神代の昔の面影が宿る香良洲は、戦時中、海軍航空隊の予科練の施設があった。香良洲町歴史資料館の入り口は旧航空隊門があり、ここから飛び立った若き予科練生は、特攻兵士として南の海に消えた。写真は資料館の前の「若桜の碑」。

⑥津市香良洲町

◎三角州が育んだ知られざる歴史


 近鉄久居駅を出発、国道165号を東に向かった車は国道23号と合流、そこから県道に入って雲出川に架かる津香良洲大橋を渡った。着いたところが旧一志郡香良洲町、現在の津市香良洲
町である。
 まちづくりに大きな夢を描くグループの代表、木下美佐子さんが運転する大型4輪駆動車は、香良洲浦の眩しく光る遠浅の海岸を左に見ながら、昔の街道を思わせる松並木の道を軽快に走っ
た。
 香良洲町は、津市と松阪市の境界となる雲出川が雲出古川に分かれて、その間に挟まれた三角州にできた町だ。伊勢湾に面した浦浜は3㌔におよぶ。夏には県内外から多くの人が海水浴に訪
れる。
 正面に渥美、知多の両半島を遠望する。東南には鳥羽市の離島が点在する。
 この町にある香良洲神社は、天照大御神の妹の稚日女尊(わかひるめのみこと)が祭神とのこと。伊勢神宮と同じように20年ごとに式年遷座される由緒ある神社である。
 神社とは反対方向の西側地区には、かつて茨城県土浦と並ぶ海軍航空隊の予科練の施設があった。
 あどけなさが残る14、5歳から20歳未満の若者たちが全国から集まり、わずかばかりの訓練で特攻機で出撃、多くは沖縄近海の空と海に消えた。
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 香良洲町は昔からの漁業の町だが、特産のナシも地元の自慢だ。
 この人口5000人余の町は平成の大合併で津市に編入された。30万都市の一部となったが、旧町民の思いは複雑なようだ。
 町内をぐるぐる回りながら概況を話してくれた木下さんは10年前、夫の仕事の関係で香良洲町に引っ越してきた。
 町の雰囲気が気に入った。歴史、文化が暮らしの中に生きていた。一方で物足らなさがあった。自分たちの町の良さに気付いていない気がした。
 「安心なまちづくり」を頭で描きながら妙案は浮かばない。その手探りにヒントになったのが、1999年施行になった県の「バリアフリーのまちづくり推進条例」。
 条例は「人権の尊重と共に暮らせる社会の実現」を謳った。この理念に共鳴した木下さんらは2002年初め、ボランティア組織を立ち上げ、その後、「ユニバーサルデザイン(UD)まち
づくりの会」とした。すべての人に優しいデザインでまちづくりを追求する、その思いを行動の規範とした。
 そして手掛けたのが、数多く積み重ねた啓発事業を基にした「ふれあい通り」の実現への挑戦である。
 高齢者が年々増え、お年寄りの日々の生活にも不便が多くなった。生活道路の路地の交通事故も増えていた。児童の登下校の事故も不安だった。
 「ふれあい通り」といっても、道路を拡幅したり、歩行者専用道路をつくるわけではない。町道の交差点の手前をカラー舗装したり、交差点近くの白線を太くして運転者の注意を喚起するも
のだ。
 そのモデルコースが、地元の区長や住民の協力で2005年秋、児童たちが通学路としている浜裏地区の町道が誕生した。ようやく夢が実現した。
 木下さんら「UDまちづくりの会」のメンバーは、行政、議会、自治会などに、まちづくりのアイディアを持ち込み、理解と協力を求める毎日だ。
 「ふれあい通り」には隠れたエピソードがある。
 計画から3年で「ふれあい通り」にこぎ付けたのは、2006年1月の市町村合併による新・津市の誕生への危機感が後押しをした。
 「合併前に計画を完成させないと、せっかくのアイデアが宙に浮きかねない」。木下さんは言う。「市役所本庁に伺いを立てないと、支所は何もできない」
 小さな自治体なら、まちづくりに住民の共感は得られやすく、行政の対応も早い。
 合併による広域自治体の行政と小規模自治体のそれは、長所、短所があって優劣がつけがたい。
 県庁所在市なのだが、津市の特色はつかみにくいと言われる。広域自治体の誕生で、旧町村は合併前にも増して地域の特色を生かす知恵が試されている。
 神代の昔の面影が宿り、戦時中は特攻兵士の訓練の場でもあった香良洲町の歴史・文化遺産は、あまり知られていない。埋もれた魅力を見つめ直し発信してこそ地域の自治が花開く。
(2007年春季号