【再考・諫早湾干拓】(判決は086月27日)

◎あらためて諫早干拓を問う

 佐賀地方裁判所の神山隆一裁判長が、国営諫早湾干拓事業の潮受け堤防の南北二つの排水門を5年間常時開門状態におくよう国に命じた。判決のポイントは、国のずさんな干拓事業を浮き彫りにしただけでなく、国営事業も「聖域」ではないと警鐘を鳴らしたことである。
 判決は、漁業被害と堤防締め切り前のデータが足りず、「疫学的な因果関係」を認めることは困難だとしたが、諫早湾内と近く漁場では「相当程度の立証がなされている」と認めている。
 さらに原告の漁民らが求め、国の公害等調整委員会や有明海・八代海総合調査評価委員会が指摘した諫早湾の漁業被害を認めている。漁業被害は今回の判決を待つまでもなく、司法の場でも取り上げられている。
 そして、農水省が公害等調整委員会などから求められてきた開門による中長期の調査に応じなかったのは、被害の立証を妨害するものだと断じている。

 立証責任は原告にあるとして突き放してきた国が、工事に先立って集めたデータを基にすれば、想定される被害はある程度予測できたにもかかわらずそれをしなかった。「国のやることに文句を言わせない」驕った態度としか言いようがない。
 開門調査をやれば、閉め切っていた調整池に海水が入ってきて干拓地で始まった営農に影響が表れることは避けられない。満潮時との干満の差が最大で6メートルに達するという潮位の変化が自然災害につながる可能性も高い。
 そうした事態にどう対応するかの問題は残るが、だからといってこれまでの国の一方的な事業推進の是非を棚上げして開門に反対するのは認められない。
 「無理が通れば道理が引っ込む」式のお上のやり方は、今では通用しない。判決に沿って、直ちに開門調査の準備を始めるべきだ。

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 私が諫早湾を取材で初めて訪れたのは1996年春である。
 潮の干満を利用した伝統的な漁法の「石干見(すくい)漁」が全国で唯一、地先の海で営まれていると知ったからだ。干潮時は、素人目には変哲もない単なるドロ状の干潟だが、生命の息吹は活発だった。
 地元では干潟のことを「潟」(がた)と呼ぶ。
 この潟で、あの愛嬌のあるムツゴロウが飛び跳ねる光景は何ものにも替えがたい自然のすばらしさを持っている。干潟に息づく貝、カニ、ゴカイが土壌の汚れを食べてくれるし、その生物を狙って野鳥がやってくる。自然のサイクルが見事にできている天然の浄化装置が干潟である。

 東京湾の三番瀬、名古屋市の蔵前干潟、福岡市の和白干潟、沖縄市の泡瀬干潟など日本列島に残る干潟はわずかで、かつての高度経済成長期以降の臨海部開発で、その多くは姿を消した。

 諫早初訪問から1年後の4月中旬、当時の高来町(現在の諫早市高来町)と対岸の吾妻町(雲仙市)を結ぶ延長7キロの諫早湾の潮受け堤防が閉め切られ、国営諫早湾干拓事業は本格的に動き出した。
 巨大な鉄板が次々と海に落下する光景は、刑場の断首台「ギロチン」にも例えられた。

 堤防で諫早湾と切り離されたかつての潟は干上がり、生命の息吹は途絶えた。諫早湾の自然を守るグループが、干上がった潟に海水をまき少しでも湿りを戻そうとする姿は、干拓事業という巨大な怪物に立ち向かう、武器を持たないか弱い人間を思わせる。

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 98年4月の2回目の諫早取材は、保護団体のメンバーに案内してもらっての干潟の実地検分だった。干上がっているとはいえ、潟を歩くと足が土の中めり込む。長靴を借りて歩いた潟は表面が乾いてひび割れた隙間にわずかだが湿っぽさが残っている。
 既に干拓が済んだ農地にある石垣は、以前に干拓した場所と海の境界だったのだろう。石垣のところどころが崩れているのは、土地が少しずつ陥没したせいだという。
 諫早湾の干拓事業が一望できる場所に案内してもらった。
 高来町から多良岳に向かって上った中腹にある「いこいの村長崎」である。潮受け堤防で分けられた諫早湾の内と外の海の色が全く違う。堤防の中は薄茶色で、外の内海は青々とした「海の色」だった。水門から汚れた水が青い海に帯状に伸びていた。

 旧森山町(現在は諫早市森山町)の干拓農地に森山漁業協同組合解散記念碑がたっている。碑には次のような文字が刻まれていた。

 「‥諫早湾は遠浅にして広大な干潟の続く静かな海で別名『泉水海』と称するように魚介類が泉のごとくわく豊かな漁場‥」

 碑の建立は1993(平成5)年吉日とあった。この日を境に諫早湾を生活の場とした森山漁協は96年の歴史に幕を下ろしたのである。

 諫早干拓事業に疑問を投げ続けた山下弘文さんが志半ばにして亡くなったのは2002年夏だった。亡くなる前年の初めころ、山下さんの自宅を訪ねた。小高い丘の上にある自宅から左手に諫早湾が見渡せる。潮受け堤防が湾を横切るように伸びていた。

山下さんの思い出は本ホームページ「エッセー・雑感」の11月22日付に書いている。諫早湾干拓事業の完工式を取り上げた中で、当時を振り返った。読み返していただければ幸いです。

(08年7月1日)