新春の湘南の海。遠くに見えるのは、伊豆半島。鎌倉山から遠望する。

【子(ね)年考】

◎スローな気分と波乱の幕開け
 

 相模湾を見渡しながら、くねるように走る「鎌倉山さくら道」(神奈川県鎌倉市)は程よい散歩コースである。子(ね)年が明けた正月、やわらかい日差しに誘われてカメラをぶら下げてのんびり歩いた。
 春のような陽光のせいか、野鳥も巣から飛び出して冬とは思えないように元気にさえずっている。見渡す海は青く、まぶしく照り輝いている。その彼方には頭に雪を抱いた富士山が新年を祝うようにくっきりと姿を見せていた。
 「さくら道」から脇道に入り、うっそうとした林の中を通り過ぎると山越しに相模湾が見えてくる。脇道を抜けてさくら道に出たところに「鎌倉山の碑」がある。そこから300メートルほど歩いたところに「佐佐木信綱の碑」が竹林を背に立っている。
 歩いてわずか数分の2つの石碑は鎌倉山の今昔を教えてくれるが、立ち止まって見入る人の姿を見たことがない。リュックを背負った中高年のウォーキンググループは引きも切らないし、車で乗り付ける訪問者も多い。が、彼らにとっては単なる路傍の碑ぐらいにしか見えないのかもしれない。

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 「鎌倉山の碑」の正式な碑名は「鎌倉山記」である。
 「鎌倉山記」によると、平安中期の天慶の乱(藤原純友、平将門の反乱)で平貞盛が将門を滅ぼして平氏の隆盛が東国に及び、貞盛の孫の直方は鎌倉で多くの荘園を領有した。そして、後冷泉の世に源頼義が相模の国守となって鎌倉に来ると直方の婿となって源氏の根拠が東国にできる。
 鎌倉に拠を構えた源氏はその後、頼義、義家の前9年、後3年の役で奥羽地方の豪族・安倍一族を滅ぼし東国に勢力を築く。この戦いには鎌倉の地の荘園から多くの兵士が派遣された。後の源頼朝が鎌倉幕府を開く足場ができたのはこのころである。鎌倉山は歴史的に古戦場だった。

荊棘の地だった鎌倉山が別荘地として開発が始まったのは昭和初期。当時の実力者だった実業家の菅原通済らが仲間と語らって開発に着手したのである。政財界人や女優の別荘・別宅のほか、豪華な社交の場も備わっていた。今の「さくら道」もそれに併せて開通した。

 鎌倉山から望む富士の姿は今も昔も変わらないようだ。新年の富士の姿は晴れがましく青空に浮き立つようにそびえている。湘南海岸を走る国道134号から見る富士の姿も、映画の特大スクリーンを見ているようで見飽きることはない。
 富士の山を望む周囲の光景は今とは違うが、明治時代の国文学者で歌人の佐佐木信綱が富士を見て詠んだ歌が刻まれた「佐佐木信綱文学碑」は鎌倉山3丁目にある。

日ぐらしに見れどもあかずここにして 富士は望むべし春の日秋の日

この歌は、信綱が「富士を望みて」と求められて作った。碑は昭和1411月に建立される。鎌倉山から一日中富士を眺めて詠んだこの歌は、時を超えても、その美しさが今も変わらない。
 「文学碑」には、信綱と鎌倉とのかかわりがこう書かれている。

三重県出身で明治時代の国文学者で歌人の佐佐木信綱が昭和32年に出版された「鎌倉三種」の中で「鎌倉百首」を編んでいる。その前書に「大正辛酉(10年)の夏、鎌倉大町の片ほとりにささやかな山荘、溯川草堂(森鴎外博士の命名)をいとなみ、折々にいって読書をし、著作をもした。その頃の歌と、その後、時々の作をまじえてこの一巻とした》

《日ぐらしに―》の歌はこの中に収められている。
 
 また、信綱が鎌倉山ロッヂで詠んだ、

片瀬の灯江の島の灯のつららきて 此の山の上は月夜なりけり

も収められているという。

新年の鎌倉山の散歩は、わずか2、30分のうちに、平安期から昭和、平成までを駆け巡ってしまう。見慣れた先人の歌に、あらためて深い味わいを感じる。

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 新年だからといって、特に変わったことがあったわけではない。
 カミさんが作ってくれた心づくしのおせち料理にあんこ餅とお雑煮に舌鼓をうち、新しい年の始まりを感じるのは毎年のことだ。

 「新年おめでとう。今年もよろしくお願いします」

 「おめでとう。こちらこそよろしく」

 こんな言葉で我が家の新年は明けた。

 天気に恵まれた新年は、陽だまりにだらしなく体を置いたままがいい。体を伸ばして日向ぼっこをしている猫のように。物音がしない晴れ渡った周りを見ていると、何だか正月の雰囲気に包まれるような気がしてくる。わずかな時間だが、こんなのがスローライフなのかなどと思いを巡らす。 
 忙しく人込みの激しい神社仏閣への参拝は気が進まない。せめて参拝のピークが越えたころがいいだろうと4日に長谷寺に参拝した。高台から東に逗子、葉山、そして遠くに三崎半島が見渡せる長谷寺からの展望が何とも言えない。
 まだまだ、参拝客は続いていた。裾あわせの乱れを気にする風でもなく、着飾った若い女性たちが楽しそうに通り過ぎていく。
 おみくじを引いたら、「長谷寺六十四番凶」とあった。金運もだめ、健康も「要注意」、探し物は「見つからない」。そして待ち人は「来ない」と、いいことは何もない。1年の始まりに「凶」のおみくじは初めてだ。だが、「凶」はこれ以上落ちることはないとの教示でもある。後は「良くなるだけ」と思い直して境内の枝に結んだ。

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 ところが世の中は、まさに「凶」を絵で描いたようなスタートだった。

 新年の米国・ニューヨークの原油先物取引市場の原油価格は1バレル=100ドルまで急騰、株価、為替(ドル)が急落した。原油価格は1年前の2倍。過去の石油危機でも経験しない暴騰だ。
 この荒波が日本に押し寄せないわけはない。年明け最初の取引が始まった東京金融市場は大波乱、東京株式市場は平均株価が一時、前年末より765円安、東京外国為替市場の円相場も一時、1ドル=108円台まで円高が進んだ。株価も円相場も幾分持ち直したが、基調は変わっていない。
 原油高騰はすでに製品価格の値上げという形で表れており、輸出依存の日本経済は体質が強くなったとはいえ、急激な円高にどこまで耐えられるか分かったものではない。
 日本経済はまさしく大波乱の幕開けとなってしまったのである。
 波乱の種はもっとある。食糧問題だ。
 専門家の間では常識になっているが、食糧自給率に見られるわが国の食糧政策の「無策」は、国民のグルメ・飽食モードと併せて深刻な問題を提起しているとしか言いようがない。
 有り体に言えば、自分で食べるものをちゃんと作れない国民が、美味いものを、世界の料理を贅沢に食べているのが日本である。テレビで芸能タレントが大騒ぎしながら「グルメ企画」や「大食い」企画などに興じている番組は、テレビ局の見識を疑わざるをえない。食にありつけずに短い生涯を終えてしまうアフリカの子どもたちのことなど、全く念頭にないのだろう。

 世界の食糧問題は原油価格の高騰と切り離せない。バイオエネルギーが穀物生産を減らし、穀物価格の上昇につながっている。私たちの食生活を支える穀物はコメを除けばほとんど輸入に頼っている。
 穀物生産の減少は、2000年代に入って一段とはっきりした。中国やインドなど「人口大国」の生活向上による需要増で供給が一段と逼迫している。
 時代は「食糧争奪」の時期を迎えたのである。

身近なところでは、寿司ネタの代表格であるトロも値が上がって口に入りにくくなってしまった。かつて、日本は世界のマグロのほとんどを独占するように食べてきたのに。

WWF(世界自然保護基金)の統計によると、私たちが主に刺身用として食べているクロマグロ、ミナミマグロ、メバチマグロの日本の消費量は世界の6割を占めている。2002年から04年の平均では、日本の消費量はミナミマグロが世界の消費量のほぼ全部、クロマグロも約8割を占めているというから、今さらながら日本人のマグロ好きには驚いてしまう。
 そのマグロがなかなか手に入らなくなったのは資源問題もあるが、もう一つは経済成長の著しい中国や台湾での消費量が爆発的に伸び、日本に十分回らなくなったためだと言われている。もうマグロは、当たり前のように食べられなくなったと思うしかない。

 コメもおかしい。
 温暖化の影響で良質米の生産地が北上、
北海道のコメに注目が集まりだしているという。逆に佐賀県など、九州地方では生産比率で1等米の割合が激減している。コメが売れないから生産調整で減反する。耕作をやめた農地が荒れるのは理の当然。平地だけではない、中山間地の水田は岐路に立たされている。それでいて、コメ問題は脇に置かれたままだ。
 こと「食」に関する問題になぜもっと関心が集まらないのか。私たちが無関心なのか、見落としているのか。人間は食べないと生きていけない。こんなごく単純なことが政治からも行政からも発信されていない。大声で警鐘を鳴らす人がいっぱい現れてくれないと取り返しがつかない状況に追い込まれる。問題はマグマのように潜んでいる。いつ爆発するか誰も考えようともしない。

 そんな現実を思い浮かべながら新年恒例の福田首相の年頭会見を見た。
 会見は予想された内閣改造を見送る考えが明らかになっただけで新味はゼロ。内閣支持率の急落を意識してか、「消費者、国民の視点に立つ」政治をやると抽象的な言い回しで会見は終わった。

 新年ぐらいは先を見通すような言葉を聞きたいものなのだが。(08年1月7日)