核心評論「沖縄復帰式典」

◎問い直したい復帰の原点

 焦点ずれた記念式典

 沖縄県宜野湾市で開かれた沖縄復帰三十周年の記念式典は、期待された明日の沖縄を目指す熱気ある式典ではなく、平板なセレモニーになってしまった。初めて国と県が共催した工夫や意気込みは感じられるが、どこか「内輪の式典」が色濃かったように思われてならない。
 問題点を避けたからだろう。県民の冷めた目も、単に日常生活の中で「復帰」が遠くなったからだけではない。沖縄問題の風化を敏感に感じ取っているからではないだろうか。
 政府がこの式典にかけた思いは、はっきりしている。復帰後三十年の教訓に立って、沖縄の再出発を高らかに掲げることだ。いつまでも過去を引きずらずに、新時代を切り開く気概を披歴することである。

 小泉純一郎首相はあいさつで、新たな沖縄振興計画を早期に決定し自立的発展に向け全力で取り組む、とした上で「さらなる発展を目指すとき、本土水準を乗り越える活力ある地域として発展してほしい」と言った。
 あいさつの大半は経済振興に力点を置き、基地問題は型通り県民の負担軽減に取り組むと、手にした紙を読むだけだった。首相が得意とする「生の言葉」は最後まで聞かれなかった。
 政治・社会状況が違うとはいえ、二十五周年式典での橋本龍太郎首相(当時)の意気込みと比べれば、いやでも政府の沖縄問題に対する温度差を感じてしまう。
 さすがに稲嶺恵一知事は基地問題にずばり踏み込んだ。それは当然としても、どれだけ首相や出席各閣僚の耳に届いたか疑問だ。

 沖縄は今、容易に進まない基地の整理・縮小や日米地位協定改定問題に加えて、国会の有事法制論議に耳を澄ましている。本土決戦を前提にしたような有事法制がどんな事態を招くかを、沖縄県民は身をもって経験しているからだ。
 その点、ベーカー米駐日大使の言葉は正直だった。
 沖縄の存在の重要性、日米の緊密な関係に不可欠な沖縄――米政府がことあるごとに強調する沖縄の戦略的役割を、沖縄県民に対する「感謝」や「友情」を再三口にしながら念押しした。
 三者三様のあいさつは、くしくも国、県、米国の立場を明確にした。そして「主権」とは何か、「外交とは」を考えさせたのではないか。
 沖縄の基地縮小に関する合意は、日米交渉の一つの成果であることは間違いない。しかし、事件の度に沖縄が求める日米地位協定の改定に、なんら具体的な行動を起こせない政府の対米姿勢に、問題解決に本気で取り組む姿は見られない。

 中国・瀋陽の亡命者連行事件は、主権と人権意識が日本外交に極めて希薄な実態を浮き彫りにした。だがこんな外交が、長年にわたって沖縄で続いてきた事実を思い起こしてほしい。
 戦後、わが国の外交とは対米外交のことだった。この対米外交一辺倒の外務省が、復帰後の基地問題で日本の主権や人権を真剣に考えて折衝に当たったと自信を持って言えるだろうか。
 過去にあまり拘泥しないで、明日の沖縄の繁栄を一緒に追求する、との言い分は理解できる。小泉首相もそう考えたから、経済振興に重きを置いたのだろう。だが記念式典は復帰の原点をあらためて見直す機会でもある。原点を忘れて、真の自立や振興はない。

02521日付