日本自治学会沖縄研究会(04年11月21日、沖縄国際大学)
分科会C「地域メディア」発言内容


尾形宣夫 ただいまご紹介いただきました尾形です。よろしくお願いします。
 1969年11月、当時の佐藤(栄作)首相とニクソン米大統領による日米首脳会談が開かれ、沖縄の本土復帰を決めた日米共同声明が発表されました。私は、その共同声明発表の2カ月ちょっと前沖縄に派遣されました。当時はまだ沖縄の施政権は米国にあり、沖縄に渡るのにパスポートが必要で、私の身分は通常の外国特派員と同様、「特派員」でした。以後、沖縄が本土に復帰した1972年の秋口まで、この沖縄で取材に駆けずり回っていたわけです。沖縄での仕事が終わって帰任、以後、しばらく沖縄との関係は空白状態だったのですが、復帰後の様々な政府による復帰記念事業も一通り終わって、誰もが沖縄に以前持っていたような関心が遠い記憶になっていた時期、すなわち戦後50年を迎えた95年秋に、米兵による忌まわしい少女暴行事件が起きたことを覚えておられることと思います。この事件を機に私の心に残っていた沖縄の復帰前後の異様な、様々な出来事がまざまざとよみがえり、共同通信の編集委員・論説委員として再び沖縄取材の原点に立ち戻ったわけです。
 私は現在、共同通信社を定年退職し客員論説委員の立場でありますが、振り返るまでもなく沖縄で起きる問題は昔と比べても基本的にはあまり変わっていないのではないかという気がしております。復帰後の国による惜しみない財政措置で沖縄の社会資本は驚くほど整備されましたが、そのことといまだに続く米軍基地被害、つまり県民の精神的な面に及ぼす不安はそれほど解決したとは言えないことも事実です。今日は、私のそうした認識、考えをベースにお話をしたいと思います。

米軍ヘリ事故に表れた本土と沖縄の認識の格差

 最初に皆さんに思い出していただきたいのは、今から3カ月前のメダルラッシュに沸いたアテネオリンピックのことです。そのちょうど同じ時期に、この学会が開かれている沖縄国際大学に米軍ヘリが突っ込み炎上する事故が起きました。沖縄で起きる米軍の事件・事故は復帰後この方、必ずと言っていいほど住民を怒らせる、住民に米軍基地の怖さを突き付ける形で起きています。3カ月前の事故、事故というより事件といった方がいいかもしれませんが、それを例に出したのは、事故の報道が沖縄タイムスや琉球新報の地元2紙を別にすると、中央紙をはじめ本土各新聞は、一面から社会面にいたるまでほとんどがアテネオリンピックでの柔道や水泳の金メダル獲得の報道で埋まっていたからです。
 これに対して沖縄の新聞は、紙面の4分の3ぐらいを事故報道が占めています。本土紙の米軍ヘリ事故の扱いは、朝日新聞を例に取ると、扱いは一面4段見出しと社会面では事故現場の状況を取り上げています。朝日新聞は沖縄問題については、昔から最も熱心に報道を続けていることで知られています。その朝日にしても事故発生時の紙面の扱いはその程度でした。事故報道は、事故の処理をめぐる米軍の行動が日米地位協定の問題点を浮き彫りし、そのことが以後の報道の中心となったのですが、全体を通して見ると、どう見てもオリンピック報道に圧倒されてしまったのは事実です。
 米軍ヘリ事故からしばらく後になりますが、ある中央大手紙の紙面審査でもこのことが取り上げられ、紙面審査委員にひどく批判されました。沖縄で大変な事故が起きているのに、「金メダルを何個とった。また表彰台に日の丸が揚がったなどと浮かれた報道をしていていいのか」といった具合です。また「日本の新聞はその程度の問題意識なのか」と厳しい指摘もされました。アテネの成績は確かに喜ばしい、すばらしい成績だと思いますが、日本の南の島(沖縄)で、こんな事故が起きたことを新聞の編集責任者はもっと頭に入れて置かねば駄目じゃないか。それがメディアの責任というものだという感じを強くしました。

沖縄問題に対する3つの視点

 沖縄問題に対する私の個人的な考えを言いますと、まず沖縄問題は極めて政治的な問題だということです。
日本とアメリカ、そして沖縄を一つの政治的主体と考えると、この3者が非常にいびつなトライアングルを形成し、微妙なバランスができているのではないかという気がします。ということは、沖縄で何か問題が起きたときにこの3者の特異な関係を組み込んだ形で報道されないと、どうしても説得力のあるニュースになりません。私がいた共同通信は全国の50数社の新聞社とキー局を含めた120社を超えるテレビ局にニュースを配信しています。そこで、平板な事件・事故としてニュースを流すと新聞社やテレビ局に事の重大性がなかなか伝わりにくい。ですから、せっかく配信しても紙面に載らない、あるいは消えてしまうことが多々あります。
 第2点目は、沖縄の持つ歴史的、文化的な特異性が希薄になったことです。
1972年5月の復帰に先立って国政参加選挙が行われましたが、これが本土との交流、一体化を否応なしに進めました。その結果、本土との系列化が進み沖縄の独自性が薄まり、弱まったことを当時沖縄で取材していて肌で感ずることができました。沖縄と本土との交流が深まったことは復帰という歴史的事業がある以上当然のことで、それ自体を否定するものではありませんが、交流・系列化によって沖縄問題が希薄化したことは、沖縄が求め続けてきた(復帰の)理念がだんだん弱まり、本土の大衆運動の中に組み込まれ国内問題になってしまったということでもあるわけです。
 3番目は、そうした流れを踏まえて沖縄の復帰後の歩みが始まるわけですが、その中で基地問題がいつの間にか経済(振興)問題とリンクしてしまい、基地問題は経済問題なのか、経済問題とは基地問題なのかと沖縄自身が、その区別が分からなくなってしまったような感じがするわけです。
革新県政は国に対して厳しい物言いをしていたので国と県との間に緊張関係があったのですが、保守県政になると、県の言い分にほとんどパンチがなくなってしまった。私は現在の知事の稲嶺恵一さんを個人的に知り尊敬もしていますが、残念ながら稲嶺さんの心情がなかなか国に伝わらないような気がしています。

復帰前後は沖縄報道が主役

 そうした認識に立って沖縄報道の特徴は何だろうと考えますと、まず「復帰前」、そして「復帰・その後」に分けて見ると分かりやすいのではないかと思います。
 復帰前と申しましても古くは対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)の調印・発効にさかのぼります。お手元に古い新聞のコピーがあると思いますが、古い資料を使ったため字が読みにくいと思いますが、いずれも講和条約が発効した1952年4月28日前後の沖縄タイムスと琉球新報の社説です。時間の都合でその内容を詳しくは説明できませんが、注目したいのは両新聞とも、条約の発効で沖縄の施政権が日本から切り離された悲しさよりも、日本が米国の占領から解放され独立を手にしたことを喜び(沖縄タイムス、4月26日付社説「日本復帰の明るい希望」)、同時に自らも「総立ち上がり」するよう沖縄県民を鼓舞、激励をしている(沖縄タイムス、4月29日付社説「歴史の峠に立ちて」)ことです。さらに、講和は必ずしも平和を意味せず、旧軍人や旧財閥の復活を警戒していることです(琉球新報4月28日付社説「講和発効と琉球」)。
常識的に考えれば、日本から沖縄が切り離されたことをもっと悲しみ怒っていると推測するのが当然なのですが、社説を読む限り、必ずしもそうした論調にはなっていないことは、私にとって予想外でした。詳しくは後で読んでもらえればと思います。
 ところで私が沖縄に赴任した1969年秋ごろは、新聞・テレビのあらゆるメディアは、ワシントン発、東京発、現地沖縄発を問わず、沖縄返還問題以外はニュースではないと思われるほど大々的に報道、大勢の記者を沖縄に送り込みました。ニュースの扱いも紙面的には大きく、記事を書く立場からすれば記者冥利に尽きるといった感じの報道が69年から復帰の72年まで続いたことが大きな特徴と言えます。
 72年5月に沖縄は日本に復帰しました。その後は、先ほど申しましたとおり水面下で形づくられてきた本土との系列化が進み、それが表面化して沖縄の歴史的、文化的、あるいは米軍占領下で出来た独自性、特異性、特殊性がどんどん失われていきました。その結果、1960年に沖縄の祖国復帰運動を統括する形で出来た沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が掲げ続けてきたスローガン、主張も単なる革新陣営の主張でしかないと片付けられるようになってしまいました。つまり、歴史があり、その歴史の裏にある複雑な政治、経済、外交が単純化されてしまい、単なる保守と革新という構図に置き換えられてしまったわけです。
 復帰に先立つ70年11月の国政参加選挙は、沖縄が初めて国政に参画する意義深い出来事なのですが、これが保守も革新も本土の県本部、県連といった形に衣替えした組織を足場にしたのであります。本土復帰に寝食を忘れて闘ってきた人たちの熱いエネルギーが、本土との系列化の中でヤワな大衆運動の中に巻き込まれ、沖縄闘争のエネルギーが分散してしまいました。私の知人で、復帰闘争のリーダーの一人だったある人物が、復帰後、東京に移って運動を続けていましたが、本土の大衆運動とのあまりのギャップに挫折感を味わい、酒におぼれて最後には自ら命を絶ってしまいました。その人の死は、純粋に復帰を追求した活動家が本土の大衆運動の現実を見せつけられ、そこから逃避しようとして、遂には進むべき道を見失った結果であったと私は想像しています。

復帰記念のシンボルに仕立てられた海洋博

 沖縄の本土復帰が実現すると、次は、ご苦労をかけた沖縄に報いるため国をあげての行事、国体をやろう、海洋博覧会をやろうという話が出ました。午前の共通論題「特別シンポジウム・持続可能な沖縄」でパネリストの寺田麗子さんが報告していた海洋博は、復帰記念とは言いながら、国の全国総合開発計画に組み込まれた国家プロジェクトでも何でもありません。それが沖縄の新しい未来を象徴するもの、シンボルとして海洋博が仕立て上げられたと言っていいと思います。
 海洋博のキャッチフレーズは、「海、その望ましい未来」でしたが、その望ましい未来をうたったアクアポリスはスクラップとなって売却されてしまいました。海洋博は一体、何のために開催したのでしょうか。寺田さんの話ではありませんが、「開催のため沖縄本島北部の山原(やんばる)、本部(もとぶ)の緑がはがされてしまった」わけです。
かつて沖縄は米軍の「銃剣とブルドーザー」によって民有地が奪われ基地が造られました。海洋博会場造成のための土木工事は、米軍がかつて、銃剣を使って住民を追いやるようなことはありませんでしたが、ブルドーザーを使って本部、山原の緑をならしたと言われています。地元紙の琉球新報と沖縄タイムスの両紙だけでなくマスコミ各社は、工事のずさんさ、環境に及ぼす影響などの警鐘を鳴らす記事を書き問題を提起していたのですが、県民も問題を感じながら、海洋博という国のビッグイベントに抵抗はできない。そういう形で県民の抵抗が奪われてしまったと言えるのではないでしょうか。
 復帰後数年間は国によるイベントが続きました。沖縄の長い米軍統治への償いと言いますか、復帰記念事業にカネは惜しまないと政府の役人が言っていた言葉に沖縄の置かれた立場が表れていたような気がします。海洋博については、日本弁護士連合会が詳細な調査を行っています。(資料2参照)特徴的なのは69年11月の日米共同声明直後から政府部内で開催検討が始まり、これに呼応する形で当時の琉球政府が海洋博の誘致を決定しました。世界初の海洋博覧会開催ですから経済界が黙っているわけはありません。三井物産を中心とした三井グループの動きが特に活発で、当時の本部町議会での論議は日弁連の資料によると、議会の論議を待たずに町長が三井グループに全面的に協力する旨通知、議会は事後承認とした議事録が残っています。このことは三井グループの攻勢の前に、地元は考えもしないような大規模事業が降ってわいたようにでてきたものですから、疑問などを挟むことなくただただ誘致に全力を投入したという状況を表しているようです。
 国体開催、海洋博など復帰記念のイベントに彩られた時期は、ある意味では政府が沖縄を一日も早く本土の一員として経済的にも引き上げようとした時期でもあると思います。そんな時期が過ぎ、沖縄問題もそろそろ全国的な話題にのらなくなっていた時期、そのころも沖縄県内では相変わらず米軍に絡む事件・事故が続いていたことは県や県警のデータで分かりますが、表面的には沖縄問題は国民的な関心が薄くなりなくなり、内政の中心課題は不況や貿易問題、雇用問題などに移っていました。バブル経済が全国にまん延して間もなく崩壊し、日本経済がガタガタとなり先行きも全く見通せない状況になっていた時期が90年半ばころです。

基地が突きつけた戦後50年の現実

 その95年秋、ちょうど敗戦から50年目に当たるこの年は、沖縄県民にとっては、とりわけ平和を考える年でもあったのですが、とんでもない事件、忌まわしい事件が起きてしまいました。それが、米海兵隊員による少女暴行事件です。折しも同じころ、中国の北京で世界女性会議が開かれました。会議では女性に対する暴力など世界の女性が直面する問題が多岐にわたって論議されましたが、日本からも多くの代表が参加、沖縄からも先ごろの那覇市長選に出馬しましたが敗れた高里鈴代さんらが参加しました。少女暴行事件は、この世界女性会議で問題にされたことが現実となって、会議から帰国した高里さんらを待ち受けていたわけです。
この事件は、私が冒頭で触れた米軍ヘリ墜落事故同様、米軍基地の存在が、いかに住民の生活に危害を及ぼすものであるかを、いやというほど知らしめる事件でした。米兵による事件・事故は復帰後も日常的に起きており、日米両政府や沖縄米軍当局が種々対策を講じていますが、一向に改善されていません。
 戦後50年に合わせるように起きた暴行事件は沖縄の基地問題をあらためて浮き彫りにしたわけですが、継続的に起きる沖縄の基地問題は、ヤマト(本土)で仕事をしている私たちの頭から消えていました。政治、経済、行政の目まぐるしい動きを追っていると、「沖縄」を通り過ぎてしまうことも事実です。そうであってはいけないと教えてくれたのが、この事件だったのではないかと振り返っています。
 事件当時の知事だった大田(昌秀)さんは、米軍の基地使用に関する知事の代理署名を拒否し、この(代理署名)訴訟が最高裁まで持ち込まれ、結果は大田知事が敗れたわけですが、当時の橋本(龍太郎)首相は、沖縄返還を実現させた政治の師匠でもあった佐藤(栄作)首相にならって「沖縄問題を解決するのは俺だ」とばかり一生懸命問題解決に取り組みました。橋本さんがクリントン米大統領と会談して決めた普天間飛行場の返還問題が、名護市辺野古沖の海上ヘリポート計画から、同海域での埋め立て工法による代替施設計画に変わるわけですが、これが現状ではいつになったら建設できるのかさっぱり分からない状態になっています。人口密集地域の真ん中にあって危険な普天間飛行場を辺野古沖に移そうとしたのですが、稀少動物で保護が求められているジュゴンが棲む海域に造ることが許されるのか。また、稲嶺知事や名護市の岸本建男市長が代替施設受け入れの条件とした「15年使用期限」、すなわち完成から15年間だけ米軍基地としての使用を認めるが、その後は純粋の民間空港にするという国との約束が守られる保証は現状では全くない状態の中で建設の前段の環境影響評価(環境アセスメント)の調査が地元の反対で出来なくなっているわけです。アメリカは建設の遅れに不快感を露わにしていますが、日本政府にはこれといった問題解決の妙案は持ち合わせていません。そうこうしているうちに、今回の事故が起きてしまいました。
 この事故が沖縄の基地問題を考えるとき象徴的だと思うのは、アメリカは昨年(03年)11月、ブッシュ大統領が米軍のトランスフォーメイション、つまり米軍の世界的な規模での変革・再編計画を表明しそれが徐々に具体的になりつつある時期に事故が起き、在日米軍のあり方、性格が事故の処理に表れたように、米軍の一方的な存在だということ浮き彫りになったということです。在日米軍の75%が沖縄に集中しており、沖縄基地を抜きにして在日米軍の再編はあり得ないわけです。ところが、残念なことに米軍再編の議論の中で沖縄基地をどうするのか、小泉首相が沖縄の基地負担を軽減すると言いながら、具体的にどう縮小されるのかを日本側からアメリカに物申している様子がありません。在日米軍の中枢は沖縄なのだ。だから再編に際しては、こうすべきだという問題の捉え方がありません。そこに沖縄問題が希薄化していることが端的に表れているようです。

拉致事件と沖縄報道

 そうした状況で私たちが求められているのはニュース判断をどうするか。どのように沖縄問題を報道すればいいのかということになります。沖縄は本土から見れば、遠く離れた亜熱帯地域にある離島です。地元の新聞やテレビ局が一生懸命報道しても、沖縄県を超えて例えば北海道や青森、さらには山陰地方などになかなかニュースが届かないもどかしさがあります。私の沖縄での取材でも「ヤマトの新聞は沖縄問題に冷たい」とよく言われた経験があります。私が在籍していた共同通信は、取材したニュースを全国の加盟紙に配信、それが紙面に載るわけですが、新聞社側には当然編集権があって、通信社から来るニュースが何でも紙面に登場するわけではありません。毎日の膨大な量のニュースの中から、ニュースの価値があると新聞社が認めなければ紙面に載ることはありません。従って、通信社が配信したニュースが必ず読者のもとに届くという保証はありません。新聞は限られた紙面の中で最大限のニュースを取り込まなければならず、それは中央大手紙、地方紙を問わず持っている新聞の宿命です。
 では、そういった状況をどうすればクリアできるのか。参考になるのは北朝鮮による拉致事件への対応ではないかと思います。小泉首相の北朝鮮訪問で5人の拉致被害者が帰国し、拉致事件が国民の大きな怒りを呼び、政府も北朝鮮に対する経済制裁も含めて真剣に問題解決に取り組むようになりました。いまでは、小泉内閣の最大級の政治課題となっているわけです。横田めぐみさんの両親をはじめ、拉致被害者家族の会の心からの訴えが世論を動かし、そして腰の重かった政治を問題解決のための土俵に引き上げたと言えるでしょう。このことは、沖縄問題を国政の重要課題にし続ける上で大きな教訓を教えているのではないでしょうか。

内発的な発信力に欠ける沖縄

 95年の少女暴行事件で沖縄基地問題の深刻さがあらわになって日米安保体制がぐらついた時期がありましたが、この時、橋本首相は沖縄問題を国政の最重要課題だと位置付けています。その認識が2000年の沖縄サミット開催で弱まったのはご存じのとおりです。沖縄問題は県民感情を傷つけるような事件や事故が起きると一時的には大きな反響を呼びますが、それがなかなか長続きしない。継続的な問題とならない理由の一つに、報道の仕方に若干の問題が隠されているような気がしております。冒頭で触れたように、単なる事件・事故として報道するのではなく、その背景に大変複雑な政治、社会、外交問題が潜んでいるという認識を持って問題に向き合わないと説得力が弱いのではないでしょうか。
 継続的に沖縄からの発信をしなければなりません。同時に国政の中心である「東京発の沖縄」も、もっと重視しなければならないと思います。沖縄について言いますと、マスコミに限らず沖縄全体がどうすれば継続性のある内発的な発信ができるのかをもっと考えなければならないと思います。沖縄問題に対する世論の盛り上がりに欠けるのは沖縄側に問題がないわけではない。はっきり言いますと、問題の半分ぐらいは沖縄側にあるのではないかという気すらします。米軍ヘリの墜落事故を基にこんな話をしなければならないのは本意ではありません。いつになったら、こんな話をしなくてもいい沖縄になるのかなあとさえ考えてしまいます。沖縄は今、観光客が予想を超える伸びを示しています。年間の入域者の目標も600万人としたと聞いていますが、もっと重要な問題が自分たちの足元にあるのではないかという気がしてなりません。
 これで私の話を終えます。ご静聴ありがとうございました。

▽質問

司会(松元剛・琉球新報社編集委員)沖縄問題に対する認識にギャップがあることでの責任の半分は沖縄にもあるということでしたが、具体的にお話ください。

尾形 事件・事故を含め県内で起きているいろんな出来事をいかに全国に発信するかは、皆さんが一生懸命考えていることと思います。思い出してもらいたいのは、稲嶺さんが知事になる前の大田県政時代、大田さんと副知事の吉元(政矩)さんのコンビです。大田さんは対米折衝に軸足を置き、沖縄に過重な基地負担とそれに伴う基地被害をアメリカ政府関係者や議会、知日派の人たちに説明して回りました。アメリカ訪問は8回にも及んだと記憶しています。一方の吉元さんは大変な戦略家で、彼が目指したのは日本の政治・行政の中心である首相官邸をいかに説得するかでした。地方自治体の一副知事が日本の超一流の官僚らによる政策スッタッフが集まっている官邸に乗り込んで、彼らと渡り合うなどということは考えられないことです。ところが、吉元さんは私が知る限りそれをやり遂げました。
 代理署名拒否問題で政府が危機感を持った1995年から96年夏ごろまでのころを思い出すと、亡くなりましたが当時官房長官を務め、敗戦直後から沖縄問題に関心を持っていた梶山(静六)さんと公式、非公式に会い、基地問題や沖縄振興問題でかなり突っ込んだ話を交わしています。私が梶山さんに会って直接聞いた話から判断すると、梶山さんは俗に言えば、吉元さんに惚れ込んでいました。一例を挙げますと、沖縄の経済的自立の方策として県が提示した「蓬莱経済圏構想」を、梶山さんは全面的に支持、国会での答弁でもその構想を説明、政府部内でも自民党政調の関係部会で積極的に提示しています。
 知事が対米折衝の説得行脚、副知事が内政面での根回しをする。大田・吉元コンビの行動は実に戦略性を持っていました。翻って現状に目を向けますと、稲嶺さんには大変失礼な言い方になりますが、県政をリードする立場の「3役」(知事、副知事、出納長)がいないのではないか。いるのは知事だけだと言われます。それは、私の言葉ではなく、霞が関の官僚がそう言っているのです。どういう意味かと官僚に聞きましたら、稲嶺さんは実業界出身らしく腰が軽く、どこに出ることもいとわない行動的な人だが、知事が国への陳情や抗議で走り回っているのに、知事の補佐役であるべき立場であるにもかかわらず、知事に代わって緻密な作戦を練る県幹部や政策ブレーンがいない、と見られています。確かに様々な情報を総合しますと、稲嶺さんが1人忙しく振る舞っていますが、知事の行動を戦略的にサポートする参謀役はいないようです。
 そんな県政の内情を表す象徴的な場面と思わざるを得なかったのは今年(04年)8月、新潟市で開かれた全国知事会議のことです。ちょうど、沖縄国際大に米軍ヘリが墜落、炎上した直後の会議でした。知事会議は、基地問題とは全く関係がない国と地方の税財政に関する三位一体改革で、全国の知事が小泉首相から求められた国から地方への補助金削減案をどうまとめるかを議論する会議でした。その場に出席した沖縄県の幹部、名前はあえて言いませんが当時副知事だった人です。稲嶺知事は事故の重大性を小泉首相に伝えようと上京、事故対応に忙殺されていたため副知事が代理出席したわけです。会議は2日間にわたって激しい議論を続け、ようやく地方案をまとめました。
 どうしたのかなと不思議だったのは、補助金削減の項目の中に特別措置、それはまさに沖縄にとって見過ごせない問題だったのですが、その副知事は一言も発言しませんでした。代理出席という遠慮があったのか、あるいは直接内閣府に要請しているから言わなかったのか分かりませんが、全国の知事が一堂に会している場で自らの問題を重ねて表明すべきではなかったのではないでしょうか。2日目の会議もどんどん進み、知事会会長の梶原拓さん(岐阜県知事)が、そろそろ会議を終えましょうと言ったとき、沖縄県の副知事が手を挙げ発言を求めました。その時は、各知事は机の上の書類を片付け始め、会場もざわついていました。そんな中で副知事は米軍ヘリ墜落事故を報じた地元紙のコピーをかざして話を始めましたが、ほとんどの知事は聞いていないふうでした。
 補助金に関する特別措置や米軍ヘリ墜落事故は、沖縄にとって極めて重大な問題なはずです。
 知事が一堂に会した場で声を大にして物を言わなければ、誰も振り向いてはくれません。せっかくの会議で黙っていては何のプラスにもなりません。代理とはいえ、沖縄県の行政の代表として出席した人が何も言わないで、地元に帰って大変だと言っても、何も始まりません。三位一体改革についても、沖縄は他の都道府県とは異質な問題を抱えているはずです。県政に詳しい知人の話だと、三位一体改革に対する危機感がよそと比べて遅すぎると言われています。自分たちが直面している問題について、県には周りにアピールする努力がいかにも足らない気がしています。
 基地問題に限らず、今直面する重要な問題で、なぜもっと行動的にならないのでしょうか。三位一体改革を取材していると、都道府県、市町村がそれこそ一つになって関係省庁に攻め込んでいます。仮に、「うちはよその都道府県とは違う」などと考えているようだと、苦しむのは一般の住民です。

 沖縄問題を解決に近づけるにはどうしても政治の力が必要です。橋本元首相や故人となった小渕恵三元首相、山中貞則元自民党税制調査会会長、先ほど名前を挙げた梶山元官房長官、野中広務元自民党幹事長など、日本政界の実力者が、いわば沖縄応援団として絶大な力を振るっていたころは、沖縄県政にとって求めるものは何でも実現できるいい時代だったかもしれません。ところがその後、沖縄応援団が1人欠け2人欠け、沖縄県政が最も頼りとした政治のバックアップ、支援が弱まり、今ではなくなってしまったと言っていいかもしれないくらい状況は変わりました。沖縄問題が空白化しているといわれますが、それをかろうじてカバーしてきた政治力がなくなると県政は保護者を失ったような形になりかねません。
 そう考えると、沖縄県政はもっと「暴れる」必要があるのではないでしょうか。極端な言い方をすれば、恥も外聞もなく俺たちはやるしかないといった迫力を相手にぶっつけて、初めて沖縄問題を周囲にアピールできるのです。それをしないで、じっとしていたのでは話は進みません。(沖縄問題の空白の)責任の半分は沖縄側にあるということは、沖縄を取り巻く状況の変化をよく自覚して現実を直視しながら行動しないと、沖縄問題の継続的な説得力のある行動はできない。その努力が求められているということです。(おわり)