田丸城は築城当時「玉丸城」と呼ばれ、14世紀の南北朝の戦いなど歴史の舞台となった。熊野街道の出発点となる田丸から延びる参宮道は伊勢神宮に通じる。歴史的にも奈良や京都の都と切り離せない。田辺(たぬい)の丘は、伊勢神宮の経済を支えた神領だった。

G玉城町

◎福祉の町は地産地消で活性化

 近鉄・松阪駅で田丸行きの列車に乗り換えようとホームの階段を渡り、JR紀勢線のホームに移った。列車を待つ人は数えるほどしかいない。程なくホームに滑り込んできた列車はワンマンの1両、整理券を取って窓側の座席に座った。列車は二つ目の多気駅から参宮線に入り、20分程で目指す田丸駅に着いた。
 時刻表を気にしない生活を離れてローカル線を乗り継ぐのは、見知らぬ土地を知る格好の旅である。紀伊半島の太平洋岸を走り、三重県・亀山と和歌山を結ぶ紀勢線は、新宮を境に西側がJR西日本の電化区間、東側がJR東海の単線・非電化区間。そして、明治時代半ばに伊勢神宮参拝の目的で敷設した参宮線は、変遷を経て紀勢線が開通、現在の多気―鳥羽間の運行を担うようになった。
 山あいをのどかに走る列車の窓に、時折激しい雷雨が吹き付けていた。田丸駅に着いたころは横なぐりの雨も収まっていた。
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 玉城町は伊勢平野の南部にあり、東は伊勢市に、北は「斎王群行」の明和町に接する。町の中心部の田丸は、伊勢と奈良を結ぶ初瀬街道と熊野街道が合流する交通の要衝だ。伊勢神宮への奉幣使の往来や神宮参拝と熊野三山詣で往時のにぎわいは際立っていたという。熊野街道の出発点となる田丸から延びる参宮道は伊勢神宮に通じる。歴史的にも奈良や京都の都と切り離せない。
 熊野古道伊勢路は伊勢、田丸、滝原宮と内陸部を通った後、熊野灘沿いに和歌山県新宮に向かう浜街道と険しい峠を通る本宮道に分かれ目的地の熊野三山に至る。田丸は中世期、国盗り合戦の舞台にもなった。
 そして、そんな玉城町の現在の顔は、歴史・文化的遺産に加えて基幹産業の農業をベースに障害・福祉施設が充実している町である。辻村修一町長が挙げる町政の目標は「満足度ナンバーワンを目指す」だ。そのために、何をなすべきか。町長が言うキーワードは「住んで良かった」「行って暮らしてみたい」。
 少子高齢社会を迎えて支えあう社会、福祉・医療体制の充実は、歴代町長が最優先で取り組んできた。介護老人保健施設の「ケアハイツ玉城」、保健福祉会館「ふれあいホール」や身体障害者療護施設「宮の里ミタスメモリアルホーム」がそれだ。町立玉城病院は三次元CTを導入、地域の核となる自治体病院を目指しているという。
 ユニークなのは、農業力を地域の振興につなげた「アスピア玉城」である。地元産の素材を使った味工房や農畜産物の直売施設は町民だけでなく、隣接地域からの客でにぎわっている。町長が案内してくれた味工房では、人気の「玉城豚」のしゃぶしゃぶに満足した。
 「大地」と「仲間」を意味するアスピアは、温泉施設の併設で人気を呼んでいる。竹下内閣時代の「ふるさと創生1億円」を使って掘り当てた温泉を活用した。施設全体は有限会社組織。黒字経営で保養施設も備えた憩いの場は、地産地消を実現、地域活性化につながっている。
 玉城町の施策で全国的に注目されているのが、今春から始めた税金や公共料金をクレジットカードで支払うシステムである。「カード納税」とも言える方式は、住民税、固定資産税、国民健康保険料、町立病院の診療費など12の税金や料金をカード払いで済ませる。トラブルが多い口座振替よりも収納が間違いなく、町民にとってもショッピングカードと同様、ポイントが貯まる楽しみもあるようだ。
 公共料金の収納率のアップは全国の自治体にとっても頭が痛い課題。既に「カード」を導入、実施済みや試行の自治体もあるが、ごくわずかだ。それ故、玉城町への視察団体が相次いでいるのである。
 人口1万5000人余の玉城町の財政状況は、財政力指数、起債制限比率、経常収支比率いずれを取っても、全国や県内市町村平均に比べると優れた指標が並んでいる。
ほぼ円形の町域は、中心部の役場から20分程で行き着ける。南西域の丘陵地に立地する先端産業はもう一つの玉城町の顔だが、景観や緑を保全する農業の前途は予断を許さない。ある幹部職員は「田を渡る風は涼しい」と言った。地域・集落機能を保つ知恵が待たれているようだ。

(2007年秋季号)