29「天雷无妄」(むぼう)

天道をあるがままに受け止める

「无」は無で否定、「妄」はみだりと読み、内実が無い、思慮浅いこと。「无妄」は二重否定で、誠実である、思慮深い、ということになります。何に誠実かと言えば、自然の営み、天道に誠実であることです。
天に雷が轟く、それは人に何か警告をしている訳ではありません。そう思うのは人間の勝手です。日が照り、雨が降る。天は人に恵みを与えようと考えている訳でもなければ、災害で人を困らせようとしている訳でもありません。それは淡々たる自然の営みであり、それを我々は天道、あるいは天命と受け取ります。
大地震などの時、間違った社会に天が警告を与えている、という発想がありますが、それこそが「妄」な発想です。天は人間を他の生物と別扱いしているという思い上がりです。天は人間に警告を与えるために多くの生き物を道連れの犠牲にする訳は無いではありませんか。
あれこれあらぬことを考えなさんな、あるがままに物事を受け止めなさい、ということです。

耕穫せず、しよせざれば、往くところあるに利ろし。

畑を耕す時は豊かな収穫を期待したりせずひたすら耕し、新田を開墾する時はよく肥えた田になることを期待せずひたすら開墾する、何かことを行うにもそのような心掛けであれば上手く行く、ということです。
一生懸命に種をまき耕した結果、良い収穫が得られることもあれば、天災で全てが無駄になることもある。しかし、種をまき、一生懸命に耕さなければ決して収穫は得られない、何か理不尽な気がしますが、それも淡々とした自然の営みの結果、すなはち「天道」です。人事を尽くして天命を待つ、ということでしょうが、これは現実にはなかなか難しいですね。

无妄の往くは何くにか之かん。天命たすけず、行かんや

自然の流れに逆らって何処へ行こうと言うのか。天命の助けが無いのにそれでもあなたは往くのですか。
天命助けず、ですから天は助けはしないが邪魔もしない、ということでしょうが、ではいつ往けばいいのか、難しいですね。

楽天知命、故に憂えず

これは繋辞伝に出てくる文言で、天道を楽しみ、天命を知る、その心があれば憂うることは無い。との意味ですが、これが「楽天」の語源です。

Que sera,sera (ケ・セラセラ)

ドリスデーが「知りすぎていた男」の中で歌い、日本ではペギー葉山が歌って有名になったフレーズですが、このフレーズが正確には何語か、その出自は何処か、については諸説あるようで、興味のある方はインターネットで検索されるといろいろ面白いサイトがあります。
この歌の明るい調子からか、「なるようになるわ」という日本語の歌詞からか、何となく投げやりな感じを受けますが、
Que sera, sera
Whatever will be, will be
The future's not ours to see
What will be, will be
という歌詞の意味はごく真面目で、未来は人事を越えたところにありますよ、人事を尽くして天命を待ちなさい、と言ったことだと思います。

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