【教科書検定を巡る県民大会】(07年9月29日)

■歴史的認識を問うた県民大会

 沖縄の生きざまを見せ付けられた県民の大集会だった。
 「集団自決」を巡る教科書検定意見に抗議、撤回を求めた沖縄県宜野湾市の海浜公園での県民大会は、保守も革新もない文字通り島ぐるみの大会だ。主催者発表で、大会参加者は11万人を超える、1972年の沖縄の本土復帰後、最大規模に膨れ上がった。
 私は現場にいたわけではない。自宅でテレビに映る映像とインターネットの動画を見、新聞活字を目で追ったに過ぎない。
 だが、臨場感に満ちた画像と活字に、私はいつの間にか、会場にいるような錯覚に見舞われ、次々と浮かぶ情景に引きこまれていった。
 沖縄返還を現地で取材し、以後も数え切れないほど「基地の島」のやりきれない現場を見てきた。が、メディアを介してこれほど胸に迫る体験をするとは思いもしなかった。
 ごく普通の家庭の主婦や車椅子に体を預けた高齢者が口にした「歴史のねじ曲げを許さない」という静かな言葉が、壇上の激しい政府批判以上の重みがあった。沖縄の歴史、体験が否定されたことに対する怒りがこもっていたからだ。
 頻発する米軍基地に絡む事件・事故への抗議は、日米地位協定の「弾力的運用」でかわされ成果が得られていない。米軍の世界戦略に組み込まれ、国からも我慢を強いられる沖縄県民の心情は、経済振興という名の財政措置に包まれ、日米の狭間でもがきながら漂流していると言っていい。

 そんな沖縄から突き付けられたのが、「教科書検定」という形の歴史認識の問題である。
 従来の抗議が米軍基地から派生する問題への行動なのに対し、今回のそれは国の「沖縄歴史観」への抗議という点で意味は全く異なる。
 大会決議にあるように、学校教育の場で沖縄問題の原点が正しく位置づけられなければならないのは当然だ。住民がようやく語り始めた沖縄戦の忌まわしい体験を、文部科学省が言う「専門的な調査審議」で、歴史的事実が書き換えられることがあってはならない。
 専門的な調査審議が、どれ程の現地調査を踏まえたものか疑わしいことは明確だ。
 日本政府の歴史認識の捉え方は、「従軍慰安婦」の問題でも国際的な非難を浴びた。教科書から「集団自決」の削除に抗議するのも、国家の過去の恥部を認めるのか否かを問うた同質の問題である。
 国家権力が介在した「具体的かつ正式な事実」があるかどうかを盾に、「公正」を装うことが何ら説得力を持たないことは「従軍慰安婦問題」でも明らかである。
 県民大会に参加した仲井真知事は、「(県民の怒りの)エネルギーが爆発寸前にあるのではないかと予感させる」と話したという。
 県民の総力を結集した「島ぐるみ」の大会の照準は、歴史的事実の認識を国に迫った点にある。県民の琴線に踏み込んだ教科書問題は、財政支援という代替案が準備される基地問題をはるかに上回る難問として姿を現した。
 沖縄では、何かが変わろうとしているようだ。その真実を見定める真しな努力がなければならない。 (07年10月1日)