観音堂



観音堂内部






正一位稲荷大明神



厄除利剱大師

十一面観音

 大崎十一面観音記によれば天正時代、宮社地内に祀られてあった、この観音様の前を馬に乗って通
ると落馬することが度々あったので現在の金清寺に移したと記されてある、夫れは観音様の戒めで観音様
は三十三身に変化し生きとし生けるものをお救い給ふのが観音様の慈悲である。
大崎観音物語(孝子編)

 昔、昔東方から攻め込んできた軍兵に、穀物を没収されました。お母さんが弱って寝たきりになったので
その幼い子は、村はずれの十一面観音様に、毎日母が快癒するようにお参りに行きました。今日も何時
ものように名主さまの田屋の辺りを通り、ドンドン川の橋向うの観音様まいりをしました。
 観音様の安置の壇に身をのり出し、すがりつくように一心に、母の平癒を祈っておりました。するとパラパラ、
パラと手に当たる物があり、見ると豆でした。
 観音様の授かり物だ有難やとおし頂き、三拝四拝して足どりも軽く家に帰りました。
 その豆を早速せんじて母に飲ませました。こうした観音様の慈悲深い御加護と子の手厚い看護によって母
親は次第に元気をとり戻して、やがて床ばらいをするほどになりました。
 この親孝行の話が近郷に広まり、大豆のことを「観音豆」とか「孝子豆」と呼ぶようになり、田の畔に大豆を
作り食糧不足に備えるようになりました。
※太閤検地によって、高野の地続きの宮社は市田村とされたので、その地の八幡宮、白髪神社は市田村
字宮田に移された。観音堂は鰐口に「大前十一面観音」と刻印されていたので大崎で祀った。