D 志摩市

◎黒潮が育んだ歴史と伝統

 「夕日に染まる浜」に詰め掛けた大勢の人々が見守る中、燃えるような太陽は静かに英虞湾の彼方に姿を隠した。空は茜色に染まり、黒のシルエットとなった御座岬の半島が、青く輝く英虞湾に浮かぶ。夕日に映える人たちが、引き込まれるように自然の中に溶け込んでいった。

 昨年11月、常陸宮御夫妻が臨席して開かれた「自然公園大会」は、志摩市の持つ海・山の自然と歴史・伝統を参加者に深く印象付けた。
 伊勢志摩国立公園が指定されたのは1946年。太平洋戦争が終結した翌年のことである。敗戦で全国各地の都市や町が灰塵に帰し、国民がひたすら生きることだけを考えた苦しい時代だった。
 混乱期の国立公園指定は、そんな社会に夢を与え戦後復興のシンボルにしようとの思いからだ。時代は移り、1980年代後半、わが国はリゾート計画が競い合う時期に入っていた。
 87年に公布・施行された総合保養地域整備法(リゾート法)は、バブル経済の下で開発のバイブルとされ、リゾート計画が日本列島を覆い尽くした。
 だが、バラ色の夢を描いた構想は、バブルの崩壊で事業撤回が相次ぎ、夢は無残な姿をさらした。
 幸い、国の第一次承認を得た三重県の「三重サンベルトゾーン構想」は、その中心となった伊勢志摩地区が、知名度の高さもあって比較的順調に整備が進んだ。半面、東紀州地区は民間の設備投資意欲の減退が響き、現在も活性化の道を模索中だ。
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 志摩市は真珠養殖の古里である。竹内千尋市長は志摩市の歴史をよどみなく語った。
 「真円真珠」を作って100年以上が経つこと、古くは豊かな海の幸を都の天皇に献上する「御食つ国」(みけつくに)だったこと。そして、市域全部が伊勢志摩国立公園に含まれる志摩市で、自然公園大会が開かれた喜びが全身にみなぎっていた。
 地域づくりをどう進めるかは、首長の双肩にかかる。竹内市長が熱い思いで語ったまちづくりの基本理念は、「自然との共生」。コンセプトは、ごく当たり前の言葉だが、志摩市のそれには歴史、文化の継承、発展が加わる。
 志摩市は04年10月、阿児、磯部、志摩、大王、浜島の5町が合併して誕生した。旧阿児町の「安乗(あのり)人形芝居」など、それぞれの町は独自の文化を持つ。この多様な文化の継承、発展の成否が、市の活力を左右すると市長は言った。
 竹内市長が文化の継承、発展に自信を持ったのは、フランスのミシュラン社の訪問である。タイヤメーカーで、ホテルやレストランの格付け評価でも有名な同社の調査員が、世界的な観光ガイドブックの日本版を作る目的で昨年5月下旬やってきた。身分も明かさない非公式な訪問だった。
 調査の対象は安乗人形芝居と海女小屋。熊野灘が洗う志摩地方の風俗を取材して帰国した。
 安乗人形芝居は国の重要無形文化財である。「元禄年代よりはじまったといわれ、江戸時代から続く民俗芸能として江戸大坂間の船の往来の盛んだった頃の風待港である安乗に、大坂で生まれた文楽が伝わり…」と、新版阿児町史(2000年3月)にある。海女小屋は、文字通り海女の仕事場である。
 「大きくなったから、小さくする」。竹内市長がよく使う言葉。合併で大きくなったから、旧自治体も含めてもう少し小さなコミュニティをつくりたい、という意味だ。そうすることで、地域のきずなを蘇らせることを確信する。
 そして、もう一つが「地元学」。足元にある「大切なもの」を探す。身近すぎて、その価値に気付かない「貴重な財産」を見い出そうというものだ。
 志摩市には、もう一つの顔があった。
 熊野灘を一望する安乗埼灯台と大王埼灯台は、灯台守の生活を描いた木下恵介監督の「喜びも悲しみも幾歳月」(1957年)の舞台となった。また、全国の女性を引き付けたNHKラジオのメロドラマ「君の名は」(1952年春から2年間)でも、和具、浜島、賢島、鳥羽がしばしば登場した。主人公氏家真知子の相手役となった後宮春樹の故郷は、旧志摩町和具という設定だった。
 様々な表情を見せてくれるまち。それが「御食つ国」志摩の魅力である。

 (2007年 新年号)