【農水相辞任】

◎この国にこの政治家あり

 求心力をなくした政権は政敵が権力を奪うか、そうでなければ内部から崩壊するのが政治史の常である。ところが日本は、小泉元首相が「改革」の大ナタを振るって以来、食うか食われるかの権力闘争はなくなった。派閥の領袖が政権を狙って競い合う派閥政治は姿を消したが、中央政治の活力が薄らいでしまった。そして、少し前までの地方政界で見られた、首長と多数与党の蜜月を感じさせるような「勝ち馬」に乗る自民党内各派の、少しも政治的情熱を有権者に感じさせない動きだけが目立つようになった。
 
2年前の安倍政権が誕生した時もそうだったし、1年前の福田政権発足も熾烈な攻防がない、極めて静かな新政権の誕生だった。主流派はあるが、かつての「反主流」「非主流」が見当たらない、何とも形容し難い永田町政治が日本を包んでしまったのである。
 政治主導、官僚政治打破の掛け声は勇ましいのだが、その実、老獪な霞が関官僚が信念を置き忘れたような政治にかしずくはずもない。公務員制度改革の法螺の音が空しく響きわたっているようだ。

太田農水相が辞任した(19日)。農薬などで汚染された非食用米の不正転用問題での農水省の対応の責任を取ったというものだ。
 不正転用が再三告発されながら、農水省の100回近い立ち入り調査でも判明せず、太田氏は「消費者がやかましい」「じたばたしない」「事業者にも人権がある」といった、およそ問題に向き合う担当大臣とは考えられない発言を繰り返した。そんな大臣が責任を取って辞めるのは当たり前なのだが、国民の感情からすれば、辞任ではなく首相による「更迭」がなされるべきだった。
 辞表は受理せず、責任の所在をはっきりさせて首相の手で辞任させる形を取るのが永田町のルールであるべきだった。ところが、福田首相はあっさり辞表を受理した。

辞任会見で太田氏は「社会的に大きな問題となった責任を取る」「再発防止策もほぼまとまり、一つの節目だと思った」という趣旨の理由を述べたが、会見を終えた太田氏はさばさばした表情で会見場を後にした。
 大臣が辞めるのに事務方トップの白須事務次官が居座ることはあり得ない。
 「農水省に責任があるとは考えない」と強気で行政の責任を突っぱねていた白須次官も、農水省の調査だけでも非食用米の流通先が
300社余にも及びさらに広がる可能性が高くては、高を括ることもできなかったのだ。
 菓子、酒、学校給食、老人施設など、非食用米が「食用」として流れた先は際限なく広がっている。
 事務所経費で追い込まれ自殺した松岡氏同様、事務所経費で追及された「絆創膏大臣」の赤城氏、「このポストだけはなりたくなかった」と語った遠藤氏と、農水相は3人続けてポストを追われている。

年金問題の社会保険庁(厚生労働省)、そして道路特定財源問題で十字砲火を浴びた国土交通省、さらに非食用米の農水省――いずれも国民の知らないところで好き放題を続けてきた霞が関行政の恥部である。長い経緯があるとはいえ、安倍、福田内閣は抜本的改革のメスを入れることはなかった。
 これらの官庁が国民生活の安心・安全を担っているとは、ブラックユーモアである。
 「首相は大事な問題で他人事のように振舞っている」と辞任表明の会見で質問した記者に、「私はあなたと違って自分を客観的に見ることができる」と、色をなした福田首相は最後まで国民の気持ちに近づくことはできなかったようだ。
 自ら「客観的に見ることができる」とは相当な自信の表れだ。今年の流行語大賞の有力候補らしい。
 巡り合わせが悪いと言ってしまえばそれまでだが、安倍、福田両氏とも難問に向き合う胆力があまりにもなかった。
 党内で鍛えられず、信念や自覚が育たないまま政権にたどり着いた
2人である。以前にも指摘したが、その政権を誕生させたのは自民党であることをあらためて強調せざるをえない。

 閣僚選任に際して、「身体検査」が必要だなどと過去の歩みを詮索しなければ安心できない内閣に多くを期待することはできない。
 総選挙に向って走り出した政局は、もはや止めようもない。ポスト福田を巡って麻生、与謝野、石原、小池、石破の5氏が競っている。華やかな自民党総裁選を演出して、追い上げムードの民主党の気勢を削ぐ作戦だったが、昔の子供の人気テレビ番組「5レンジャー」のレッテルを貼られるようでは高が知れている。
 「改革」は言うが、具体的な中身がほとんどない。米大統領選候補のオバマ流に「チェンジ」の黄色い声を上げ、「もったいない」の連呼だけでは単なる人気タレントの自己PRとしか言いようがない。
 「サブプライム」から始まった世界経済の混迷は、米国の大手証券「リーマン・ブラザー」の経営破たんで世界の金融恐慌の色彩を濃くしている。米国発の経済恐慌は、イラク、アフガン問題など政治問題と併せて考えると、東西冷戦崩壊以後、唯一の強大国を自認してきた米国支配の終わりの始まりと言えるだろう。
 9・11同時テロを契機にした先制攻撃と、その後ろ盾となる「テロとの戦いは我に正義あり」のプロパガンダがダッチロール状態だ。
 
 世界を取り巻くかつてない緊張の中で、日本をどう位置づければいいのか国民は心配している。内政の懸案に手間取って動きの取れない国を、当面は主導しなければならない自民党が総裁選ではしゃいでいる。何とも奇妙な景色である。

08920日)