14「習坎」(しゅうかん)

苦難のどん底でも信念を貫け

一難去って又一難、いや、一難去るまえに次の一難がやって来た。泣きっ面に蜂。
日常、こんな状態になることがあるでしょう。こんなとき、あなたはどうしますか?
もう駄目だ、と簡単に方針を変えてしまったり、一時凌ぎの対策で誤魔化そうとしたりお拔いでもしてもらおうか、などとあらぬことを考えたりするのではないでしょうね。
そんな安易な考えでは、問題はなにも解決しません。
易ではこんな状態を「習坎(しゅうかん)」と云います。習は繰り返しの意、坎は困難に陥ること、従って「困難の繰り返し」、「困難中の困難」です。

習坎は重険なり。水は流れて満たず、険を行きてその信を失わざる也。

今は困難が次々とやってくる大変苦しい時です。しかし、水の流れがその行く手に穴があればその穴を満たしてまた流れ続け、障害物があれば溜まり溢れて障害を乗り越えまた流れ続け、決まった方向を変えずに流れ続けるように、困難にぶつかっても信念を変えずに進むことが肝心です。誠実に問題を一つずつ解決しながら進んで行くことです。

「上善若水」

「上善如水」という銘酒がありますが、この言葉は老子に出て来る、2500年の歴史を持った由緒有る言葉です。
「上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し。水は善く万物を利して争わず、衆人のにくむところにあり。故に道に近し。」ー最高の善は水のようなものである。水は全てのものの役に立つが自分が正しいと人と争うようなことをせず、皆が敬遠するような低いところを選んで流れて行く。だから水は最高の「人のあるべき道」に近いと言える。
と言った意味です。酒を飲む時はこんな心掛けでのみなさいよ、ということでしょうか。あるいは心地よく酔えば自ずと「道」を体得できる、ということでしょうか。
いずれにしろ、易が儒教、老荘思想双方の基になっていると言われる所以ではないかと思います。

「習」という字

ところで、習という字は、「羽」に動詞を示す「白」が付いた字です。これが何故「繰り返す」という意味と「ならう」という意味になるのかお判りですか?
親鳥が子鳥に飛ぶことを教えるのに、言葉で説明することが出来ませんので、親鳥はバタバタッと羽ばたいて見せるのです。子鳥は始めのうちはじっと見ているだけですが、親鳥が何度も何度もバタバタッと繰り返すうちに自分もバタバタッとやってみる、それを何度も繰り返しているうちに、ああ、こうすれば飛ぶんだ、と会得するのです。
学習とは本来そういうものです。


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