名古屋城の東南隅櫓を見上げる場所にある「清正公石曳きの像」は、名古屋城天守台の普請を買って出た加藤清正が「石引き」を鼓舞する様子を再現している。
城壁に使われた巨大な石は、石船で海路運ばれた(09年3月16日)


◎ロマンに満ちる「清正石」

 名古屋城普請の“忘れ物”

               ジャーナリスト 尾形宣夫

【略歴】 おがた・のぶお

1942年宮城県生まれ。共同通信社編集委員・論説委員を経て2002年定年退社、同社客員論説委員。現在、日本自治学会理事。政策研究情報誌「地域政策」編集長。自治・分権ジャーナリストの会(東京)。神奈川県鎌倉市在住。

 木下恵介監督の松竹映画「喜びも悲しみも幾歳月」は、昭和30年代初め制作された、灯台守夫婦の厳しい生活を描いた長編ドラマである。
 映画の舞台の一つとなった安乗ア灯台は、三重県志摩市阿児町の岬の突端にある。この灯台から程近い安乗漁港は、近年、天然トラフグ「あのりふぐ」で注目を浴びている。この漁港に「清正石」を安置した祠があると聞き訪ねた。
 「清正石」は、きれいに角が取られた薄茶色の巨大な長方形の花崗岩だった。正面が縦横それぞれ15b、長さが3b、重さは約20d。この「清正石」は1610(慶長15)年、徳川家康の命で始まった名古屋城築城の天主造営を担った、肥後藩熊本城主の加藤清正が運び込もうとした大切石だという。
 平成の大合併で志摩市となった旧阿児町の文化財調査委員会がまとめた「阿児の石造物」によると、瀬戸内海から帆船に括られた2個の大切石を名古屋へ運ぶ途中、荒天のため安乗沖で浸水し捨てたとある。
 1939(昭和14)年、漁港改修の邪魔になってに一つを引き揚げたが、「石の正面切り口に印と、その下に(六角形)の印があり、加藤家の家紋蛇の目紋と酷似している。対であったもう一基はいまだに海の底に沈んでいる」と記してある。
 名古屋市名古屋城管理事務所によると、築城に当たって石引きの途中、修羅(巨石運搬用の橇(そり)から落ちた石は落城につながるとして使われなかった。安乗沖で浸水した大切石も縁起が悪いとして使えなかったということだろう。


 名古屋城普請に使われる大切石を遠方から運ぶ石船は海路で尾張・熱田港に着き、陸路を木橇(そり)に乗せて普請場近くの石寄せ場に「石引き」で運ばれた。「阿児の石造物」に記されたとおりだと、「清正石」は瀬戸内海の採石地から和歌山県の沖合を周って熊野灘から熱田に向って伊勢湾に入る直前に遭難したと考えられる。
 引き揚げられた「清正石」は、長い間漁港の一角に放置されていたが、昨年、漁協の有志が資金を募って祠を建て安置された。
 「清正石」の切り出しとして伝えられるもう一つの場所がある。
 愛知県知多半島の南知多町の篠島である。半島の南端、師崎港から高速船で10分程で着く篠島の海岸沿いにある加藤清正の石切り場と伝わる場所には、楔(くさび)が入った黒っぽい巨石が、切り出せる状態のまま置かれている。切り出しの準備はできたが使われなかったようで、地元では昔をしのぶ「時代の忘れ物」とされている。
 どこの城壁の石垣にもさまざまな形の刻印があるが、名古屋城の築城は、西国の名だたる大名が面子をかけて他藩との違いが分かるように独自の刻印を入れた。
 蛇の目の紋がはっきりと刻まれ角もきれいに整えられた安乗の「清正石」は、安乗沖に沈んだままのもう一つの大切石と対で天守台や櫓門など見栄えのする城壁の角に使われる巨石であったと想像できる。天守台は1610(慶長10)年完成、清正は翌年亡くなった。

「加藤清正」(文芸春秋)の著者、海音寺潮五郎は、名古屋城普請に威信をかける清正の思いを熱い言葉で著わしている。2年後の2011年は加藤清正が亡くなって400年、翌年は生誕450年である。熊本市ではその祝いの準備が始まったが、「清正石」は、清正の知恵と勇姿をより大きく見せてくれる。
 
安乗漁港の祠に私を案内した「志摩の国漁協」筆頭理事の浅井利一さんは妻と夫婦舟を駆って漁を続ける現役の漁師だ。「清正石」を信じて祠造りに奔走し、「あのりふぐ」をかけがえのない地域ブランドとして全国にその名を知らしめたのも浅井さんである。
 安乗の海の男たちが、目の前の海で起きたと語り継がれる出来事を胸に、遠い歴史に思いを馳せる思いはロマンに満ちている。

(熊本日日新聞社 09年3月15日付朝刊)