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Posted Dec. 25, 2016

FIGHTING THE NAVAL HEGEMON

Evolution in French, Soviet, and Chinese Naval Thought

The Authors: Martin N. Murphy and Toshi Yoshihara

訳者前書

U.S. Naval War College Review 2015 Summer (Volume 68, Number 3)で拾ったテキストを端折って訳すだけの簡単なお仕事。

他のテキストを読む際の参考文献として訳出。訳題は「海軍覇権国と戦う」とか、そんな感じ。

Jeune Écoleは英語でYoung School, 日本語では新生学派・青年学派、あるいはジューヌ・エコール。この訳ではJeune Écoleはジュール・エコール、Young School (molodaia shkola)は特にソ連でのそれを指すので青年学派と区別した。

2015年国防白書「中国の軍事戦略」が遠海護衛に言及するのはこの論文の発表前後、第2砲兵がロケット軍に名称を変えたのは同年(2015年)の末。

構成は若干変更、翻訳省略箇所が幾つかアリ。Typo, 誤訳の指摘は歓迎。- E-mail

目次

I. PROLOGUE

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地勢は戦略に背景を与える。陸上侵攻から守られた大英帝国、後には米国は敵対者を打倒する特色あるシーパワーを行使してきた。両国は自国の海軍をシーレーンや要衝のコントロールに、また敵沿岸地帯への直接的な圧力に向けることに用いた。その海洋支配を通じて、彼らは政治経済の世界秩序の形成を可能とした。アングロアメリカ流のシーパワーの形をとることは、幾度もその有効性を示してきたと言っていい。過去250年余りに英米両国は単独或いは共に、また常に他の同盟国と、この秩序を変えようとしたあらゆる敵を打倒した。

海軍思想の新たな学派の1つは沿岸防衛をルーツとし、弱者が強者を倒すことを可能にする非対称な方針をとる。この海上戦闘に対するアプローチはフランスの通商破壊戦術(海賊や私掠戦を祖とする)・ロシア革命・中国の”人民戦争”からヒントを得ながら、常に最先端技術の利用を模索してきた。アングロアメリカ伝統の大洋観とは対照的に、このアプローチは沿海域での作戦や単独での沿海域における制海権を焦点とする。それは作戦・戦術攻勢を戦略防御に繋ぐ。また艦隊同士の交戦を避け、正面切っての戦闘を拒む。その代わりに、敵部隊が海岸線に向かうように誘導し、不慣れな海域から沿岸部や内陸部を攻撃するよう仕向け、その敵を削って弱体化を狙う。その目的は、侵略者を防御側に主導権をシフトさせるカウンター攻撃に対して脆弱にすることにある。それは地勢からアドバンテージを得ることだ。例えば、アジア海域や主要な通商航路に対する中国のコントロールは、中国政府に計り知れないグローバルな影響力をもたらすだろう。

1世紀余りに渡り、この海軍思想の伝統は、その本質的な特徴をそのままにフランス・ソ連・中華人民共和国で何度も繰り返されて発展してきた。しかしながら、独特な地政学的背景・文化的な姿勢・経済的事情は、仏・ソ・中3ヵ国のシーパワーの行使のありように変化を生じさせた。この海上戦への新たなアプローチは、“Jeune École (ジューヌ・エコール)”として知られ、英国の海軍戦略に対抗して19世紀後半のフランスで産声を上げた。1920年代には革命政府が特に外国からの干渉に脆弱性を感じ、また艦隊整備も出来ないソ連で再び現れる。そこでは、革命戦争の経験を得て変容し、”Young School (青年学派)”として知られるようになり、Alfred Thayer Mahanの”制海権”セオリーに代わるものとして台頭した。そこから中国に伝わると、その特質の幾つかが中国の海軍ドクトリンに残った。

過去から離れると、今日の中国は海上非対称戦闘を遂行する選択を手放すことなく、海洋大国の米国と経済的に競争出来る。フランスもソ連も、それぞれの時代の海洋覇権国の経済的地位に本気で立ち向かう手段を持たなかった。型破りな海上戦の発想を持つ中国の高い経済的な能力は、潜在的には米国の注意を引くに値する新現象である。21世紀において中国がこの新たな学派の最先端にある一方で、その思想はイラン革命防衛隊海軍も鼓舞すると共にロシア海軍に強烈な影響を及ぼしている。特記すべきは、イラン・ロシア・中国政府が、敵対的でなくとも、洋上における米国の優勢に対する態度を決めかねていることだ。また、イ・露・中海軍は相互協力を開始している。[01] 従って、この米海軍力の優勢に対して多様ではないとはいえ多数の挑戦を突き付ける新たな伝統が、今後何年か後にはユーラシア沿海域に脈づき、感じられることになりそうである。

ソ連の青年学派や毛沢東(毛泽东, Mao Zedong)の”人民戦争”は、実質的に同時に初期の中国人民解放軍海軍(中国海軍)を形成した。2つの理論は明らかに重なるが、それぞれが中国海軍戦略・戦術に対する影響力を代表する。[02] フランス・ソ連両国の戦闘艦隊の重要性を重視したドクトリンは、実際にこの新たな海軍思想の学派を包含していた。中国では、この伝統が通常(conventional)の海軍部隊の拡大と共に活力と影響力を保っている。その共存が続くかどうかは判然としない。実際、中国の戦略家は将来の海軍ドクトリンの方針を数十年に渡って討議してきた。この論議の出現初期において、あるグループは、”人民戦争”理論が米国や日本のような技術的に洗練された敵に対して、洋上では無意味だと主張した。他の視点からは、中国海軍は陸軍を沿岸部から守ることに最早徹するべきではないと認める一方で、洋上での人民戦争を“新たな歴史的”状況に単純に適用させる必要があったとの主張がある。[03]

現在、同様の討議が中国海軍の近年の戦力向上とその将来予測を取り巻いている。同海軍はアングロアメリカ流のシーパワーに追随するのか、渡洋作戦の遂行が可能な世界を股に掛けるブルーウォーター海軍を整備するだろうか? あるいは、中国海軍は近代的になり、リーサリティーや遠征力を備えても、長年の核心的アイデンティティーに背くことなく本土防衛に注力するのか? それとも中国海軍は中国政府の進展する事態に特有の命令を反映したユニークな道を描くだろうか? 中国海軍の拡大が海軍力のバランスを傾け続ける中で、これらの疑問は米国政府やアジア各国政府において政策の緊急性を増加させている。中国海軍の自国の海上防衛範囲を外に向けて外洋に拡げる現在の戦略は、新学派の考えが定着した形成期間を経たブレイクというより結果だ。従って、米国や他の海洋地域国家は、この中国の伝統の途切れぬ活気やアジアでの沿海域戦との関わりに注意を払い続ける必要がある。

II. THE JEUNE ÉCOLE: HOW THE WEAK CAN DEFEAT THE STRONG

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ジューヌ・エコールは2つの進化を経験してきた。1つ目は、その主要な力点を副次的に沿岸防衛に関係する通商破壊(commerce war)に置いた。2つ目は、それらを1つのものに纏め上げた。2つの進化は技術・船の速度や隻数の利用・大規模戦闘艦隊の冗長性の重要性を重視していた。この2つは海軍予算の制約に対応するものだった。

この理論は総じて仏海軍大臣(1886-87)に就任する以前の1870年代にこの学派の基本構想を初めて執筆したHyacinthe Laurent-Théophile Aube中将の功績に関連づけられる。[04] Aubeは植民地で暮らしていた。1881年にフランスに戻ると、彼は冒険的な植民地精神を持ち帰り、彼の構想を支持する改革派の青年将校の一派に味方した。これがジューヌ・エコール – Young School (青年学派)である。彼らと対立した伝統主義者たちはやがて”フランス学派(French School)”として知られるようになる。Alfred Thayer Mahanの発表が米国で始まると、彼らはMahanの思考を世界第2位の海軍国であるフランスの地位に当てはめた。

Aubeは、若いジャーナリストのGabriel Charmesが大臣時代の初期に亡くなるまで共に協力してジューヌ・エコールを支える知的な原動力となった。しかしながら、その基本的特徴は英国に対して劣勢にあるフランスは通商破壊戦(guerre de course)に徹し、(艦隊同士の戦闘/guerre d’escadreでは)戦闘艦隊は自身に劣る敵に対してのみ用いるべきだと説いたRichild Grivel大佐が1860年に描いたものである。[05]

軍事力は経済力に直接由来する。第1次世界大戦に突き進んだ数年のフランス経済は弱小などではないが、大英帝国ほど強大ではなく、ドイツに対してもそうなった。フランス海軍は従って、常に第1のライバルの大軍やGrivel, Aubeの時代にはさらに悪化した状況と戦ってきた。フランスは1870年-71年の普仏戦争に敗北した。フランスの主敵は新たに編成されたプロイセンの陸軍となり、フランス陸軍がフランスの殆どの国防支出の受取人となった。従って、フランス海軍は英国、やがてはドイツと洋上で戦う他の手段を求めねばならなくなった。その結果は激しいもので、破壊的・政治的な議論になったというものもいる。[06] Aubeの見方は、海軍高級司令部が最善の充分可能な条件で英国に対峙する伝統的で、戦艦を擁する大海軍を主張する一方で、そのような艦隊間の戦闘は現在では稀で、優勢にある者より劣勢の側に極めて重大なリスクを突きつけるというものだった。彼は、弱者は新たな戦術を探し出し、新技術を開発し、数的劣勢を抜け出すまでは優勢にある敵との交戦を避けるべきだと主張した。

優勢な海軍力に対抗する戦略は伝統的に2つのカテゴリーに区分される。1つは優勢な敵と同様に部隊が構成されるが小規模な”リスク艦隊(risk fleet)”、或いは“艦隊保全主義(fleet in being)”としても知られる、を有する。近代ではAlfred von Tirpitz提督が率いたドイツ帝国海軍が古典的な例である。もう1つは、”沿岸防衛艦隊”を構成し、仏・旧ソ・中がそれぞれの時代にしたように要塞や砲兵のような地上部隊・機雷原・哨戒艇・潜水艦を糾合する。ジューヌ・エコールは沿岸防衛手段を支援するがリスク艦隊に与することはなく、もし好機が巡ってくれば、最終的には敵国の戦闘艦隊本体との対峙を狙うことになる。

その代わりに、ジューヌ・エコールは、英国の大戦略の弱点である貿易を睨んで、敵の経済力・社会の安定に狙いを定める。[07] 英国の海軍演習はこの評価が正しいことを示唆していた。英海軍の伝統的な厳重封鎖の方針が蒸気機関の進歩、小型で高速の魚雷艇が艦隊に突きつける脅威によって維持出来なくなる一方で、国家貿易はナポレオン戦争以来巨大になり、輸入に大きく依存していた。[08] Charmesは通商破壊作戦が情け容赦なく遂行されるべきだと主張した。それは現代戦において国際法の居場所がないというジュール・エコールの原則だった。その非情な手段にも関わらず、しかしながら、ジューヌ・エコールの第1の目標は飢餓を引き起こすことではなく、金融・社会的な動乱を誘う経済恐慌にあった。[09] 興味深いことに、フランス海軍はジューヌ・エコールの提言(recommend)を追求したことはないが、第1次世界大戦にドイツ帝国海軍は、リスク艦隊戦略と合わせて実行した。ジューヌ・エコールの提言と独海軍が後にやったことの間には戦略的な相違以外に作戦上の類似性があった。後者の経験にはジューヌ・エコールの視点が多く認められる。[10]

II-a. Alternative Tactics, New Technologies, and Numerical Superiority

ジューヌ・エコールの最初の進歩はAubeが1887年に大臣を辞した時に終わりを告げ、この学派の影響力は一時的に衰退した。第2の進歩は新世代の若い海軍士官が彼の思考を取り上げた1890年代に起きた。根本的に2つの進歩は限られた予算で海軍に効果を出す必要があった。通商破壊やそれを重視した沿岸防衛は、第1段階においてジューヌ・エコールの取り得る方法だった。その新たな技術的な関心は自走魚雷を備えて専門化した魚雷艇にあった。ジューヌ・エコールは一貫して数的規模について主張し、従って少数の戦艦や巡洋艦に頼るよりも多数の小型艦を建造し、装甲・大口径砲を高速・数的優勢で置き換えることを最良とした。[11] Aubeの時代には技術的に揺籃期だったが、高速航行する小型艇から発射可能だったことから、この見解は魚雷採用に繋がった。[12] 小型ということは安価で、結果的に大規模部隊になることを意味した。[13] カモフラージュや欺瞞も、ジューヌ・エコールのメソッドにとって常に重要なことだった。Charmesが示唆したように、艦隊の混乱の只中で”幽霊”のように飛び回るガンボートや魚雷艇の小規模な混成小艦隊(flotilla)の攻撃よりも戦闘艦隊を混乱させるものはない。[14]

数的優位が単一の基地から出撃する単一の部隊によって達成することはまずない。部隊全体は、小艦隊規模で多数の堅固な基地に分散され、反撃回避で再度分散する前にターゲットを攻撃する時間内に集結する。Aubeは小型艇を攻撃に用いることが出来るとして、従来の考え方から脱却した。彼の海軍大臣時代に実施された演習は彼の自信を概ね裏付けた。[15] その制約にも関わらず、小型艇は明らかにこれまでのどんな海運襲撃用の封鎖線もすり抜ける能力を持ち、”英仏海峡(narrow seas)”での通商破壊は実行可能な選択肢だった。[16]

ジューヌ・エコールの第2段階では、戦術上の重視が沿岸防衛に移行する。魚雷は1890年代までに沿海域に、また沿海域から行動する小型・高速の魚雷艇に焦点を当てた兵器としてある程度成熟しつつあった。[17] とはいえ、これは通商破壊が終わったことを意味しない。この理論は、今や公海での英国の貿易を混乱させることを狙うというより、通商破壊や沿岸防衛を単一の沿海域での戦闘コンセプトに融合させるためにフランスが地政学的位置(地中海においても)の活用が可能なものだった。[18] 艦艇数は依然として最も重要で、速度も変わらず重要だった。艦艇の専門化というAubeの考え方は維持された。その意図は小艦隊各個に対して単一任務用途に単一艦種を装備しようというものだった。[19]

II-b. Jeune École: Its Effect and Its Legacy

19世紀から20世紀に移る中、ジューヌ・エコール理論に刺激を受けつつも、同時に巡洋艦や大規模で伝統的な戦闘艦隊を保有し、それによって遠距離通商破壊戦の可能性を再び作り出す計画が提唱された。これらは2人の提唱者によって主張された。François Ernest Fournier提督は新たに創設された海軍戦争大学の校長だった。Jean-Louis de Lanessanは1899年から1902年まで海軍大臣を務めた。両名は、フランス海軍はイギリス海軍がその封鎖部隊を分けざるを得ないように基地を多くの場所に配置するべきだと主張した。魚雷艇や潜水艦が迅速に英部隊を孤立させ彼らを遠洋に押し出せば、仏戦艦や巡洋艦は穴があいた封鎖線を潜り抜けて、外洋で英国の貿易を追い詰めることが可能になる。

しかし最終的に、時代がジューヌ・エコールとLanessanの複合戦略の双方が時代に左右されることになった。1904年、英仏協商が調印される。[20] その効果は即座に出なかったが、両国は最終的にドイツに対抗する同盟に向かい、ジューヌ・エコールの基となった政治的・戦略的な背景は消え去った。他方では、無線・鋼鉄の装甲・速射砲・探照燈・魚雷防御網の登場を含む技術の発展で魚雷の脅威が縮小した。英国では、特に艦隊を護衛する水雷艇駆逐艦の建造を含めて海軍が立て直された。フランスはその発展(success)によって士気が徐々に低下し、自身と比べれば貧弱な建造プログラムが立案された。フランスではAubeの国際法や世論の軽視の態度も疑問視され、またジューヌ・エコールのコンセプトが求める艦隊の形は、オーソドックスな海軍戦略コンセプトとはかけ離れるとして否定された。[21]

ジュール・エコールは海軍の現場や歴史家からは、当時の戦略や戦術を一変させ、新技術の発展に影響を与え、今日も影響を受ける戦術的な遺産とはいえ - しばしば偏った理由で – 貶される。[22] 20世紀初頭のフランスの戦略理論家だったRaoul Castex提督は、ジューヌ・エコールの考え方に対して辛辣な態度だった、彼は同学派の広めた速度・専門化・隻数の重視を取り違えと見做して不同意だったが忘れ去られることはなかった。[23] ジューヌ・エコールに批判的な著名な米国人歴史家のTheodore Roppも、この思想が代表的な海上戦闘の全くの新学派だったことは認めている。[24] 科学技術的には、この学派は魚雷や潜水艦・小型艇の攻撃的利用、水陸双方の沿岸防衛部隊の統合に影響を与えた。戦術的には、沿岸域での戦闘、通商破壊、部隊の散開・迅速な集結を果たす近代的な通信の普及、またフランスではguerre industrielle (工業戦)、他所で言うところの”総力戦”に向かう進化に影響を与えた。

この思想が大きな影響を与えたのはフランス外で、第1次・第2次世界大戦中のドイツの無制限潜水艦戦が最初であり、際立っている。しかし、英国は自身の貿易が脆弱であり、伝統的封鎖戦略の機能不全だと一度は認識しながら、海軍歴史家のGeoffrey Tillの言葉を借りれば”これらの思想を認めるというより、一層不安視するようになった。” [25]

III. FISHER AND FLOTILLA WARFARE

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第1海軍卿 (1904-10, 1914-15)だったJohn “Jackie” Fisher英海軍元帥は、Aube同様に熟考した。彼の名は革命的主力艦”Dreadnought”と切っても切り離せないが、良く知られる精力の全てを以って、英海軍は戦略的抑止の主たる手段である戦闘艦隊よりも、本国近海では魚雷を装備した小艦隊を、また帝国の通商航路を保護するには高速巡洋艦に頼るべきだと主張した。[26] Fisherは1905年当時、充分な数の魚雷艇があれば、3-4年以内に英仏海峡や地中海西部水域を軍艦に突破されることはないと見ていた。[27] Aubeのように、Fisherのコンセプトは個艦の優勢ではなく、集団に依拠していた。[28] 彼の考えは、敵が選択した海上空間を利用するのを防止することを狙う海上拒否の一種だ。[29] 歴史家のNicholas Lambertは、それが”全く新しい思考法”だったとしている。[30]

海上拒否は、しばしばネガティブな戦略だと批判されてきた。しかし、Fisherの見方は正反対だった。このコンセプトが彼にとって大いに魅力的だったのは、彼の最大の懸念となっていたブリテン諸島の進入路となる英仏海峡を哨戒する”小艦隊”の比較的安価な水上戦闘艦艇を大規模に展開することが可能なことだった。

この細い水域へのアクセスは、フランスが同じ方法で英主力艦に対抗したように両者を拒否するには効果的だが、この小艦隊を基盤とした防衛は英側に有利となる。これは両海軍の主力艦や小型戦闘艦艇は英仏海峡の確保や拒否に忙殺される一方で、英海軍は自国領土や海外の貿易路の防衛に一層多くの装甲巡洋艦を潤沢に配備することが可能になるためである。[31] それらは制約されるどころか、むしろ最も重要な使命を果たす役割に解放される。1905年末までに英海軍情報部長のCharles Ottley大佐は、西はBrestから東はElbe河口に至る”小艦隊防衛”を実施し、それによってWilhelmshaven周辺を根拠地とする独海軍を拘束することを記している。[32]

Fisherにとって小艦隊防衛が余興のようなものだったという疑念は彼自身の著書が晴らしている。彼はそれが英仏海峡の防衛に“特に適した”戦略であり、また自身の備えの観点から、”例えば魚雷艇や潜水艦のような幾らかの艦艇は他艦よりも求められる”とし、これはそれらが“艦隊全体の前衛であり、第一撃を成す”からだとしている。[33] とりわけFisherが称賛したのは潜水艦だった。Fisherは潜水艦が海上戦闘における真の”革命”を代表していると見ていた。[34]

潜水艦の有効性や魚雷の脅威に関するFisherの予言の多くは証明されている。1916年のJutland沖海戦において、1914年以来明らかだったこと - 外洋艦隊(High Seas Fleet)たるドイツの”リスク艦隊”は、充分な規模を持つ英グランドフリートの数的優位を奪うために独立部隊を沈めることが出来なければ、戦略的には重要ではないことが確認された。独海軍が戦争の成否に影響を与える唯一の方法は、巡洋艦ではなく長距離潜水艦を用いて英国商船を撃沈することだった。ジューヌ・エコールが40年前に先取りしていた通商破壊戦略は、遥かに技術レベルが進んでいたが、この時に実を結んだ。[35]

IV. THE SOVIET “YOUNG SCHOOL”

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ジューヌ・エコールのように、ソ連の”青年学派(molodaia shkola)”は、資源的な制約を受けた時代において海軍の能力(capability and capacity)を維持する必要性に駆り立てられた。ソ連の場合、海軍の予算には限度があり、建造能力は内戦で失われていた。フランスでは、国力が陸軍に振り向けられていた。ソ連の戦間期の最優先事項は迅速な工業化であり、残りの殆どは陸軍に振り向けられた。海軍の主眼は従って、“海洋戦略における全くの新路線での”海上戦争遂行を目的として、“機雷原・沿岸砲兵・魚雷艇(motor torpedo boats)を統合したシステムを用いる”沿岸防衛に切り替わった。[36] 伝統主義者は全くの門外漢として疎外された。[37]

ジューヌ・エコールとは異なるものの、これもイデオロギーにも駆り立てられた。その提唱者らは、赤軍の強い影響下にありながらも共産党の指導の下で取り組んだ。[38] その目的は、軽装備かつ低予算で、潜水艦を中心とし、それを支援する分の少数の大型艦のみでの海上防衛抑止部隊の理論的支柱を提供することにあった。[39]

マルクス・レーニン主義用語を取り払うと、そのソ連の青年学派として知られるようになった(ジューヌ・エコールから引用された思想の意識的な利用のために)ものの中心的な信条は、陸軍を海側から護衛するために海軍が存在するということ、”小規模戦争”に再度注目するべきだということ、小型艇や潜水艦は短期に建造することが可能であり、従って損害艦を迅速に更新することが出来ること、また艦隊の主要打撃兵器として潜水艦が戦艦にとって代わっていたことだった。[40]

国家権力の全武力をもたらすことを目指したプロレタリア軍事ドクトリンの動きは、1921年にロシア内戦が終結した後に端を発する。[41] この政治的志向にも関わらず、かつての帝政ロシア海軍の軍人の多くは、その技術的・作戦上の経験によって立場を維持した。彼らはMahanが述べたように、制海権を行使する能力が国家の海洋進出を保護し、ソ連海軍力に掣肘を加える海峡を突破する(forcing)ために重要だと主張、これに反対する者は彼らに”保守派”の烙印を押した。[42] 党内の極一部にはそうした発言を理解する者がいたが、大半はソ連の危険な財政状態下では非現実的だと見做した。

ソ連海軍総司令官(1956-1985)だったSergey Gorshkov提督は1972-73年に、アップデートされたジューヌ・エコールをはっきりと説明出来る1920年代の変革を纏めている。

(当時)利用可能な少数の戦闘艦艇には、地上部隊と連携する”小規模海軍”の部隊で、我が領海を防衛するための戦略や戦術の研究が必要とされた。 肝心なことは、(有効資源の利用を最適化して)mine-artillery positionsで編成された水上艦艇・魚雷艇・潜水艦・航空機・沿岸砲兵を用いて、あらゆる種類の部隊が隠密裏に集結し、連携して多方向(opposite directions)から行動して、基地から切り離されることなく主目標に迅速に打撃を与えることだ。 [43]

* Mine-artillery positionsは沿岸砲兵支援下の機雷原を指すらしい。

青年学派の推進はJoseph Stalinによって減速させられる。彼がこの思想を支持することはなかった。1928年、革命軍事会議は主に沿岸防備と陸軍支援を任務とする艦隊の設置を決定した。[44] 1936年5月27日、”大艦隊(large sea and ocean fleet)”を設置する決定が代わりに認可される。[45] Starlinの構想が明確な戦略評価や艦隊計画のプロセスから生まれることはなかった。その理由がどうであれ、また関連文書は出てきていない、1930年代後半に外洋艦隊建設の処置が講じられる。[46] 1939年4月に艦隊総司令官(原文ママ)に指名されたNikolai Kuznetsov提督は、その建設計画が、青年学派と保守派の思想が混ざった、Lanessanが1900年代初頭の仏海軍に手ほどきした変革の往時のスタイルの、新たな”Soviet School(ソ連学派)”の台頭と同時発生だったと1965年に説明している。[47] しかし計画は窮地に追い込まれた。戦車や航空機の成功があったとはいえ、Starlinが提示した建造計画の規模は1,300万トンを超え、ソ連の工業力で実現可能な範囲を完全に超えていたためである。[48] 1941年6月を前にしてドイツとの関係が戦争の恐れに傾くと計画は延期され、造船所は急遽として再び沿岸用艦艇・潜水艦に専念することになった。

レトリックな印象としては、Starlinが欲した大型戦艦や巡洋艦はソ連海軍の焦点を防御から攻勢に、沿岸から外洋にシフトさせただろうということだ。1939年の戦略目標は4つの艦隊エリアで海上優勢を達成することだったが、理由や目標の定義はされなかった。戦艦は浅海域での作戦には全く適さず、他方ではどのように戦艦を外洋に展開させる要領を定めた計画はなかった。KuznetsovはStarlinとの1939年終わりの会談後に、彼が”建造理由について自身の心中を全く明らかにしなかった”と認めている。[49] 振り返ってみると、この - Starlinの、また彼一人の、反対する者などいない - 巨大計画は、ドイツの計画に対抗したもの(つまり戦中間の軍拡競争にあわせた)だったが、Hitlerの野望に酷似したソ連最高権力者のアイデアに呼び起こされたものでもあった。それは結局、ソ連が列強国の海軍同様に建造ないし購入出来ることを示すことを狙う虚栄心に満ちた政治的声明に過ぎなかった。[50] Starlinの建造計画が急遽放棄されたのは、ソ連海軍が実際には陸軍を側面援護する沿岸部隊として戦ったためだった。

第2次大戦後、Starlinは海軍の計画を巻き戻し、妄執ともいえる規模とする代わりに海軍を抑制した。1948年、彼はソ連には”我々は沿岸部の通商を守る必要がある。外洋交通路を保護する”必要はないと述べた。1950年には、海軍士官を”盲目的に米英を模倣している…我々は外洋での戦闘を考えていない、我が沿岸部で戦うことになるだろう。”と批判している。[51] 実際のところ、どんな大型艦でも潜水艦や小型艇からなる小艦隊に対する海軍の依存を減らせる。それでも、砲兵・機雷・海軍歩兵・戦闘機に守られた堅固な沿岸基地から出撃し続ける後者が海軍の屋台骨であり続けた。大型艦は外洋で活動することはないが、敵の戦略目的を拒否するために特定エリアで制海権を維持するために”戦術的に有利な距離で”活動する。[52] 全体的な意味合いとしては、“積極防御”として知られる戦略的には防勢だが戦術的には攻勢のコンセプトが実現している場合、小艦隊は戦隊(heavier squadron)による補強の必要があったということだ。 [53]

当時のソ連指導者だったNikita Khrushchevが1956年に開始された大規模潜水艦建造計画を実行する一方で、彼の政治的弱点(これによって、彼は事実上1964年に権力の座から追われた)は、ソ連学派の艦隊保全主義コンセプトに充分な量の、海上拒否を超える能力を持つ艦隊の段階的建設の道が開かれないことを意味した。[54] しかし、それは近海・遠海・外洋(理論的にはソ連の潜在敵国の沿岸にまで広がる)の3つのゾーンを持つ“deeply echeloned zones of defense(縦深的な階梯防御ゾーン)”という陸軍の地理的ドクトリンを軸に建設される艦隊になるということだった。[55]

V. CHINESE GUERILLA WARFARE GOES TO SEA

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1949年に共産党軍が勝利して生まれた中国海軍はソ連海軍と多くの共通点を抱えていた。1950年代の中国海軍の発展は、1920年代・30年代のソ連が経験したものと同様の経済的な制約によって制限された。公式名称から明らかな通りに、中国人民解放軍海軍はソ連モデルのように陸軍に従属している。地政学的・思想的に中国及びソ連は大陸国だったし、両国の体制は革命戦争を主張していた。[56] それでも、中国海軍が本質的にカウンターパートであるソ連のレプリカだったという見方は、自国の影響力の重要性を曖昧にさせる。

中国の戦略家は明確に彼ら自身の知的営為(intellectual agency)を提示してきた。毛はつまるところ自分自身が支柱的な軍事理論家で、彼の留まるところを知らない影響力は海軍関係にも及んだ。毛の戦略的思想とソ連青年学派の思想との類似点は、導入されたソ連海軍のコンセプトの摘要をしやすくしたかもしれない。しかし、中国が疑問なしに特権的な外国の思想を自身の思想に代わって持ったとは考えにくい。[57] さらに中国の1950年代・60年代の洋上戦闘の経験は中国地域の事情に固有の不朽の教訓を与えた。同様に、ドクトリン開発や部隊の近代化は国内外の思想の思慮深い統合の産物だった。中国は決してソ連のパトロンからそっくりそのまま借りる無思考なロボットではなかった。

V-a. Glorious History

中国海軍の作戦史は、乏しいとはいえ、軍のアイデンティティーの形成に重要な役割を果たしてきた。公式説明には、海軍初期の戦闘経験がその後を決定づける時として描かれている。歴史文献は、中国海軍が質量で圧倒する敵に対抗してどのようにハンディキャップを克服してきたかを示している。共産党軍が中国内戦で勝利すると、北京の新政府は厄介な海上の安全保障状況に直面した。国民党は当時台湾にいたが、依然として沿岸部をコントロールし、戦略的位置にある沖合の島々を多数占拠していた。国民党の海軍部隊は本土沿岸を徘徊して、通商を妨害し、沿岸交通を阻止していた。資源的な制約にも関わらず、中国海軍は手中にある貧弱な装備の部隊を改善し、間に合わせとしていた。中国海軍は国民党軍の海上での活動能力に罰は与えず終息させながら、国民党軍を主要な島々から追い払うことに貢献。初期の中国海軍は事実上遊撃思考で、ソ連青年学派の思想は容易に定着した。[58]

最初の目標は、中国南部の海上通商の中心である珠江河口の主要海上交通路(SLOC)に跨って位置する万山諸島だった。1950年5月、中央軍事委員会は地域司令官に“少を以って大を叩き、我が長所を最大限に生かして接近戦や夜戦を実施せよ”と指示を出す。[59] 中国海軍最初の海上戦闘において、中国小型艇は夜間に沖合の島々の湾内に潜入し、停泊している敵の小艦隊を待ち伏せした。続いて起きた混戦で、共産党軍は驚く国民党軍を混乱させながら、多くの艦艇を撃沈した。最も重要で劇的な遭遇戦では、28トンの哨戒艇が1,200トンの国民党軍旗艦を大破させている。かろうじて大混乱を脱した共産党軍は、島を奪取する道を開いた。

中国は次に国民党軍が占拠する浙江省沿岸の江山島に向かった。中国陸軍が初の統合上陸作戦を成功させたことで有名な1955年の江山島戦役が開始される以前に、中国軍は国民党軍から制空・制海を奪取することを模索。江山島への接近を確保するため、共産党軍は敵海上部隊、特に大陳島周辺を哨戒しているコルベット艦 Taipingを無力化する。中国海軍は大型艦艇で動きを隠しながら極秘に4隻の魚雷艇を前線の集結エリア(staging area)に派遣し、魚雷艇はそこで奇襲攻撃の指令を待った。その間、大陳への空爆が国民党軍の防御の阻止に動いた。1954年11月14日夜、Taipingが発見されると、沿岸部のレーダーが21トンの魚雷艇を1,430トンの目標に向けて誘導した。ヒットエンドランの雷撃は圧倒的な大型艦を撃沈し、同水域の制海権は共産党軍に傾いた。

国民党軍との戦いは1965年の一連の海上戦で頂点に達する。8月6日、中国海軍南海艦隊の6隻の魚雷艇と5隻の高速哨戒艇がJianmen (1,250トン)・Zhangjian (450トン)を福建省と広東省の境に近い東山島の沖で奇襲した。夜間攻撃が両艦を撃沈し、少将1名を含む170名の乗員が戦死、33名が拿捕された。この”86海戦(86 sea battle)”は中国海軍では名高く、入念に研究される勝利となっている。3か月後には6隻の魚雷艇と6隻の高速哨戒艇がもう1つの夜戦に参加、国民党軍のYongchang (945トン)・Yongtai (903トン)と福建省泉州の東で対峙した。戦闘は激しく、大破したYongtaiは戦場を退避、2発の魚雷に続いて砲撃が命中したYongchangは沈没した。[60]

これらの初期の勝利は中国海軍の組織の記憶の必須部分となり。今日も響き渡っている。例えば、中国海軍の将兵向けハンドブックには、“海軍の輝かしい歴史”と題する章にこれらの偉業が詳述されている。[61] そのような歴史的な話題は逆境時の軍の知略の伝統を伝える。それは攻撃的精神・軍略・洋上での奇襲の重要性を提示する。また、中国をゴリアテたる国民党と対峙するダビテの役割に振り当てている。中国戦役史は如何に国民党が排水量で圧倒していたかを見せることに大きく労を割く。しかし、それは中国が依然として優勢な敵が関わる紛争に備えるべきだというメッセージでもある。弱者と強者の非対称な実力を克服するという課題は60年前と同様に今日密接に関連し、19世紀後半のフランスや革命後のロシアと同じく当時と今の中国に関連している。

おそらくもっとも重要なこととして、中国海軍を形成する経験は冷酷な数十年の内戦で作られた人民解放軍の戦闘の伝統の影響力を強調している。洋上を独壇場としたヒットエンドランは、毛の遊撃戦にその祖を持つ。例えば、周林貴は軍事科学アカデミーの隔月誌の軍事史の記事で、初期中国海軍の海上空間での移動遊撃戦術を称えている。周林貴(周林贵, Zhou Lingui)は、“当時、海軍将兵の圧倒的多数は陸上での豊富な作戦経験を誇る陸軍から来ていた。意識的に、あるいは無意識に、彼らは陸上での遊撃戦から得た価値ある教訓を海上での戦闘に取り入れていた。”としている。[62] 21世紀に続く毛の軍事理論の関連性を賞賛する研究の著者らは、毛が1950年代・60年代の初期海上作戦に影響を与えたと認めている。毛の人民戦争コンセプトは、”島々や沿岸部・接近戦や夜戦・海空共同・沿岸部と艦艇の共同・近海での殲滅・小型艇による対大型艦艇戦闘に頼った戦術の構築”を支えたと彼らは主張している。[63]

V-b. Sabotage Warfare at Sea

1950年代前半のしつこい国民党軍の脅威に中国軍は対策を打たざるを得なかった。海上戦闘に留まらない作戦原則の大半は暗黙のものだった。公式の作戦指針は1950年代中盤まで出ていない。実践が理論に先行していたが、1956年3月にようやく中央軍事委員会が本土を防衛する“積極防御”と題した軍事戦略指針を出す。毛が考え、1930年代に改訂された”積極防御”コンセプトは、攻勢作戦・戦術を戦略的防御目標の達成のために行使することを求めている。海軍の役割は敵陸上部隊と対峙する陸軍・空軍を支援することだった。積極防御下での海軍の任務は以下の通り。

陸・空軍との統合反攻上陸作戦の実施、敵海上交通路の破壊、資材・人手の供給、敵海上輸送手段・戦闘艦艇の弱体化・殲滅、沿岸部要所での陸軍との共同作戦、我が沿岸部の基地システムや戦略的なエリアの安全の保証、沿海域作戦における陸軍支援、陸軍と協調しての沖合の島々やあらゆる領土の奪還 [64]

1957年、蕭勁光(萧劲光, Xiao Jinguang)提督、中国海軍初代海軍司令員(1950-79)、はよりシステマティックに中国海軍の作戦指針を発展させた。蕭(長征時の老兵で内戦中は第4野戦軍の兵団司令員だった)は、海軍関係の訓練やバックボーンを持たない陸軍将校だった。彼や共産党員は、敵であり米国に支援された国民党軍が優位を占めると見られた全く新たな作戦空間に迅速に対応しなくてはならなかった。従って、蕭が中国海軍を指導する新たな任務に彼の知る最善を適用したのは意外なことではない。

1920年代・30年代の毛の軍事著書やソ連専門家の著書の調査を経て、蕭は”海上破壊戦”(海上破袭战)の作戦コンセプトを著した。良く装備された敵と対峙した彼は、中国が敵と正面から戦う立場にないことを理解した。自身の戦場経験を引用しながら、提督は劣位にある中国軍は”敵を間断なく攻撃・破壊し、大きな勝利の代わりに小さな勝利を積み重ね、我が方に有利な状況を最大限に活用して、敵にとって不利な状況を追求・作出して、持久戦を実施するために、急襲・破壊・遊撃戦術を用いる”べきだと論じた。[65] 毛はこれらの考えを自身のものだと即座に認めている。

4大特徴が蕭の海上破壊の性格を表している。第1に、全ての利用可能な兵器を用いて、敵にあらゆる種類の攻撃を行うように要求していること。第2に、主導権を握ることに関して、隠密行動や奇襲攻撃で無警戒ないし準備のない敵を打ち破ることを強調していること。第3に、間断なく敵兵力を叩く攻勢作戦・戦術を要求していること。第4に、兵力や戦闘スタイルの機動的に用いて、敵を殲滅しつつも自軍を温存することを要求していること。蕭は基本的には彼の軍が過去に全くの必要性から実施したことを盛り込んでいる。それ自体は”海軍戦略”というよりも、より大きな政治目的に利用可能な手段として連携させることを狙う、実体としては大規模作戦・戦術のコンセプトだった。蕭は要するに戦闘に勝利する方法を明示したのだった。

奇襲、欺瞞、常識外の手法、攻撃精神、小さな勝利の積み重ねが、蕭の海上戦闘コンセプトの本質だった。中国海軍の事典によると破壊戦は以下に関係する。

海軍部隊が敵を破壊・奇襲攻撃を実行する海上での攻勢作戦。それは隠密裏に奇襲攻撃を実施する海軍部隊の小規模グループに頼った戦闘スタイルである。作戦目的を達成するため、主要な敵目標の攻撃には型破りな戦闘手法を用いる。それは戦略・戦役レベルでの通常作戦と協調して、敵を拘束ないし敵展開部隊を混乱に陥れるため、敵の殲滅・弱体化・消耗・疲労・分断を狙う。[66]

このコンセプトはご都合主義に満たされている。海上破壊戦は中国の複雑な海洋地理、とりわけ18,000kmに及ぶ入り組んだ海岸線と本土に接しない沖合の島々の利用に努める。中国海軍部隊は、分散・潜伏し、命令を待ち、展開・再展開、攻撃の発動や共同、沿岸砲兵や海軍航空部隊の掩護下での作戦のため、海岸線や島々を利用する。[67] このような破壊の標的は、脆弱な交通船舶・単独行動の艦艇・貧弱な防御の海軍基地や港である。そうした軍事目標の破壊戦術には、高速艇や航空機による襲撃、機雷敷設、ハンターキラー潜水艦作戦、敵港湾に潜入しての隠密攻撃がある。毛の人民戦争を踏まえて、通常部隊は漁民や沿岸部の市民の支援を受ける。

蕭の作戦コンセプトは中国海軍に可能な戦術の実施や兵器開発を軸にした重要な編成原則を提供している。中国海軍の軍事調査研究所の左立平(左立平, Zuo Liping)は、海上破壊戦は”軍事理論における、ある種の革新”だったとしている。”海軍は研究と実際の戦闘経験を融合させるだけではなく、中国の特質を海軍理論に付与したとし、作戦指針としての海上破壊戦の発展は高度に戦略的で包括的なある種の海軍思想を表している。”と左は主張している。[68] 特筆すべきは、左が戦略的な枠組みというよりは、作戦の枠組みとして理論を記述していることである。従って、蕭が海上で弱者に立つ側に戦術の解決策を提供したことを再度強調していることは重要だ。しかし、彼のアプローチは海軍がどうすれば中国の外交政策や長期戦略目標に適うのかは殆ど答えていない。

中国自身が理論化し、苦労して手に入れた海上戦の教訓が中国海軍の作戦ドクトリンを特徴づけている一方で、初期の共産党の海軍思想の主な源泉は疑いの余地なくソ連だった。1950年8月、蕭提督は初の海軍会議を招集し、中国海軍の将来の発展と方向性を討議した。蕭にしてみれば、思想的な親類関係、同様に技術やノウハウへのアクセスがソ連海軍を論理的・政治的に正当なパートナーにした。

彼が後に述べたように、”特にゼロから始まった我が海軍にとって、我々自身の経験に頼り、自身で手探りすることは良くない。他者の進んだ経験から良く学び、取り入れることのみが、迅速に近代的で通常型の実力ある海軍を建設することが出来る。” [69] ソ連との協力関係が持つ重要性を証明して、蕭は1952年4月、Moscowに代表団団長として赴き海軍の兵器の購入を交渉した。数度の交渉後、1953年6月に両者は軍艦・潜水艦の譲渡に同意した。その間にソ連の顧問や専門家が大連の海軍大学を通じて派遣された。1949年から60年までの間に3,400名近くの講師が中国海軍を訪れている。

それでも、蕭の回顧録はソ連を頼るという当初の決断に関しては相当な討論があり、彼の部下を分断したことを認めている。内戦中に共産党に亡命した元国民党海軍士官は、西側特に英米の技術へのアクセスを無に帰してはならないと主張。他方では、人民戦争に拘る党員が他の大国からよりも彼ら自身の内戦の経験から学ぶべきものの方が多いと主張した。ソ連の技術や海軍思想への抵抗は、強大な陸上部隊を好み、毛の人民戦争ドクトリンは神秘主義的だと考える大陸主義者の幹部に由来する。中国での議論は従って、1930年代のソ連における保守派と青年学派の間の激論と顕著な類似性を生んだ。中国の大陸主義者、彼らより以前のソ連指導者に似ている、は彼らの思想を海軍の状況に適用した。

蕭自身は盲目的にソ連の全てを取り入れることには反対し、中国海軍が中国独自の事情に合わないソ連流は排除して、選択眼を持つべきだと主張していた。彼にとっては中国海軍がソ連から技術的・組織的な教訓を得られることは当たり前のことだった。しかし、政治的教化のような重要事項で軍が自身の伝統に執着することは避けられなかった。

V-c. “Naval Aviation, Submarines, Fast Attack Craft”

蕭の1950年8月の重要な会合は中国海軍の戦力組成に長期的影響を与えた。国家の経済的・工業的・技術的な惨状は、仏ソ海軍の場合と同様に海軍の野心や選択肢を制限した。同じように、中国海軍は同じ土俵で西側の近代的な海軍に対抗することは出来なかった。また、差し迫った危険であり、本土に迫る国民党も海軍近代化を限定していた(dictated the scope)。会合の結果をまとめる際、蕭は”長期的な開発や現在の状況から出発することを念頭に入れると、我々は本質的に近代的で攻撃的な軽量の海上戦闘力を建設することになる。我々はまず、現有能力を組織化・発展させ、また現有能力を基盤に魚雷艇・潜水艦・海軍航空部隊を徐々に強大な国家海軍を建設するために開発する必要がある。”と結論付けた。[70]

蕭の水上・水中・航空部隊への要求は海軍戦闘の特徴の当初の評価を反映していた。彼は1950年に”近代海戦は必然的に3次元戦闘であり、複合戦の1種だ。”と断じている。我々は波涛の、軍艦の、潜水艦の、沿岸砲兵の上空に航空機を配備して、統合された戦力の相乗効果を発揮する。戦時に、これらの能力のいずれかでも欠くことで惨事を招くことも十分にあり得る。”と断じている。 [71] 1950年代、60年代の沿岸部での戦闘では水上部隊と沿岸部隊との相互支援の重要性が十分に確認されている。蕭の指示、一般に“kong/空, qian/潜, kuai/快” (中国語の略語で海軍航空・潜水艦・高速戦闘艇を意味する)として知られる、は中国海軍の向こう20年余りの建設方針を決めた。

当初は、魚雷艇がソ連から輸入されるか、ソ連の設計図や部品を用いて中国の造船所で建造された。1960年代には、ソ連オリジナルを含めて、さらに多くのタイプが国産建造されるようになり、フリゲイト・駆潜艇・掃海艇・ミサイル高速攻撃艇・魚雷艇・哨戒艇・ディーゼル潜水艦・陸上戦術爆撃機が艦隊に加わった。 中国海軍は、大型水上戦闘艦艇や海軍航空を軽視する一方で、大量の小型艇や潜水艦、特にType 021 (黄蜂級)ミサイル艇やType 033 (Romeo級)潜水艦を配備、これらの追加能力は、蕭が1950年に発表した軽量海軍部隊を構成した。これらは高速性・隠密性・機動性・攻撃力を特徴とする沿岸戦闘に非常に適していた。

V-d. From the Lost Years to “Near-Seas Defense”

中国海軍初期作戦史・海上破壊戦・1950年代に始まった艦隊増強は、頑固に変革に抵抗することになる遺産となった。さらに、外的ショックや戦略的決定が現状の確立を助けた。1つは、1960年代・70年代の文化大革命が近代化をひどく阻害したこと。また、毛の水中核抑止力を追求するという決定が通常部隊からの注意を逸らしたがリソースの負担となった。このため、中国は自身の軽量・沿岸部隊の態勢の再構成に苦闘することになった。

1970年代にはType 051 (旅大級)ミサイル駆逐艦やType 091 Han (漢級)原子力攻撃潜水艦のような幾つか重要な進展もあったが、陳腐化したプラットフォームが海軍の大半を成していた。海軍は旧式艦艇・潜水艦を過剰に建造し、新たな研究や開発計画を軽視した。自衛兵装を欠き、戦闘兵器との協力もない単一用途のプラットフォームが中国海軍の邪魔になった。水上部隊が経空・対潜脅威からの防護の頼りとする陸上航空部隊の限定的な航続距離は、海軍の作戦を本土沿岸から200海里に制約した。[72] つまり、中国海軍は蕭が20年前に描いた“3次元戦争”の実施能力を欠いていた。悪いことに、この問題は数十年来のものだった。

海軍ドクトリンも過去から脱却せず、60年代・70年代・80年代初期は50年代とほとんど変わらなかった。軍事科学アカデミーの海軍アナリストである師小芹(师小芹, Shi Xiaoqin)によれば以下の通り。

主要な任務は敵海軍の初期攻勢を可能な限り遅延させるために海峡通過に固有のリスクを活用することだった。遅延フェイズが終われば、敵後背での海上遊撃戦と共に沿岸部で拘束活動のために陣地防御戦に移行する。陣地防御戦とするため、これらの作戦は全てが島嶼や沿岸部の想定戦場(set-piece battlefields)を頼みとし、あらゆる沿岸兵器・火力からの支援に依拠すること重視している。敵後背の交通に対する奇襲攻撃は、海上遊撃戦の主体を形成する。[73]

時代遅れのドクトリンや肥大化した戦力組成がタチの悪い循環の中で互いに足を引っ張った。劉華清(刘华清, Liu Huaqing)が中国海軍司令員になるまで(1982-87)は、この状態が続いていた。劉が“近海防御”の推進で果たした中心的役割は多くが西側で既に記述されているので、ここで既出の内容は繰り返さない。[74] それはしかしながら、近海防御戦略が中国海軍の基盤のままであることには留意すべきだ。つまり、中国海軍の過去・現在・将来のドクトリンを繋ぐ重要なコンセプトである。中国海軍の事典は以下のように説明している。

近海防御は、攻撃してくる敵を間断なく疲弊・殲滅する一方で、最大限に自身を温存して海上戦力の総合的な効果を上げるため、あらゆる種類の手法の複合的使用を必要とする。それには、敵をサーチ・アンド・デストロイし、徐々にパワーバランスをシフトし、戦略状況を変えるために機動戦闘能力を充分統制し、それによって戦略的反攻や攻撃に移行する時期を適切に計る必要がある。 [75]

近海防御コンセプトは、初期ソ連思考を反映した方法で一連の階梯式に中国の海上防御領域を拡大し、中国海軍の作戦海域を本土沿岸部から一層遠方に拡大する長期的・地域的指向の戦略を明瞭に表現している。中国沿岸水域で敵と戦う代わりに、中国海軍は海岸線上にある政治的・経済的に重要な中心部への攻撃を防ぎつつ、敵を武器射程に保持することを狙う。敵部隊を押し止め・遅滞させようとする海上破壊戦とは対照的に、近海防御では敵の攻勢を打破し、押し返す。海上戦闘では小部隊の針の一刺しやヒットエンドランではなく、継続的で組織化された陣形が必要とされる。旧来の陸軍への従属、陸上作戦に付随する役割とは対照的に、海軍は独立的・戦略的な軍として活動の幅は大きく拡がることになった。

それでも、戦略が真空から生じることはなく、長年の戦略原則に固定されていた(また動かなかった)。例えば、劉は近海防御が積極防御の戦略指針に一致していると主張した。それは、国家統一・領土保全・海洋権益のような革新的権益を含む戦略的防衛目標のために攻勢手段を用いる。同時に、近海防御は中国が量的劣位で(from a position of material weakness)戦う想定はそのままである。海軍力のギャップを埋めるため、攻勢活動は敵の磨り潰しに積極的に行使される。時間と共に、そうした攻撃の蓄積が海軍力のバランスを、恐らくは決定的に中国有利にシフトさせ、中国が攻勢に向かう機会を与える。敵と共産主義者の間での運命の逆転にも似たものを思い描いた毛の人海戦術においては、イベント進行は有名な3つのフェイズが並行する。

* material weaknessを重要な欠陥と訳すのは、この場合は避けた方が良さそう?

さらに、破壊戦が全く否定されたわけではない。むしろ、新たな、大きな戦略コンセプトに包摂された。“最高指導者”鄧小平時代の中国海軍戦略の回顧展において、中国海洋大学の劉中民(刘中民, Liu Zhongmin)が近海防御の系譜を毛の革命時代に遡って辿り、陣地・運動・遊撃戦を明確に指摘している。[76] 劉によれば、戦略は沿岸部から陸上及び沿岸付近の戦闘まで遠方の海上作戦と密接にリンクし、海軍と本土防衛を繋ぐ。中国海上防衛範囲のぎりぎりの限界での対称的で通常型の部隊の作戦と共に、破壊戦が多分に補助を果たすだろうが、沿岸部に近接する後背エリアでの役割は小さいものではない。

VI. ECHOES OF THE PAST

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中国のアナリストは、将来の海上戦争の指針のために自身の戦略的な伝統の見直しを続けている。中国海軍指揮大学の全金富(全金富, Quan Jinfu)教授・陳明(陈明, Chen Ming)教授は、両教授が“全体として戦争に大きく影響する海上戦争の目的を達成する海軍力を行使する作戦”と定義付ける海上戦略作戦に備えるよう中国海軍に求めている。彼らは、海上戦闘が毛の著書から直接引用されたコンセプトである海上運動戦・海上陣地戦・海上遊撃戦のような馴染みの形態をとることを想定している。[77] 同様に、中国国防大学の王正(王正, Wang Zheng)は、”情報化条件”下での将来戦争で1930年代の遊撃兵が馴染んだ手法が用いられるだろうと主張している。王は、中国人民解放軍は”敵のラインの深く後方でハイテク兵器を用いた海上での特殊作戦・破壊戦・遊撃戦で人民戦争の広大な海に敵を陥れること”を模索すべきと断ずる。[78]

蕭提督が初期に航空機・潜水艦・高速攻撃艇を重視した姿勢は、今も中国海軍や他軍種の戦力組成に見られる。2000年から2012年の間に、中国の攻撃潜水艦部隊は8倍に増強され、5隻から40隻となった。[79] この近代的な海中部隊は、潜航して水上部隊の潜在的脅威となり、対艦巡航ミサイル(ASCM)の発射が可能である。迫り来る敵艦隊の想定針路の察知が可能だと仮定すると、これらの潜水艦は予め攻撃位置に移動し、然るべき時期の潜伏解除まで待機するだろう。艦外センサーや照準システムによって、分散した中国潜水艦は共同・多方向からミサイルを斉射し、遠方の敵を奇襲出来る。[80]

1950年代の中国海軍軽魚雷艇部隊に類似するのがType 022 (紅稗級)高速攻撃艇の大艦隊である。米海軍大学のNan Liによれば、”Type 022は、中国海軍の潜在的に大規模展開する敵を相手取ることが可能な成功した小型艦艇海軍としての歴史的気風が続いていることを示している。” [81] 長距離ASCMで武装したウェーブピアサー型カタマラン艇は強打を持つ。[82] 紅稗級のステルス構造・高速性・小さなサイズは、本級を敵の回避や沖合水域での奇襲攻撃に理想的なプラットフォームとしている。就役中の最低でも同級60隻で、中国海軍は艦隊防衛を打破するために、共同して一斉飽和ミサイル攻撃する位置に首尾よく付くかもしれない。[83] Type 022は、狼群で海上破壊戦を狙ったヒットエンドラン戦術が可能である。

特筆すべきは、中国のアナリストが海上遊撃部隊として潜水艦や高速攻撃艇の価値を称揚し続けていることだ。高速攻撃艇に関連する21世紀の研究は、遠海で作戦中の大型水上艦隊に支援を提供する近海における小型で近代的な戦闘艇の大集団を想定している。[84] 中国海軍工業大学の教授3名は、将来の海上戦における”海上大群戦(海上蜂群战探析)”、Type 022に非常に適したコンセプトを提唱している。奇襲攻撃・待ち伏せ・隠ぺい・欺瞞が大群戦術の特徴となる。[85] 同様に、中国海軍指揮大学の2名の研究員が、近代的な潜水艦がどのように空母打撃群と交戦するかを説明する多くの機会で“遊撃戦術”を引き合いに出している。[86]

中国の基地航空及び地上ミサイル部隊は、独立して、或いは中国水上部隊及び海中部隊と連携して、海上でのイベントに潜在的に影響を及ぼすことが出来る。中国海軍航空戦力はASCM発射が可能な固定翼地上機を配備している。特に、Su-30MKK多用途戦闘機やH-6中距離爆撃機は、”第1列島線” (大まかにはカムチャッカから日本、琉球、比島北部からボルネオまで連なる)の東側を巡航して水上部隊に脅威を与えることが可能だ。そうした長距離ASCMを装備した海上攻撃機の大集団は、恐らく敵艦隊防衛を打ち破る集中攻撃が可能である。

戦略ミサイル部隊の中国第2砲兵が保有する対艦弾道ミサイル(ASBM)は海上移動目標の攻撃が可能な機動弾道兵器で、恐らく沿岸火力の究極の手段だ。トラック搭載式ミサイルは、800海里を超えるとされる射程で潜水艦・水上艦・航空機から発射可能な軍艦殺し(ship-killing)ミサイルの大家族に加わった。これが宣伝されたように機能するかは激論の的になったが、その存在は中国が可能な限り多くの海上打撃オプションを以って敵水上部隊をリスクの下に置くことを模索している明白な証左である。

恐らく仮想米中海上戦が、1950年代の破壊戦がどのように21世紀に依然として行われるだろうかということを上手に説明するだろう。戦術的には、中国は兵装が許す限りの最大有効射程で米海軍部隊と交戦・阻止を模索するだろう。ASBMや長距離作戦機は第1撃の発射が可能である。ASBMの攻撃や長距離ASCMを装備した海上打撃作戦機の大集団は恐らく米国の艦隊防衛を突破して攻撃するだろう。そうした沿岸配備火力によって、中国は米空母打撃群が搭載機での反撃に沿岸部に充分近づく前に本土から直接的に攻撃することを可能にする。米艦隊は中国海岸に近づくに連れて、待ち伏せているASCM搭載潜水艦・ステルス高速攻撃艇や他の短距離ミサイル搭載の部隊に遭遇するだろう。抵抗は、ハイテク遊撃戦術を伴う破壊戦が最も使われるこの中国の防衛圏の内側で最も強固で、最も致命的になる。

VII. DISCERNING CHANGE AND CONTINUITY

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それでも変化が継続中であることは否定できない。中国海軍は、大半が時代遅れのソ連時代の技術からなる沿岸防衛部隊から近代的な海軍に急速に成長しつつある。過去20年余りに、中国の水上戦闘艦艇の多くのクラス – 特筆すべきは、Type 052D (旅洋III級)駆逐艦・Type 054A (江凱II級)フリゲイト・Type 056 (江島級)コルベット – が量産され、艦隊に量と均整を与えている。そうした軍艦の増強は2008年以来加速している。中国初の空母遼寧は2012年に就役した。中国が近代的な第一線級の戦闘艦艇を建造或いは輸入するようになって、たった20年しか経過していない。これはどう見ても印象的なことだ。

同時に、中国海軍はさらなる外向的な海軍戦略を追及しているように見える。最近の国防白書では中国海軍の主要任務は近海防衛のままだと主張しているが、2009年及び2011年版は明らかに中国海軍が”遠海”で活動する必要性を認めている。2013年の報告では中国海軍に”海上機動作戦の強化”を求めている。遠海の地理的範囲は様々な解釈の対象になっているが、近年の実際の中国海軍の作戦は、この言葉が“太平洋北西部からインド洋東部に伸びる広大なエリア”を囲んでいるのではないかと示唆している。[87] 琉球諸島の海峡を抜けて太平洋西部を航行することが中国海軍小艦隊にとって当たり前のことになっている。また、中国海軍は2008年12月以来途切れることなく、Aden湾における海賊対策に護衛を派遣している。

つまり中国海軍はすぐにでも、海岸での攻撃から本土を防衛し、より遠方に機動する外洋海軍として縦深作戦を実施する態勢となるだろう。現在2つの顔を持つ中国海軍力は、将来重要な決定がなされることを示唆している。師小芹が説得力をもって主張しているように、中国海軍は近いうちに戦略思考や自身の戦力組成の双方を再評価すべきだろう。海上破壊戦は対称的な海軍力の交戦に道に譲るべきかどうか、また空母を中心とする艦隊が潜水艦指向の海軍を置き換えるかどうかは、中国海軍で喫緊性が増している。“明らかに、中国海軍は岐路に立っている”と師は結論付ける。[88]

師が正しければ、中国海軍の戦力組成・戦略・組織のアイデンティティーには、これまでとは異なる道が幾つか続く。第1には、中国は時間と共にアングロアメリカ流のシーパワーに似た海軍を建設出来る。この場合、中国海軍が徐々に小型艇の気風や能力を捨てることになる。第2に、中国海軍は部隊近代化や敵対する大国を自国の裏庭に入れないドクトリン開発への注力を続けることが可能だ。遠征部隊は、平時の遠方水域での任務を含む小部隊の指揮を執りながら、この主要な防衛任務に就くだろう。第3に、2段階の部隊は容易ではないだろうが中国海軍内で共存が可能だ。但し、中国が2つの並航路線に沿って海軍を取得する余裕ないし維持出来るかはまだ判らない。中国海軍は今後数年に進化する中で、戦力組成や海軍思想に関する基本的な戦略に取り組むべきだ。

ここでの目的は正確な予測に拘らないことだ。前述の分析は、その過去が序章なのではないかと示唆している。中国が形成した経験や遊撃精神は21世紀においても健在のようだ。最低限でも、中国の海上遊撃戦コンセプトは将来の中国海軍戦略における継続性や変化の方向を計る基準を提供する。同時に、西側における青年学派の様々な権化の発展の衝撃は、弱者の海軍戦略に関する普遍の論理を指摘している。非対称なシーパワーを持つ中国は、ソ連や毛の影響がなくても蕭の戦闘ドクトリンに引き寄せられたと思われる。また、中国海軍の将来は仏ソの経験 - 仏ソ中の海軍思想を形成した政治的・経済的状況は余りに異なり、それにも関わらず酷似している - を踏襲することはないだろうと認識することには価値がある。中国の全体的な国力の目を見張る軌跡は、仏ソ戦略家が夢見るだけに終わり、野心においてはアングロアメリカ流のシーパワーに匹敵する選択肢を中国政府にもたらすかもしれない。

これらの不確実性にも関わらず明らかなことは、この思想の新たな学派が米英流の海軍戦闘とは全く独立していることだ。それは当初から、技術革新や新たな作戦手法の追及、欺瞞、カモフラージュ、陸海の垣根を越えた統合作戦、後背部・連絡線の襲撃、遊撃手法を強調していた。それは本質的に領土的なもので、従ってアングロアメリカの海軍戦闘の理解とは相容れることがない海の眺めだ。中国はつまり、アングロアメリカの海軍戦略の伝統の支持者とは異なる考えをしているようだ、また海上で異なった戦い方をするだろう。それどころか、仏ソの海軍思想が緊縮財政への対応として現れ、消えていった。中国の掌中では海上戦闘の新たなアプローチが続いており、要求される革新や技術には充分な資金供給がある。従って、西側の政策決定者や戦略家は中国の向かう先に注視する必要がある。

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IX. NOTES

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This article began as a conversation between the authors at the Center on Irregular Warfare and Armed Groups (CIWAG) Irregular Warfare Symposium at the Naval War College in 2010. They would like to thank Marc Genest and Andrea Dew for bringing them together. The authors would also like to thank Nicholas Lambert, Norman Polmar, and Wayne Hughes for their comments on earlier drafts.

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