【東国原知事擁立打診】

◎“策士”古賀氏の思惑どこに

 東国原氏は分をわきまえよ

(注 「甘い言葉に乗せられるな」=「政治と行政」09年2月15日参照)

 宮崎県の東国原知事は人騒がせな知事である。
 自民党有力幹部の古賀誠選対委員長の正式出馬要請に、「総裁候補を約束するなら」と注文をつけた。当の古賀氏は驚いたようだが、そこは歴戦練磨の古賀氏だ。「自民党総裁を目指すぐらいの気持ちがなければ」と、周囲のざわめきを意に介さないそぶりだが、内心はそうではあるまい。
 わざわざ宮崎県庁まで出向いて東国原知事に次の総選挙に自民党から出馬するよう要請したのは、東国原氏の存在が、どうしても今の自民党には必要だったということである。もはや、麻生首相に多くを期待できないことは誰の目にも明らか。党内の本音は麻生首相の下では選挙は戦えないということだ。
 かといって、麻生氏に代わるような有権者を引き付ける魅力的な政治家が党内にいるわけではない。できることなら、サプライズでこの危機を乗り越えようと古賀氏は考えたのかもしれない。その人物こそ、理屈なしに人気のある東国原宮崎県知事というわけだ。
 古賀氏の宮崎詣でが自民党の意思でないことは、東国原擁立劇が永田町に広げた波紋を見れば分かる。

 永田町の常識からすれば、東国原知事の政治的経歴はゼロに等しい。官製談合事件で逮捕された前知事の辞職に伴う出直し知事選で圧勝、就任後の独特なキャラクターで宮崎県の汚名挽回を果たした功績は見事だった。
 県産品のトップセールスの行動力は知事らしからぬものだったし、いつの間にか宮崎県庁が観光スポットとなったのも、「東国原知事に会いたい」観光団体が押し掛けたからである。
 使い道が不明瞭だった道路特定財源問題でも、東国原知事は宮崎県の社会資本整備が遅れていることを逆手にとって、特定財源維持を真正面から主張した。全国知事会の並み居る論客を尻目に、道路特定財源問題での主役を演じた。
 知事就任以来のテレビ出演の多さは東国原人気のバロメーターだが、それは行政手腕が評価されたというよりも、人気に便乗したテレビメディアの打算が同知事の存在を大きくした。「人気=政治的資質」でないことぐらい、古賀氏が分からないはずはない。
 古賀氏の訪問にどう対応すべきか―東国原知事が熟慮した結論は、自民党が飲めない条件を突きつけることだった。
 ただし、「自民党総裁候補」だけではいかにも芸がなさ過ぎる。全国知事会がまとめている「地方分権に関する方針」を自民党のマニフェストとすることを加え、バランスをとったのである。ところが、周囲の関心は「総裁候補」に集中した。「ふざけている」「顔を洗って出直せ」などと悪評タラタラだったのはそのせいだ。一方の東国原知事も「まじめに言いました」と譲らない。

ここで考えなければならないのは、策士・古賀が何故いとも簡単に足元が見られるような行動に出たのか、その真意である。
 自民党選対の最高幹部といえども、舞台裏での動きならともかく、正式な立候補要請はいかにも唐突だし独断に映る。しかも、東国原知事から付けられた条件が「常識」を超えたものだったから、党内の反発も大きかった。
 想定できるのは、一つには、自ら立候補を要請することで次の総選挙に対する「本気度」を国民に示して見せることである。永田町の常識とは無縁でお笑いタレント出身の東国原知事のことだから、どんな条件をつけてくるか分からない。その危うさと可能性を計算した上での正式要請と考えるべきだ。
 政治的キャリアを見れば、東国原知事は古賀氏の足元にも及ばない。下手な根回しなどしないで、知事に率直な物言いをさせる。その上で、古賀流の処方せんを考える。冒頭に記したように、東国原氏の言葉の意味を「総裁を目指すくらいの気持ち」と語ったのは、いかにも永田町流の解釈だ。
 東国原知事に真意を言わせておいて、永田町流解釈をして見せれば自民党内の反発など心配する必要はない。知事が乗ってくれれば言うことなしだ。
 もう一つは、前述したように国民をあっと言わせるようなサプライズである。

 では、肝心の東国原知事がどんな最終結論を出すのか。
 知事1期目の半ばを過ぎたばかりの東国原氏が知事職にとどまるか、あるいは国政に打って出るか岐路に立っていることは間違いない。しかし、当の宮崎県民の反応は現時点では国政への転出に否定的だし、反対論が圧倒的だ。全国レベルで見ても、興味本位の声を別にすると、地方政治にとどまるべきが大多数だと言っていい。
 東国原知事が国政絡みで取り沙汰されたのは、中山国交相が日教組排撃論を繰り返して辞任に追い込まれた際にさかのぼる。以来、東国原知事には国政転出のうわさが付きまとっている。
 国政と地方行政(政治)の重みを一概に比較はできないが、時代の変革の潮流は国政にも地方行政にも大波となって押し寄せている。政界再編に示されるように、国政の軸足は定まっていない。地方行政も、分権改革をめぐって上を下をの大騒ぎだ。改革の行方も政治の混迷で霧の中だ。
 再三指摘しているが、小泉内閣以後の政権は世界政治の中で確たる地位を築くことができないでいる。1年程度で政権を放棄するリーダーが2人もいたし、今の麻生政権が前・元首相を超えると考える人は、おそらくいないだろう。
 そうした政治潮流を根幹から変える努力が求められている。その激流に東国原知事が身を任すのは、いかにも心もとない。
 東国原知事が本気で衆院選に立候補すれば、「この宮崎をどげんかせんといかん」と言って当選した2年半前の知事選を、「この国を…」と置き換えて国政選挙で再現することができるかもしれない。

 だが、当選しても「1年生代議士」は、所詮、1年生議員でしかない。大政党に所属しようが、有力会派に身を置いて政治活動しようが、政治的影響力はごく限られている。政党や会派の枠の中、ルールの下でしか政治活動ができないことは自明だ。

制約はあるが、権限で「大統領的」存在の知事とは雲泥の差がある。政治的身分が不安定な代議士から知事選や大都市の市長に鞍替えする例は少なくない。過去に、国民的人気があった著名人が国政に移った途端に存在感をなくした政治家は多い。東国原知事に燃えるような国政改革の情熱があったとしても、それができるかどうかは全く別のことである。
 この国のあり方を変えるのは、国会議員となってやるのが本来の責務かもしれないが、模様替えではない根本からの立て直しは地方自治体がスクラムを組んで態勢を整える時期にきている。
 率直に言って、東国原知事の人気も不動ではない。有権者は飽きやすいし、浮気だ。宮崎県知事として特異な動きで世論の注目を引き付ける役割に徹し、その中で国と地方の関係を追求すればいい。
 小泉元首相は「政治家も使い捨ての時代」と公言した。郵政選挙で大勝して登場した「小泉チルドレン」の多くは行き場を見失っている。
 東国原知事は分をわきまえ、分に徹する努力をするべきである。

09625日)