民事の争いは引き時が肝心
「こんな不条理が許されてなるものか。徹底的に闘うぞ」
こんな記事を時に目にします。世の中、全く不条理なことが多いものです。
不条理を正し、正義を通すために訴訟があります。が、だから訴訟は徹底的に争えばいいと言う訳ではないよ、と易は言っています。
「訟」は孚(まこと)ありて窒(ふさ)がる。おそれ中すれば吉、終われば凶なり。終われば凶とは、訟はなすべからざればなり
訴訟は誠実さが圧し塞がれることから止むを得ず起こすもの、だから、自らも恐懼し、誠実な心で解決を目指し、適当なところで和解をすれば吉であるが、強引に自分の主張が通るまでやり通そうとすれば凶である。本来、争いは徹底的にやるものではないからであります。
いや、それでも訴訟に勝ち、実も栄誉も手に入れたい、というあなた、易にはこうも書かれていますョ。
あるいはこれに「はん帯」を賜わるも、終朝に三たびこれを奪わる。訟をもって服を受くるは、また敬するに足らざるなり
訴訟に勝ちを収め、君主から名誉の革の大帯を賜わることがあっても、その儀式の終わるまでのほんの短い間に何度もそれを奪われてしまうようなもの、訴訟で得た名誉とは他人から見ればさして尊敬するに値しないものだ、と。
出来ることなら、訴訟になるような問題を未然に防ぐことです。
君子はもって事をなすに、始めをはかる
何事をするに当たっても、争いの元となるような問題は未然に対策を講じる、この慎重な心構えが何より必要であります。