へ移住。ゴザ市の灰燼アパートに住み、沖縄復帰闘争の活動家とかかわり復帰問題に深く関与した。1973年、千葉県市川市に移住。1976年、「復讐するは我にあり」で第74回直木賞受賞。1999年、北九州市門司区に移住。主な著書・・・『殺人百科』(文春文庫/佐木隆三/1981) / 『殺人百科(2)』(文春文庫/佐木隆三/1987) / 『殺人百科(3)』(文春文庫/佐木隆三/1987)/ 『殺人百科 四』(徳間文庫/佐木隆三/1993) など他多数。

荒木は、被告人にしか揃えられないさまざまな資料を佐木に提供したが、その著作で荒木の無罪を訴えることはなかった。荒木は死の数ヶ月前、手紙の中で、佐木を恨んでいると書き、罪ほろぼしに何十万か何百万かの金を要求したらしい。

1984年(昭和59年)9月、福岡高裁で控訴棄却。

荒木は上告したが、癌を患い、1987年(昭和62年)10月、東京都八王子市の医療刑務所に移監され、手術を受けていた。だが、1989年(平成元年)1月13日、癌性腹膜炎で、死亡した(自殺説もある)。61歳だった。

最高裁は、「被告人死亡につき公訴棄却」とした。

この事件をモデルに松本清張が書いた『疑惑』(文藝春秋/1982)が同名タイトルで映画化された。松本はこの映画の脚本も手掛けている。『疑惑』(DVD/監督・野村芳太郎/主演・桃井かおり/2007)

映画では荒木虎美の役を桃井かおりが演じている。名前は「虎美」を意識して?「球磨子(くまこ)」。その球磨子が多額の保険金を夫にかけた上で、夫を助手席に乗せ、車ごと海に飛び込み、自分だけ助かるのだが、球磨子はあくまでも自分は助手席に乗っていたと主張。敏腕弁護士役の岩下志麻は裁判で球磨子の主張通り、夫が運転していたことを「立証」してみせたのだが・・・・・・。桃井かおりに「イヤな女」をやらせたら右に出る女優はいないんじゃないかと思う。

テレビドラマでは・・・

2003年(平成15年)3月22日、テレビ朝日放送系列で「土曜ワイド劇場」枠で25周年記念スペシャル&松本清張没後10年企画として『疑惑〜老資産家の海中転落死は美貌の後妻が仕掛けた保険金殺人だったのか?』(監督・大原誠/脚本・竹山洋/出演・佐藤浩市&余貴美子ほか)と題して放送された。

2009年(平成21年)1月24日、テレビ朝日放送系列で開局50周年記念&松本清張生誕100年サスペンス特別企画として『疑惑〜8億円保険金殺人!! 容疑者は北陸一の美人女将!死刑か、無罪か!? 金沢〜博多〜東京・・・国選弁護人が挑む有罪率99%の壁!!』(球磨子役・沢口靖子/弁護人役・田村正和)と題して放送された。

参考文献・・・
『営利殺人事件』(同朋舎出版/岡田晃房/1996)

『「命」の値段』(日本文芸社/内藤満/2000)
『戦慄の保険金犯罪50の事件簿』(二見書房/吉田雄亮/1998)

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