伊賀市の町並みは藤堂高虎が築城した当時の町割が、昔のまま現存する。
写真は旧伊賀街道と旧大和街道の追分。街路は敵の攻撃を想定した、まっすぐのびる道はなく、「武者隠し」が施されている。

⑦伊賀市

◎忍者の町の新たな挑戦


 近鉄伊賀線の終着に近い上野市駅に降り立つと北に眺める高台に国史跡の上野城跡(上野公園)が広がる。上野公園の傍を通る国道163号沿いの丸之内地区には、かつて伊勢国津藩の藩校 である有造館の支校「旧崇廣堂」(国史跡)や、県指定有形文化財の県立上野高校(旧制第3中学校)の白亜の明治校舎などが並ぶ。
 駅の南側に目を向けると藩主、藤堂高虎が400年前の慶長16年、上野城を改修した時期に整備した当時の町割りが今でも残る稀な街である。その中を旧大和街道が横切り、旧伊賀街道と分岐する追分の道筋には昔の町屋が並び城下町の雰囲気を醸し出している。
 伊賀市は2006年12月、往時の町並みを守り良好な景観形成を図るため、県内市町では初の「景観行政団体」となった。
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 伊賀市は上野市、伊賀町など6市町村が合併して04年11月発足した。93年4月、旧上野市長に当選して以来、今岡睦之市長の懸案は「昔の町並みをいかに保存・再生するか」だった。
景観を身近な問題として市民に突き付けたのが、04年に起きた旧市内の高層マンション建設計画である。裁判に持ち込まれた。景観条例はあったが行政は無力だった。
 こんな中で国の景観法が成立、翌年暮れ全面施行になった。景観を守る強制力を伴う法的規制の枠組みができたのである。今岡市長にとって景観法は渡りに船だった。
 市町村合併と景観法施行が同時期だったことで、「市民の景観への意識が高まった」と市長は言う。
 法律に基づく景観行政団体となって全体の景観計画案を策定、その後具体的な計画区域を決定、区域内の規制を提示する。市内の現況調査が進み、ようやく素案の一部が出来上がり市民への説 明が始まった。
 市が計画案の第一段階としてまとめた景観地区は、町人の町として栄えた中心部の三筋町(本町通り、二之町通り、三之町通り)と寺町、農人町・車坂町など38㌶の区域内にある延長4780㍍の通り、街路が対象だ。
 東西に延びる三筋町の3本の通りと、南北に延びる街路はコの字形に交差する。商家が並ぶ町並みも表口が直線に並ばない階段状に配置されている。いずれも敵の攻撃に備えたもので、階段状の町屋の配置は「武者隠し」で敵の目から姿を隠す仕掛けだ。
 こんな町割りが伊賀市のように現存するのは全国でも珍しい。
 この地区は400年前の町割りが、そのまま現在の区画にぴたりと一致する。計画が着実に進むと、「城下町の風景区域」(247㌶)は、武家屋敷、寺社、商家の情緒漂う町並みとなりそ
うだ。
 景観計画案では城下町を手始めに、周辺の「農地」や「街道」「山」や「川」などの風景区域を設け、伊賀盆地全体の景観づくりを完成させる。
 ところが、ゴルフ場や住宅団地の開発、大規模建築物による田園、山並み、河川の景観が阻害される事例がある。また道路沿いの野外広告物の規制、耕作放棄地の再生などといった問題にどう対処するのか、計画策定の作業は簡単ではない。
 近年注目されるようになった里山や集落の景観は住民参加なくしては実現しそうもない。野放図な開発は景観とそぐわない。様々な規制が新しい条例に盛り込まれるはずだ。そのためには市民の理解を得なければならない。身近な協働が試されているのかもしれない。
 市町村合併で伊賀市の面積は558平方㌔。この広い市域の景観維持・再生は、旧市町村内の37の自治協議会が当たる。
 04年暮れに公布・施行された自治基本条例は、行政や議会の任務とともに地域の役割を定めている。各自治協議会は、自らの地域の将来を見据えた「まちづくり」に景観をどのように組み込むかの知恵が求められる。
 芭蕉と忍者のまち伊賀市は、歴史的遺産と文化を景観計画で維持・再生しようと全力で動き出した。人と物が行き交った要衝の地は、文化の花開く町として蘇ろうとしている。

(2007年夏季号)