【知事会の内紛?】(「政治と行政」27「どうする消費税」関連)

◎共同歩調にしがみつく時期ではない

 秋田県の寺田典城知事の発言が全国知事会で物議を醸している。
 「知事会はもはや闘う知事会ではなくなった」と寺田知事が痛烈に批判したのだ。知事会を率いる麻生会長(福岡県知事)は、「聞き捨てならぬ」とばかり早速反論した。
 「闘う内容が変わってきている。地方財政がこんなに厳しい中で我々は行政サービスを落とさないよう一生懸命議論しているのに、評論家みたいなようなことは言うべきではない」

寺田発言に怒ったのは麻生会長だけではない。
 三重県の野呂昭彦知事は「闘いたいなら、自分が先頭にたてばいい」と突き放し、神奈川県の松沢成文知事などは、自ら闘って言うのなら分かるが、全く闘っていないではないかと切り捨てている。
 寺田氏は知事会の副会長なのだから、「闘わぬ知事会」の責めの一端は彼にもある。にもかかわらず、本人は「間違ったことは言っていない」と強気だ。知事会を批判した裏に何があるのか。秋田県のホームページに載っている記者会見の中から探ってみる。

寺田知事は22日の定例記者会見で、「知事会議のあり方は、果たしてこれでいいかと非常に危惧を感じた」とおおよそ次のように語っている。
 交付税の復元や地方消費税の引き上げ、一般財源化する道路特定財源を地方に優先的に配分するよう求めると言うが、要求や要請だけで、果たしてやっていけるか。地方自治体の責任は何であるか、分権が進めばどのような形になるのか。国の財政は破綻状態だが、地方にだって責任がある。それにどのように協力できるのか、もっと議論する必要がある。
 (知事会議は)文言だけにとらわれ、「霞ガ関の課長級の会議」よりもさらに落ちるんじゃないのかという批判も受けている。知事たちは、もう少し、日本の体制とか地方のあり方をしっかり話をするべきと思う。
 なぜ、そんな知事会になってしまったのかを問われた寺田氏は「やっぱり役人出身の知事が多いからじゃないか」と率直な感想を述べている。
 この22日の会見内容があっという間に各知事の知るところとなり、前述したような反発が湧き起こったのである。

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 今回の知事会議に限ったことではないが、「闘う知事会」を標榜した梶原拓前会長(前岐阜県知事)の後を継いだ麻生会長になって以来、知事会の論議は確かに「おとなしく」なった。改革派知事と呼ばれ分権改革の先頭に立ってきた知事が次々と引退したことが、世間の見る目をそうさせた面があることは否定できない。
 同時に、国との折衝、とりわけ閣僚レベルとの交渉では知事会側に迫力がなくなったのも事実だ。官僚OBが大半を占める知事会の論議が「政策論」に時間を費やすあまり、政治論が交わされなくなった。
 総論としての自治・分権論で全体がまとまることができた時期はいいのだが、分権改革が各論に入った現状では、税財源分野で首長の考えがは確な違いを表している。裕福な自治体とそうでない自治体では「自立」の捉え方が全く違う。
 「闘う知事会」か「実績を確保する知事会」かの〃看板論争〃はどうでもいい。要は、知事会が地方団体のリーダーとして存在感のある組織であるかどうかということである。
 存在感を示すには、あるときは「圧力団体」であるべきだし、テーマによっては国の政策を先導する強さと知恵がなければならない。そのいずれもが、今の知事会に欠けている。

 第2次分権改革の助走である地方分権改革推進委員会の第1次勧告が提示した「国道」「一級河川」「農地転用」等における権限移譲は、自治体にとっても真正面から取り組まなければならない重要課題だ。
 ところが、今回の知事会議では、あろうことか国の役割・責任を求める意見が続出した。権限だけをよこされても困る、財源を一緒に付けてもらわねば駄目だという主張だが、二重行政の最たるものとして、そして公費の無駄遣いの象徴となっている国の出先機関の整理につながる国道、河川問題を本質から切り離して国の役割を求める意見は、分権意識とは相反するものである。
 こんな当たり前の話が開陳される知事会議とは、一体何を目指す組織なのか。知事は地方行政のトップであると同時に政治家であることを忘れてもらっては困る。

 松沢知事は23日の会見で、知事会の役割に「期待していない」と語った。そして、自分が考えているテーマは自分で闘うか、テーマごとに協力できる知事と一緒に国と交渉すると明言している。
 言うならば、知事会全体としてよりも、同じ志を持つ「有志連合」で難局に立ち向かおうという心構えである。知事会の役割は大きく変わろうとしている。曲がり角に来たのかもしれない。

08年7月27日)