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天城山心中事件

1957年(昭和32年)12月4日、元満州国皇帝の愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ/映画『ラストエンペラー』[監督・ベルナルド・ベルトルッチ]として有名)の姪で、学習院大学国文科2年生の慧生(えいせい/19歳)が同級の大久保武道(20歳)と伊豆の天城山で心中した。

『ラストエンペラー』(DVD/2004)

天城山中の八丁池に近い熊笹の茂った雑木林の中、ひときわ目立った百日紅(さるすべり)の老木の根元を死に場所に選び、西を枕に横たわっていた。

大久保が慧生を上から抱きかかえるようにして、先に慧生の左(「右」と書かれた参考文献もある)コメカミに銃口をつけて射った後、自分で右コメカミを射って心中したものと見られており、大久保の右手にはピストルがそのまま握られ、左手は慧生の首を抱きかかえていた。ピストルは旧陸軍14年式。大久保の父親が戦前、満州で憲兵をしていたときの持ち物だった。

大久保は黒のオーバーに紺のズボン、胸のポケットには慧生の写真があり、傍らには黒のコードバンの短靴がきちんと揃えてあった。寄り添うように抱かれた慧生は黒のオーバーに水色のセーター、白地に黒と茶格子のスカート、茶の靴、足を軽く組み、口紅に赤いルージュがひかれていた。

12月10日、2人の遺体が発見されたが、前夜から降り続いていた雨で流血は洗われていた。

大久保は青森県八戸市の素朴な家に育ったが、もともと家庭的に恵まれず、一本気で、日頃から「死にたい」と口走ったり、思いつめる暗い性格の持ち主だった。

慧生もはじめは「青森氏(大久保のこと)につきまとわれて困っちゃう」と友人にもらしていた。

大久保と慧生は課外活動の東洋文化研究会で一緒だったが、大久保が慧生の美しさと人柄に惚れてのめり込んでいき、慧生のことで他の友人と決闘さわぎを起こしたりしたことがあった。そのあまりの一途さに慧生の心も次第に揺らぎ出す。

だが、元満洲の皇族で、元侯爵の孫でもある慧生の家族では大久保を認めず、「あまり上品な人でないから交際しないように・・・・・・」と注意されている。

大久保は認められていないことにかまわず、強引に幾度も慧生の横浜市日吉の家に押しかけていくことがあり、犬に吠えられながらいつまでも門のところに立っていた。

慧生は家族の前では「あんな人とは付き合っていません」と言っていたが、大久保の純粋さに魅かれていった。

1957年(昭和32年)2月5日、大久保と慧生は大学の帰りに目白の蕎麦屋で、いろいろと語り合った末に「婚約」する。

3月5日、大久保と慧生は目白駅で落ち合って大久保の背広を見立てるために一緒にテイラーに出かけた。慧生がアカ抜けない大久保のために背広をつくることを勧めたらしく、布地は慧生が選んで紺の背広を新調した。このとき、慧生はネクタイをプレゼントした。この背広とネクタイがのちの大久保の死装束となる。

大久保は慧生の誕生日に銀製のブローチをプレゼントしている。このブローチは普段身につけなかったが、天城山で発見されたとき、慧生の胸で雨に濡れて光っていた。また、慧生の指にはエンゲージ・リングがはめてあったが、心中した12月4日当日に大久保が買い与えたものだった。

大久保は慧生に宛ててラブレターを出し続けており、大久保と慧生が交わした愛の書簡は『われ御身を愛す 愛新覚羅慧生・大久保武道遺簡集』(鏡浦書房/1961)と題されて出版されたが、最初のうちは大久保から慧生への一方的なラブレターばかりで、1957年(昭和32年)11月6日になって初めて慧生から大久保に宛てた書簡が出てくるらしい。

『われ御身を愛す 愛新覚羅慧生・大久保武道遺簡集』

11月13日付けの慧生が大久保へ送った手紙では、当時流行りの(石原)慎太郎刈りのヘアスタイルにしていた大久保に対し、あなたの場合は、慎太郎刈りというよりも西郷隆盛刈りでボウズ刈り的に丸っこく刈るのではなく、後ろのあたりに、もう少し毛を残しておいたほうがいいなどと批評している。

慎太郎刈り・・・1956年(昭和31年)ころ、小説『太陽の季節』(1955年発表。同年、第1回文学界新人賞&翌年、第34回芥川賞を受賞)の作者の石原慎太郎がしていたヘアスタイル。スポーツ刈りの変形で普通のスポーツ刈りやGIカットのように前髪を短く刈りそろえないで額に垂らしておくのが特徴で一部の若者達に流行していた。

慧生は表面は明るく、闊達であったが、内心はつねに孤独感にさいなまされていた。慧生の母親の浩(ひろ)が妹とともに満州にいた長い間、慧生は母親の里方の嵯峨侯爵家に預けられ、祖母のもとで育てられた。敗戦後、日本に戻ってきた母親の浩と一緒に暮らすようになったが、疎遠になっていたし、慧生は中国に帰りたくないという考えをもっていた。慧生の父親の溥傑(ふけつ)がいつか釈放されたときには、中国に帰らなければならなかったし、そのときのために普段から中国語を習わされていた。

そんなときに大久保武道という武骨だが、一途に慕ってくれる男を知って徐々に心が揺さぶられていった。

やがて、元満州国皇帝の溥儀とその弟である慧生の父親の溥傑が釈放になり、母親の浩と一緒に北京に帰ることが決まる。慧生は一応帰国に同意し、従うフリをしていたが、大久保と心中してしまう。

『朝日新聞』1957年(昭和32年)12月10日付には次のような記述がある。

<二人が心中にいたった原因については、二人の交際が慧生の家の嵯峨家で認められず、かくれてつき合っていたことも悩みのひとつであったらしく、その上、慧生は母親の嵯峨浩と溥傑との結婚は政略結婚であり、「お母さんのように他人の意志に動かされて結婚したくはない」「私は母と同じ運命はたどりたくない」などともらしていたという。しかし、家出した後に大久保の下宿先に宛てた手紙には「私は二人の問題≠ナこういう行動に出るのではなく、武道さんに引きずられたわけでもない。人生は生きる価値がないという武道さんの考えを翻えさせようとしたが、結局その考えに一致した」と書かれてあった>

この衝撃的な事件は「天国に結ぶ恋」などというキャッチフレーズで雑誌でも取り上げられ、映画『天城心中 天国に結ぶ恋』(監督・石井輝夫/主演・三ツ矢歌子&高橋伸/1958)にもなった。

翌1958年(昭和33年)11月、民間から皇室に迎え入れられることが決定した。皇太子の婚約者として一般家庭出身(とはいえ社長の娘)の正田美智子という女性が選ばれる。そして初の民間出身のプリンセスとして「ミッチーブーム」が巻き起こる。

参考文献など・・・
『戦後欲望史(混乱の四、五〇年代篇)』(講談社文庫/赤塚行雄/1985)
『別冊歴史読本 戦後事件史データファイル』(新人物往来社/2005)
『流転の王妃の昭和史』(新潮文庫/愛新覚羅浩/1992)
『愛新覚羅浩の生涯 昭和の貴婦人』(文春文庫/渡辺みどり/1996)

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