②亀山市・関宿

◎伝統文化の中で暮らす


 旧東海道の宿場町がほとんど昔の姿をなくした中で、当時の町並みを感じさせてくれるのは亀山市・関宿である。宿場町は独特の情景を思い描かせる。時代を遡れば交通の要衝。人も物も行
き交い、様々な人間模様が繰り広げられた活気にあふれた町だった。
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 亀山市は液晶テレビのトップ企業、シャープをはじめ先端技術産業の集積地として全国にその名を知られている。この亀山市と、昔ながらの宿場の装いを保つ関宿のある隣の関町が昨年1月
合併した。
 関宿は17世紀初め、徳川幕府の宿駅制度化で東海道に設けられた53の宿場のうち、品川から数えて47番目にあたる。東海道が伊勢別街道と分岐する東の追分と大和・伊賀街道に分かれ
る西の追分を結ぶ約1・8㌔の街道沿いにある。古くは、古代3関のひとつ「伊勢鈴鹿の関」が置かれた史実を持つ。
 1984(昭和59)年、この一帯25㌶の区域が国の重要伝統的建造物群保存地区となった。1980年から始まった老朽化した伝統的建造物の修理や、周りの景観にあわせた建物の修景
事業で7億円近い補助金が支出され、宿場町の装いも蘇った。東の追分にある大鳥居は、20年に一度行われる伊勢神宮の式年遷宮の際に移設されるものだ。
 東の追分から西の追分までを歩いた。寺や神社が集中する北裏地区。向かい合う南側は順に木崎、中町、新所地区と続く。街道筋には、公家や参勤交代の大名が泊まった本陣や脇本陣や両替
商や大商家などが集まり、ほかにも大小さまざまな旅籠(はたご)、芸妓置屋など店が軒を並べた。
 中町に残る伊藤本陣の店部分、街道に面して三角形の屋根を見せる珍しい建築様式の両替商・橋爪家の建物は昔の栄華の一端をしのばせる。伝統的な町屋を蘇らせた「まちなみ資料館」も往
時をしのばせる教材のようだ。
 町屋は、二階が前面を土壁で覆った「塗籠」(ぬりごめ)、風雨から店先を守る「幕板」、店の前の上げ下げできる「ばったり」(棚)などの特徴があり、細部では職人が技を凝らした虎や
龍、亀、鶴などの漆喰彫刻といった意匠も関宿ならではのもの。
 瓦屋根のついた格式の高い庵看板(いおりかんばん)が残る和菓子の老舗「深川屋」に、第13代当主の服部吉右衛門泰彦さんを訪ねた。
帳場に置かれた調度品は、いずれもが歴史を感じさせる。京都御所への献納に使った荷担箱(にないばこ)は、青貝を散りばめた贅沢な作りだ。
服部さんは「関宿町並み保存会」の会長。
 「関宿の伝統、文化を守ろうと皆が考えを一つにしたからここまできた。だが、世代交代でこの町並みがいつまで維持できるか不安はある」
 関宿の町並みは、幾つかの資料館を除けば、ほとんどが民家である。日常生活の場だ。観光客の接待に設えられたものではない。景観上、郵便局や地元銀行も宿場町風に設計してある。
亀山市との合併で、それまで苦労を重ねながらつくり上げた関宿の保存・改修が大丈夫なのかという不安が旧関町の住民にある。全国的に歴史的な遺産が観光の波に洗われているからだ。関宿
での空き家、空き地も目に付く現実もある。
 アンケート調査によると、関宿周辺では「観光地」を求める声と、「静かに暮らせる町」の意見がほぼ同じくらい。ここでも観光と静かな暮らし論がせめぎ合っている。一方で町並み保存の
重要性は、福祉・医療対策を大きく上回るほど関心は高い。
 こんな現状を田中亮太市長に質したら、答えは明快だった。「関宿の歴史的建造物を大切にして全国の人に見てもらう。そして、亀山市全体の観光振興につなげたい」
亀山市は国の地方交付税交付金に頼らない県内三つ目の「不交付団体」となった。国に気兼ねなく行政運営ができる自信が表れている。景観保存を維持しながら、より多くの観光客に来てもら
うにはどうすればいいのか。住民ぐるみの検討が始まっている。
 だが、「伝統文化の中で今を暮らす」が関宿のコンセプトであることに変わりはない。先端技術の世で江戸文化の名残りを守る知恵が試されているのは間違いない。
 夕暮れの関宿に灯がともり、漆喰の白壁、格子戸、庵看板が淡い光に浮かび上がった。江戸の昔、最盛期には16基もの山車が狭い町中を練り歩いた関宿の夏祭りは、「関の山」の語源でも
ある。その季節が間もなくやってくる。

(2006年春季号、3月24日)