【沖縄2006を振り返る】

■揺れる県民意識と先行きの不透明さ 

2007年は「普天間」の正念場



 時の流れは早い。2006年は間もなく暮れる。
 5年余の小泉純一郎政権が終わり、9月に安倍晋三政権が発足した。
その安倍政権下で沖縄問題はどうなるのだろうか。真正面から「沖縄」に向かい合った現役時代とは若干違う視点でこの1年の沖縄を振り返ってみる。
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 沖縄の2006年は、前年からの基地問題が突破口が見えないまま覆い被さり、夏以降は知事選の動向に県民は多くの時間を費やした。
 そこで明らかになったのは、基地問題の複雑さが増す一方で、保守、革新の対立軸が不鮮明になったことだろう。詳細は後で触れるが、沖縄は後世の歴史に忘れがたい足跡(フットプリント)を残す年となりそうだ。
 その最大の理由は1972年の本土復帰以降、ますます機能強化が進む沖縄米軍基地の存在である。そうした背景の下で、在日米軍再編の日米合意がなった。
 もとより、今次再編の最大の焦点は普天間飛行場の移設・返還だった。
 普天間飛行場は名護市辺野古崎に「V字型滑走路」を建設した上で全面返還する。
過重な基地負担にあえぐ県民の安心・安全を図るため、米軍の基地機能の一部を本土の基地に移転させ、普天間飛行場の移設が実現した暁には、沖縄駐留の米海兵隊約8000人をグアムに移駐させる。同時に、再編が滞りなく進めば、嘉手納以南の米軍基地が日本に返還される――というものだ。
 概略は以上のとおりだが、5月30日に閣議決定した政府方針は、そこまで具体的に触れていない。
 普天間飛行場の移設先については「日米安全保障協議委員会(2プラス2)で承認された案を基本」にするとし、県側がキャンプ・シュワブ内に暫定へリポート設置を主張していることに配慮して「辺野古崎」という具体的地名の書き込みはしなかった。
 そして、「これまでの協議の経緯を踏まえて(中略)早急に建設計画を策定。具体的な建設計画、安全・環境対策、地域振興は沖縄県、自治体と協議機関を設置して協議し、対応する」とした。
 05年10月29日の2プラス2の合意、つまり在日米軍再編の中間報告は、普天間飛行場については名護市辺野古のキャンプ・シュワブの兵舎地区から海に突き出す形でヘリポートを造るものだが、地元は完全に蚊帳の外だった。
 稲嶺恵一知事は政府に対する不信感を膨らませたし、県選出の自民党議員らも「飛行ルート下に集落があり危険だ」などと反発した。
 いかに難問が立ちはだかっているかを理解するために、05年10月末決まった在日米軍再編の概要を整理しておく。
 まず、普天間飛行場所属のKC130空中給油機は海上自衛隊鹿屋基地(鹿児島)に移駐。嘉手納基地のF15戦闘機は航空自衛隊新田原基地(宮崎)と築城基地(福岡)、百里基地(茨城)、千歳基地(北海道)にそれぞれ分散する。
 一方、本土側はどうか。神奈川県厚木基地の空母艦載機57機が岩国基地(山口県)に移転し、岩国基地の配備機は倍増する。厚木基地での米海軍機の夜間発着訓練は付近住民に多大な爆音被害を及ぼしており、硫黄島を利用した訓練も天候の関係で実質的な被害軽減には程遠い。
 この爆音の元凶たる艦載機が岩国基地に移ることで、厚木基地周辺自治体は「負担減」となるが、移転先となる岩国市民にとっては逆に負担増となる。現在の基地の沖合展開による拡張で騒音被害は「容認できる」との声もあるが、その背景には移転受け入れによる国からの財政支援・経済効果を期待する地元経済界の思惑もうかがえる。
 ところで、今次の再編で無視できないのは、米ワシントン州にある第一軍団司令部が改編され、横田基地(東京、在日米軍司令部、第五空軍司令部)に移転することだ。米本国にある強力な軍団司令部の受け入れに併せるように空自航空総隊(府中)が横田基地に移転し、自衛隊と在日米軍の相互運用強化がなされることになる。具体的には日米のミサイル防衛に拠点となるのである。
 沖縄についてみれば、グアムへの海兵隊の移転は司令部機能が中心で、肝心の戦闘部隊は温存されることだ。住民生活を不安に追い込んでいる実働部隊の大幅削減こそが沖縄の主たる要望なのだが、その見通しは断たれた。
 一方で、米軍と自衛隊の融合は沖縄でも実現する。嘉手納基地の米空軍と空自の共同使用(訓練)となり、陸自の第一混成団の訓練も米海兵隊のキャンプ・ハンセンに融合する。横田基地同様、米軍と自衛隊の緊密化が一層進むのは間違いない。

 保守の稲嶺知事が日米合意に強硬に反対したのは、日本政府にとって誤算だった。
 稲嶺知事にとっての普天間移設の合意は、沖縄サミット直前の1999年暮れにできた辺野古沖の人工島を造って建設する「軍民共用」「15年の使用期限」の代替施設である。政府は「軍民共用空港案」を受け入れ、「使用期限」については「沖縄の要望を重く受け止め、日米交渉の中で取り上げる」との政府方針を閣議決定している。
 その閣議決定意を棚上げしたままの新たな日米合意は、認めるわけにはいかないが稲嶺知事の言い分だ。
 沖縄サミットが波乱なく順調に開催できたのも、当時の知事や名護市長の岸本建男氏の努力に負うところが大きい。
 その時の知事や市長の苦渋の選択が、今回の在日米軍再編の中での普天間飛行場の取り扱いでは、全く当事者扱いされなかった。
 稲嶺知事は5月の閣議決定にある「協議機関」への参加を拒み、前回の政府と沖縄が合意した計画ができない場合は、県外への移設を求めると要求をエスカレートさせた。
 ところが、名護市の新市長となった島袋吉和氏は防衛庁の額賀長官や安倍官房長官に、今回の閣議決定に盛り込まれた沖縄側との協議機関の設置を求めている。同時に島袋市長は99年の閣議決定にある「北部振興策」の継続を求めている。北部振興策は今回の閣議決定で「廃止」されたからだ。
 「協議機関」をめぐる県と名護市のねじれは、政府にとっては地元の名護市を引きつける可能性を感じさせるのだが、小泉政権が9月で閉幕する政治的事情を考えると、どうしてもその前に協議機関の道筋を決めておかなければならない。
 沖縄は11月に知事選が予定されていた。その選挙に稲嶺氏は出馬しない。国政レベルでは早期の協議会発足が必要だったが、任期切れを目前にした稲嶺知事の決意は固いままだった。
 稲嶺知事の翻意を求めて額賀長官は沖縄県庁に知事を訪ね、協議開始を求めた。知事は再度、政府の頭越し決着を批判、「政府案のみを前提とした協議には参加しない」として、県が目指す暫定ヘリポート案、すなわち、県外移設が実現するまでの普天間飛行場の危険を取り除くため、キャンプ・シュワブ内の辺野古崎陸上部に暫定的にヘリポートを設ける考え示した。
 会談は堂々巡りの感もあったが、沖縄県が主張する考えも併せて話し合うことで歩み寄り、協議機関の設置を目指すことになった。
 政府とすれば、県との話し合いの「器」を整え、新知事に政府計画の受け入れを説得する土俵ができればいい。一方、沖縄県にとっては自らの主張もできる「双方向の協議の場」となる見通しがついた。
 そして沖縄は知事選を迎えた。
 稲嶺県政の継続と後継を掲げる仲井真弘多氏は自民、公明両党が推す保守系候補で沖縄電力の社長、会長、県商工会議所連合会長を務めた元通産官僚だ。
 対する糸数慶子氏は参院議員から転じて出馬した。反自公の野党統一候補、4人目の女性知事の誕生の期待を担った。
 争点は米軍普天間飛行場の移設問題だ。
 仲井真氏は、移設先の名護市などの納得を条件に、県内移設を容認する立場。糸数氏は普天間飛行場の県内たらい回しを拒否、国外移転を訴えた。
 結果は仲井真氏の勝利で終わった。
 仲井真氏の勝利を政府は歓迎した。一方、野党統一候補の糸数氏の敗北は、統一候補の難しさと沖縄の政治地図が「保守・革新」の対立軸だけでは説明できない現実を浮き彫りにした。

 在日米軍再編の中で進められた米軍沖縄基地の「組み替え」は、基地問題の本質が変わってきたことをうかがわせる。確かに、沖縄の基地問題は1972年の本土復帰以来、歴史的転換点に差し掛かっているとは言える。
 だが、そのことは沖縄基地問題が解決に向けて動き出したことを意味しない。事はそう単純ではない。
 なぜなら、それは米軍再編が順調に進んだ場合のことであって、そこに至る過程は生半可なことでは乗り越えることはできない。沖縄県民の過重負担が一気に解決すると考えるのは、あまりにも楽観的過ぎる。
 日米両政府が合意したレールの上を走るのであれば、それも可能だ。だが、沖縄の基地問題は政治レベルで敷かれた道を歩んだ例がない。
 在日米軍再編は、主要基地を挙げれば、東京・横田基地、立川基地、山口・岩国基地のほか九州各地の自衛隊基地が沖縄からの戦闘機等の移駐の対象となっている。
 移駐が順調に進むか否か。あるいは、移駐そのものが暗礁に乗り上げるようだと再編全体に響き、特に在日米軍専用基地の4分の3を占める沖縄基地の態様に重大な影響を及ぼしかねない。
 仲井真知事の対政府交渉能力は待ったなしで問われる。  (2006年12月25日)