七里の渡し跡(桑名市)に建つ「一の鳥居」は、伊勢神宮に向かう最初の鳥居。尾張の宮の宿と伊勢の桑名の宿は、旧東海道で唯一海を渡る。


七里の渡し 】(桑名市)


 ◎寺町商店街は玄関先ビジネス

 
 桑名市教育委員会発行の「桑名市史」本編176−177頁に次のような記述がある。

 <大阪落城後、元和元年7月、千姫が江戸に帰る途次、桑名七里の渡に差しかかった時、たまたま御用船を指揮していた桑名城主(本多)忠政の長子忠刻の壮姿に心動き(一説隅田川舟遊の時、偶々相見る)許されて忠刻に再稼し、桑名に来り…(中略)…千姫は桑名在留中、春日神社の境内に東照宮を建て、祖父家康の坐像を神体として奉納し朝夕礼拝したという…(以下略)>

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 旧東海道の宿場町「宮の宿」は、熱田神宮の門前町で「熱田宿」とも呼ばれた。この尾張の「宮の宿」から海上7里を舟で渡った次の宿が伊勢(三重県)の「桑名の宿」である。
 東海道で唯一海を渡るこの乗り合い場が現在の「七里の渡し」跡。伊勢の国の東入り口に当たるそこには、伊勢神宮の「一の鳥居」が建てられ、伊勢神宮の
20年に一度の遷宮ごとに建て替えられている。
 七里の渡し跡を訪ねたのは2月初めの午後。晴れ渡っていたが、木曽3川の1つ揖斐川からの風は冷たい。10段ほどの石段を上った小高い所に立つ「一の鳥居」の右手西側に見える(ばんりゅうやぐら)はその昔、七里の渡しに面して建てられた、歌川広重の浮世絵にも描かれた桑名を象徴する櫓の外観を再現した。現在は国交省の水門管理所になっている。
 1601年(慶長6年)、桑名藩主となった徳川家康の側近、本多忠勝によるまちづくり「慶長の町割」の道路は今でもほとんどが残っている。「一の鳥居」から続く旧東海街道沿いには、舟の出入りを監視する「舟会所(警固屋)」や「本陣」「脇本陣」跡がある。
 また、片町や魚町、寺町、船馬町といった、昔の町割を想像させる町名が現存する。付近の民家も、一部ではあるが風情を感じさせる造りでできている。

桑名は東国、西国への交通の要衝、全国各地の情報が集まる中心地だった。
 旅籠(旅館)の数は東海道筋では「宮の宿」に次ぐ多さだったという。現在も近畿、東海地区の高速道路や国道、鉄道が縦横に走る東西交通の要衝で、昔と全く違わない。
 近鉄・桑名駅から東に歩いて数分の寺町は、真宗大谷派の桑名別院本統寺を中心に10カ寺を超す寺院がある。本統寺に隣り合う寺町商店街は、門前町商店街として発達した。
 商店街の周りには寺院のほか、桑名城址の本丸と二の丸跡に造った九華公園、豪商の邸宅を再興した六華苑など文化財指定の歴史的遺産が数多い。
 南北に200bほどの寺町通り商店街は、木目調のアーケードの両側に数十店舗が店を連ねる。太平洋戦争末期、空襲で焼け野原となったが商人の町として蘇り、桑名市の中心商店街として発展した。

近年、駅前や郊外に大型商業施設ができ商圏は変わったが、「3」と「8」の日がつく朝市「三八市」を中心とした地元密着型の商売が成功、街の賑わいが全国的に注目されて視察者が相次いでいるという。中心市街地活性化の見本と言っていい。
 三八市は、戦後間もなく商店街が客寄せのため近郊の農家に働き掛けて始まった。現在では愛知県岐阜県などからも農家や露天業者も出店している。
 三八市を盛り上げるイベントも盛り沢山だ。
 平成元年から始まった秋の「殿様御台所祭・千姫折鶴祭」は、桑名の食文化を楽しむ催し。コンテストで選ばれた千姫と3人の妹姫が、きらびやかな衣装をまとって商店街を歩いて華を添える。
 室町時代の桑名には、共同自治を行う有力な商人が集まる「(じゅうらく)の津」と呼ばれる自由湊があった。その名前を取った「十楽市」は4年前から、毎月1回商店街で開催される。

桑名の歴史的遺産は見事だ。
 だが、人・物・カネ、そして文化、情報の橋渡しをした「七里の渡し」に昔の面影はない。1959年の伊勢湾台風以後の護岸工事で渡船場と道路の間に防波堤が造られて景観が失われ、港としての機能は全くなくなった。
 「一の鳥居」から、水運の機能を果たした揖斐川は高い護岸に隠れて見えない。長良川河口堰建設関連の工事で、分厚く高い護岸が立ちはだかっている。

「伊勢参宮名所図会」や歌川広重の浮世絵「七里渡口」などの光景を想像させるものが見当たらないのは寂しい。(08年春季号)