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青物横丁医師射殺事件

N(事件当時36歳)は、高校卒業後、技術系の専門学校を出て、都内の電気機器メーカーに勤めた。仕事内容は販売先の機器の保守や点検などで、まじめに働いた。浦和市(現・さいたま市)内に母親と住んでいて独身だった。

1992年(平成4年)10月からNはヘルニア治療のため都立台東病院に通院し、翌1993年(平成5年)6月7日に入院し、手術を受けた。執刀医は同病院泌尿科医長の岡崎武二郎(事件当時47歳)だった。

術後の経過も順調で、その後、通院することもなかったが、しばらくたってから体の調子が悪くなった。全身に倦怠感があり、食欲がなくなり、なにもする気にならなくなった。また、胃や下腹部に異物が詰まっているような感覚があった。その後、勤めも休みがちになった。

Nは執刀医である岡崎医師を疑うようになった。体じゅうが痛むのは手術の際、体内になにかを入れられたせいではないかと。Nは医師に会って検査を依頼した。医師はNの訴えを苦笑しながら否定したが、言われるままにレントゲン検査などをしたが、やはり異常はなかった。

だが、Nは信じなかった。手術の際、医師が手術用具を体内に置き忘れるという事故があることは知っていた。だから、Nは鋏などが残っているような気がしていた。

Nは岡崎医師に面会に行ったり、電話をかけて異物を取り出してくれるように頼んだ。だが、岡崎医師は鋏などを置き忘れたというような事故は全くないと説明した。

Nは都内の病院の精神科に同年夏ごろまで通院していた。そんな不安定な精神状態のNは被害妄想を増幅させ、人体実験されたのではないかという疑惑をいだき、このままでは死んでしまうと思い込むようになり、死ぬ前に岡崎医師に復讐することを決意する。

9月、Nは会社に退職届を出すと、復讐計画に取りかかった。岡崎医師の身辺調査をして、自宅が品川区内にあることや毎朝、京浜急行の青物横丁駅から電車に乗って出勤していることを知った。

Nは凶器を拳銃に決め、暴力団から買うことにした。新宿、渋谷、赤坂などを歩き回り、暴力団風の男に声をかけてみたが、誰もが冗談だと思うらしく、相手にしてくれなかった。

9月中旬、Nは岡崎医師の様子を窺いに病院へと向かった。病院近くで偶然、指定暴力団の事務所を見つけ、思い切って訪ねてみた。出てきた組員に拳銃の話をすると、今度は本気になって相談にのってくれた。

10月21日、Nはついにトカレフ拳銃と銃弾7発を手に入れた。言われるままに現金140万円を払った。密売相場の5倍だったが、Nにとって値段などどうでもよかった。

10月25日朝早く、Nはバイクで浦和の自宅を出ると、青物横丁駅近くの目立たない場所に乗り付け、駐車し、駅構内の通勤通学客たちの人込みに紛れ、岡崎医師を待った。

やがて、岡崎医師が現れ、改札口を通り抜けようとしたところを背後から至近距離でトカレフ拳銃を発射した。その場に倒れた岡崎医師はすぐに病院に運ばれたが、翌26日午後、出血多量で死亡した。

その後、Nはバイクを運転してあらかじめ用意していた犯行声明文をNHKなど都内テレビ局4社に届けた。テレビ朝日には電話をかけ、岡崎医師を射殺したことを仄めかした。フジテレビにも電話し、生番組放送中、出頭するかもしれないと予告しておいた。

警察は犯人を突き止めるのに時間はかからなかった。すぐにNが浮かび指名手配された。Nは3日間、都内のホテルなどを転々としていたが、手持ちの金がなくなり、28日午後、Nは母親のところに電話をかけた。JR南浦和駅で会う約束をした母親は、すぐに警察に連絡をし、Nは逮捕された。

1995年(平成7年)2月、Nは精神病院歴があったので、精神鑑定にかけられたが、責任能力ありと認められ殺人罪で起訴された。

公判でもNの犯行時の精神状態と刑事責任能力が争点となり、精神鑑定が実施された。鑑定結果は「精神分裂病より軽い妄想性障害」として責任能力を一部認めたものと、「精神分裂病で善悪の判断ができない心神喪失だった」と責任能力を否定したものの2通りに分かれた。

「精神分裂病」という名称は “schizophrenia”(シゾフレニア)を訳したものですが、2002年(平成14年)の夏から「統合失調症」という名称に変更されています。

1997年(平成9年)8月12日、東京地裁はNに対し懲役12年(求刑・懲役15年)を言い渡した。

裁判長は、拳銃を試射するなどの犯行前後の行動や責任能力を一部認めた精神鑑定を根拠に、「ある程度、合理的と思える行動をとっている」と判断。その上で、「無防備な被害者を待ち伏せし、至近距離から拳銃で撃ったという計画的で極めて残虐な犯行」と厳しく批判した。Nは精神鑑定に不満があるとして控訴した。

1998年(平成10年)8月6日、東京高裁は控訴を棄却した。Nは上告した。

2000年(平成12年)7月、Nは上告を取り下げ、懲役12年とした1審での刑が確定した。

参考文献・・・
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)

『実録 戦後殺人事件帳』(アスペクト/1998)
『毎日新聞』(1997年8月12日付/1998年8月6日付)

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