【沖縄―普天間協議】(2007年1月19日)


■普天間移設で政府と沖縄の第3回協議会


 19日午前、首相官邸で開かれた米軍普天間飛行場移設をめぐる政府と地元自治体の今年初の会合は、これまでの双方の立場、考えを確認するだけで終わり、沖縄側がかねて主張していた「V字形修正」や「3年以内の普天間飛行場の閉鎖状態」といった懸案は、公式な形で具体的な論議は交わされなかった。
 同日の協議は約1時間だったが、うち公式な抗議はわずか15分。残りは、自由討議という名の非公式協議だった。
 なぜ、非公式な協議が話し合いの大部分を占めたのか。そこに、「普天間協議」の難しさが潜んでいる。政府側は安倍首相が沖縄代表団と会う段取りをつけた。午前9時49分から13分だ。
 首相が会う、会わないは今後の話し合いを円滑にするための潤滑油のようなものだ。わずか15分に過ぎなかった公式協議に対する沖縄の不満は、首相が会ったことで相当部分が埋め合わせができた。
 仲井真知事を筆頭に沖縄側が上京したのは前日の18日午後。沖縄側の到着を待って防衛庁との話し合いが始まったのは同日夜だ。防衛庁から念願の「防衛省」に昇格したばかりの防衛省首脳(事務次官)と翌日の協議会の事前調整をするための話し合いは、時計の針が零時を回る19日の未明まで続いた。
 防衛省首脳は言った。
 「V字形の修正要求は自由討議の場でやってほしい」
 日米両政府は、キャンプ・シュワブの辺野古岬を挟んでV字形滑走路を造ることで正式に合意している。日本政府と沖縄側の首長が話し合う正式の会合の席上で、沖縄側からその修正要求が出されることは、対米関係をおかしくしてしまう。そんな危惧を抱いた首脳からの申し入れだった。
 結局、公式協議では政府と地元が交わした移転施設に関する「基本確認書」と「基本合意書」の確認と、移転施設の作業スケジュールの概略・工程表(完成目標は2014年、07年12月隊舎移築工事着手など)の提示に限定した。
 同日の会合で仲井真知事は、昨年5月日米が合意した「V字形滑走路案」の経緯説明についての政府の説明に対し、「基本確認書をもとに、可能な限り早期に実現すべく今後とも努力する」と語ったという。
 ただ知事は、会合終了後に「現行案でない形が最低必要になってくると思う」と、環境問題などを念頭に政府案の若干の修正を求めた。
 島袋吉和名護市長は非公式な話し合いの中で「なるべく滑走路は集落から遠い方がいい」として、政府案を南西の沖合にずらす修正案を提示した。

 双方の出席者は★政府側から塩崎官房長官、麻生外相、尾身財務相、久間防衛相、高市沖縄担当相
        ★沖縄側は仲井真知事、島袋名護市長、東村長、宜野座村長、金武町長

   ◇       ◇

 この日の会合は、昨年8月29日の第1回会合(稲嶺前知事らが出席)、新知事の仲井真氏の顔見世となった前年12月に続く3回目だ。3回目ともなれば本来、実質的な協議になるはずだが、そうならなかったのには幾つかの理由が挙げられる。
 まず第1点は、代替施設の形状、つまり辺野古崎をまたぐように計画された「V字形」の滑走路について、政府と沖縄側の見解が平行線をたどっていることだ。第2点は、代替施設建設をめぐる経済振興の推進に当たっての双方の思惑のずれ。そして3点目は普天間飛行場が最終的に移設・返還が実現するどうかについて両者に確たる自信が持てない、という事実である。
 第1点目については、協議出席に際して沖縄側が「V字形」の修正、および滑走路の長さについてあらためて政府に申し入れる態度を固めていた。
 だが、沖縄の修正申し入れが公式の協議の場で示されることは、政府にとっては「日米合意」がある以上、あいまいな回答はできない。
 少なくとも、修正の可能性を沖縄側与えることは対米関係を考えればできないし、かといって、沖縄側の提案を拒否することは、在日米軍再編の核となる普天間飛行場の移設作業に深刻な影響を与えかねない。
 第2は、最も本質的な問題である。
 政府と沖縄県と地元名護市は、沖縄サミット(主要国首脳会議)開催を翌年に控えた1999年12月、普天間飛行場の移設先として名護市辺野古沖合2`付近に人工島を造って軍民共用空港を建設することで合意した。
 米軍基地としてだけでなく、民間航空機の利用も可能な「軍民共用空港案」は、複雑な基地感情を持つ県民の意思を念頭に置いた経済界出身の稲嶺恵一・前知事がひねり出した、いかにも経済人らしいアイデアだった。
 本来なら稲嶺氏としても、できることなら県内移設をしてほしくない。
 98年11月に知事に就任して以来、日米が合意した普天間飛行場の返還は、県内移設を条件としている。県外移設が可能ならば、稲嶺氏もそう主張したかった。しかし、それはできなかった。それ故、稲嶺氏は辺野古辺沖合移設を「ベターの選択」として、@米軍使用を15年に限定するA軍民共用空港として建設する――を受け入れ条件とした。
 サミット開催を目前に控えた政府にとっては、贅沢は言っていられない。地元の要求は最大限受け入れ、微妙な問題は状況を見ながら対応することにした。
 すなわち、沖縄県と名護市が提示した条件の環境、基地使用条件、軍民共用案などは丸々了解、その上で、経済振興策は北部地域に限定しない沖縄全域を対象とする大盤振る舞いのメニューを示した。
 ただ、「15年使用期限」については米軍戦略上の基地運用問題もあって「沖縄の要求を重く受け止め、日米交渉の中で取り上げる」と直接的な約束は避けた。
 サミット開催のための社会資本整備は、夜を昼に継いで行われた。事業内容をコスト面から精査することなど忘れたようだった、と事業関係者が言うほどだった。

 だが、時間がたつごとに政府というより「国」の沖縄に対する経済・財政支援は、明らかに変化した。
 「沖縄が求める振興策に真剣に応えようと努力してきたが、普天間飛行場の移設問題は何一つ前進しなかった」
 国政の司令塔である首相官邸は、基地問題という特殊性はあるが、他都道府県では足元に及ばないほど沖縄にかかわり続けてきた。官邸だけではない。霞が関全体が「沖縄を下にも置かない」(政府筋)ほどの対応だった。
 その流れに変化の兆候が表れたのは沖縄サミットの閉幕だ。サミットが滞りなく終わり、喧伝した「沖縄からの発信」もできたのだから、当面する複雑な基地問題はあるにしても、差し当たって政府首脳が沖縄に神経を注がなければならない喫緊の政治課題はない。
 そして日米合意に基づく普天間飛行場の移設作業は、建設の前段となる環境影響評価(環境アセスメント)が粛々となされるはずだった。
 ところが、防衛施設庁による環境アセス、および辺野古沖合でのボウリング調査は、環境保護団体や普天間移設に反対する革新・市民グループの阻止行動で暗礁に乗り上げ、結局は、ボーリング調査等の国の事前作業は何一つなされないまま、事実上の中止となった。
 しかし、事前に約束された振興策だけは着実に進められ、本来政府が期待した移設作業の進展と振興策は「セット」とは名ばかりの「単なる国の持ち出し」(政府筋)となり、外務、防衛、財務各省庁や内閣府沖縄担当部局の反発は押さえようもなく高まったのである。
 そんな政府の本音となって表れたのが、昨年の「出来高払い」ともいうべき、移設作業の進展に併せた振興策の実施だ。
 在日米軍再編計画の具体的検討の中で、振興策は基地問題の前進を前提とするという考えだ。
 具体的には、国が約束した沖縄経済振興のための経費毎年100億円を10年間にわたって支出する財政措置の中止である。総額1000億円の「小切手」は、半分以上振興策に使われたが、国が当初の約束を守るのであれば、残りも沖縄につぎ込まれるはずだが、出来高払いはその約束をキャンセルにしようというものだ。
 この考えは当時の稲嶺知事と島袋名護市長が「V字形」を基本とした辺野古岬での滑走路建設計画を基本的に了承したしたことで撤回された。
 次いで、昨年11月の知事選で仲井真氏が当選、新基地の細部の態様に問題を残しながらも国と沖縄の協議が再開され、「出来高払い」の方針は、表面的にはなくなった。

 沖縄の基地問題には1972年の本土復帰以来、常に沖縄経済の振興のための財政支出がついて回る。地政学的な沖縄の戦略的重要性は、本土復帰に当たっても当時の極東情勢を理由に日米間で確認されている。
 その沖縄の戦略的な要衝を日本が肩代わりすることは政治的にも外交上も全く不可能だ。安全保障を米国に依存せざるを得ない状況だけでなく、戦後、米国の核の傘の下で経済優先で歩んできた日本が、沖縄の戦略的地位を重視する米国に、俄かに基地問題で強硬な態度を取りにくい。
 基地問題で大きな被害を被りながら、「地位協定」の改定に踏み切れずに運用面での改善を申し入れるのが精いっぱいの日本政府にできることは限られている。それが、財政を動員した沖縄の経済振興に対する大盤振る舞いの予算措置だった。
 「基地と経済はセットではない」。沖縄問題に関与する政治家は、いつもこんな趣旨の発言をする。
 その意味は、基地問題があるから経済振興に協力しているのではない。全く別の話だ――ということだ。だが、それを額面どおり信用する人はいない。
 基地と経済がセットであることを如実に示したのが、橋本内閣当時の名護市民投票の時だ。
 名護市民投票は、普天間飛行場の移設先として名護市辺野古沿岸域に代替ヘリポートを造ろうと政府が打診したことへの賛否を問う住民投票だった。
 この時、現地入りした政府・与党幹部は異口同音に、基地問題と経済問題はセットになっている。ヘリポートを受け入れないと経済振興策は期待できないと「セット論」をまくしたてた。
 いまさら、このセット論を否定する主張は見当たらないし、二つの問題がセットになっているのは定説といっていい。
 在日米軍再編の中心となる普天間飛行場の移設は、保守の仲井真県政の発足で、これまでの遅れを取り戻すのか、あるいは立ち止まり状態が続くのか分からない。
 仲井真知事が、膠着状態の普天間問題に風穴を開けようとしているのは確かだが、問題が具体的、細部に立ち入るごとに国と沖縄の間に新たな溝ができる可能性は否定できない。県の立場と、現に移設の場となる名護市や飛行ルートにかかる隣接町村の思惑は同じでないからだ。
 移設反対運動がどう現われるかも予測し難い。
 それと、国の財政事情を見れば、沖縄への財政支出には明らかに限界が見えている。財政事情を無視した経済振興は国民の理解を得にくい。

 そして、最後は普天間飛行場移設についての国と沖縄の確たる見通しの欠如である。
 もちろん、政府も沖縄も普天間移設の実現に最大の努力を払おうとしている。
 普天間移設は政府にとって、まず、沖縄の過剰な基地負担の象徴となっている現状を打破する、象徴的な事案である。
 前述したように、96年の日米合意を基に、普天間飛行場を辺野古沿岸域に海上ヘリポート基地を建設して移設する計画は挫折した。この計画が、沖縄サミット、在日米軍再編を背景に、形を変えて浮上した。
 反故になり形態が変わったとはいえ、10年前の日米合意が蘇ることは日米関係にとって望ましい。
 在日米軍再編という米軍の世界的な変革・再編の中で、普天間問題は単なる在日米軍基地の再編にとどまらない重大な位置付けとなった。もはや、日本政府にとって沖縄の反基地運動を理由に問題解決を先送りできない状況にまで至ったのである。
 そんな危機感を持った政府が一時的にしろ真剣に考えたのは、日米合意が成った「V字形」計画の遂行に必要な、沖縄県知事に帰する公有水面埋め立て権限を、特別立法で国に移管することだ。
 その時期は、06年11月の知事選に向けて稲嶺知事の後継となる自公推薦の仲井真候補に対する反自公のオール野党が参院議員の糸数慶子を擁立したころだ。
 「自公」対「反自公」の一騎打ちに、政府・与党は危機感というよりも「勝てないのではないか」と腹をくくった。「負けてもやることはやる」と、特別立法に大きく傾いた。
 このころの与党の胸の内は、ちょうど10年前にあった米軍基地強制使用の知事の代理署名権限を取り上げた、「米軍基地強制使用特別措置法」を成立させた状況と同じだ。
 日本政府は96年とサミット前年の99年、そして2006年と、日米合意を3度も交わしている。日米合意が実を結ばないままのこの10年に、米政府は苛立ちを超えた同盟関係の不信感さえ隠そうとしなかった。
 日本政府はもはや、これまでのような「逃げ」はきかない。米政府にしても、単なる日米同盟を超えた世界的な米軍の変革・再編の中での日本の約束不履行は容認するはずもない。
 だが、こんな政府間の深刻な問題も、沖縄からすれば極めて単純な問題でしかない。
 要は、普天間飛行場の移設先は決まっているが、辺野古崎に「V字形」の滑走路を造ろうが、V字滑走路を若干修正、数十メートル海域にずらした「ハの字形」の滑走路にしようが、すべては実施主体は「国」である。
 仮に沖縄県が環境アセスやボーリング調査を許可しても、さらには具体的な公有水面埋め立てを許可しても、国が工事を直接手掛けざるを得ない。工事に反対運動や抗議行動が起きれば、国と住民の衝突という事態は避けられない。
 反対・抗議行動を排除しての工事実施は、これまでの反対運動の流れを考えると、相当の混乱が予想される。場合によっては、泥沼の闘争さえ起きるかもしれない。
 沖縄の基地問題は、米軍の施政権下にあったときも、また、本土復帰してからも、表面上は沈静化したように見えても、その実、抵抗運動が深化するだけで本質的な解決には少しも進まない。
 結局、普天間問題は日米両政府が描くようなロードマップ(工程表)どおりには進まない、が双方の本音のようだ。沖縄の為政者にとっても、基地問題の前進は、常に政治状況に翻弄されながら先送りになってきたのが現実だ。  (2007年1月20日)