③明和町

◎歴史から消えた「雅の世」をたどる


 三重県のほぼ中央部、伊勢平野南部で伊勢湾に面する明和町は、古くから伊勢神宮ゆかりの町だ。
 飛鳥、奈良、平安時代に都の雅をこの地に現出させた「斎宮」は、14世紀の南北朝期に姿を消した幻の宮だ。斎宮の主は斎王と呼ばれ、内親王など皇族の未婚の女性が都から赴き、天皇に
代わって伊勢神宮の守りの任に就いた。
 この6月初め、斎王が数百人の供を連れて険しい山越えをしながら都から5泊6日で伊勢の地に旅する斎王群行を再現する「斎王まつり」が明和町で開かれた。
 故事に則る斎王の禊の後、斎王に仕える官人・官女や随行する役人らによる群行は、屋根に金色の葱華の飾りを付けた御輿に乗った、十二単(ひとえ)の稲葉友佳子さん(鈴鹿市)が扮する
斎王を中心に斎宮跡地の中を静かに歩んだ。
 通称「どんど花」と呼ばれるノハナショウブ(ハナショウブの原種)の群生が、競い合うように紫色の清楚な花を咲かせていた。この紫色の群落の中に斎宮は幻想的な姿を浮かび上がらせて
いたのだろう。
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 明和町はもともと、伊勢平野の穀倉地帯だが、ヒジキ、黒海苔など海産資源に恵まれた第一次産業の町でもある。江戸時代から明治期にかけ、松阪木綿として松阪商人を有名にした天然藍染
めの御糸織は、地場産業として今でも町を代表する土産物だ。
 農水産業のウェートが年々低下、新たな振興策をどうするかが急務となっている。農漁業従事者が減る一方で、製造業は事業所数、従業員数とも増加傾向を示し、工業統計によると製造品出
荷額は304億3200万円(平成12年)と前年を大きく上回った。
 県内市町村の財政状況を見ると、明和町はほぼ「中より若干上」に位置する。自主財源の比率は42%(平成16年度)で、国や県への依存財源は58%。財政の健全度を表す財政力指数は
0・530(17年度)。
 明和町は今年3月、具体的な行財政改革プランを決定、平成21年度を目標とする取り組みを始めている。
行革は三位一体改革のせいだけではない。隣接する玉城、多気町など4町村との合併が不発に終わったことが大きい。大手の先端技術企業が進出している隣接自治体と歴史的伝統文化を持つ明
和町の組み合わせは、特色ある新自治体の誕生につながると期待された。その望みが消えてしまった。
 木戸口真澄町長は、将来的には「町の歴史や伝統・文化が生かせるような合併が望ましい」という。伊勢神宮とのかかわりが深い町として、広域的な歴史、文化の発信ができれば、さらなる
地域活性化も夢ではない。
 明和町の人口はわずかだが増え続け、現在2万3091人。活性化は斎宮に頼るだけでなく、自主財源確保の企業誘致にも力点を置いた。問題は町の最大の〝資産〟である斎宮をいかに魅力
的な史跡として蘇らせるかだ。
 昭和45年の団地造成計画をきっかけにした発掘調査で斎宮跡の存在が判明。その後の調査で、東西2㌔、南北700㍍、甲子園球場35個分に相当する約140㌶の広大な斎宮跡であること
が分かり、昭和54年、国の史跡に指定された。
 だが、斎宮の全体像を解明するのは容易でない。斎宮跡の区域はほぼ判明したが、住宅が密集しているほか、斎宮の中心地区を近鉄線が東西に走り、中核的な部分の発掘調査は事実上不可能
だ。調査開始以来30年で、15%しか調査が終わっていない。
 近鉄斎宮駅の北側、斎宮跡の西端に設けられた歴史ロマン広場は、史跡を10分の1に縮小、斎王御殿をはじめ桧皮葺き、茅葺きの建物を並べた。
 斎宮跡の史実がおおよそ分かったことで、荘厳な実物の復元が望まれるが、埋蔵文化財保護の法規制で施設整備は困難だ。
 斎宮歴史博物館で見た、斎王群行の雅で物悲しい映像に魅了される訪問者は多いという。
 斎宮跡の保存・活用をどうするか。史跡の価値からすれば県にとどまらず国の役割が期待される。有識者による論議も必要だ。歴史的文化遺産を共有する知恵を絞るべきだろう。

(2006年夏季号、6月26日)