★沖縄サミット閉幕から半年余が過ぎた。サミットという最大級の政治イベントの熱は冷め、普天間問題での事務レベルの対応が動き出した。日米合同委が合意した緊急時の救急車の基地内通過は、広大な米軍基地が地元を泣かせてきた基本的な権利の一部を譲ったに過ぎない。この「緊急時」の受け止め方は単純でない。どこまでも、基地機能を優先した措置であることに違いはない。

核心評論「日米合同委の合意」  

◎防衛協力への布石  
 新展開あるか基地問題 

 日米両政府の外務、防衛当局者による日米合同委員会が、緊急時に消防車や救急車が在日米軍基地内を通行したり、米軍滑走路を使用できるなどで合意した。その政治的意味は小さくない。
 在日米軍専用施設の七五%が集中する沖縄を抜きに今回の合意の本質をうんぬんすることはできない。同時に、日米同盟の質的向上が求められている状況を考えると、周辺事態法が定める民間や地方自治体の協力なくして、防衛協力の前進は期待できない。
 つまり合意は、基地問題を含めた安全保障全体に目配りした結論と言える。
 緊急時の基地の通行・利用は沖縄県が一昨年秋、基地問題を協議する地元の三者協議会(国、在沖縄米軍、県で構成)に提示、二○○○年四月からの実施を求めた。これが日米合同委員会に持ち込まれ、約八カ月かけて在日米軍基地全域を対象にすることで話し合いがついたのである。

 沖縄の都市化は、米軍基地を囲むように広がり、スプロール化している。幹線道路は基地をう回して走り、住民生活へのしわ寄せが大きい。都市計画も広大な基地を前提に策定せざるを得ない。海難救助も米軍水域に阻まれていた。そんな不満を地域住民だけでなく、行政も持ち続けていた。
 沖縄県の要望が比較的短期間で実現することになり、緊急時とはいえ、住民生活に不便を強いた基地の厚い壁に風穴が開いたと言える。日米両政府も住民生活の便宜を無視できなくなったということだ。
 すでに沖縄県には東京都埼玉県など複数の自治体から問い合わせがきている。基地問題は行政面で意外な広がりがあったということだろう。
 日米合意の背景を探るとおおよそ次のようなる。
 日米両政府が腐心するのは、沖縄米軍基地の効率的運用にほかならない。一九九六年四月の普天間飛行場返還合意、日米特別行動委員会(SACO)最終報告は、冷戦崩壊後の新たな日米防衛協力を実現する上で「神経質な基地問題」(政府筋)を乗り越えるカードだった。
 日米安保共同宣言は日米安保を再定義し、日米防衛協力新指針(ガイドライン)関連法も動きだしている。ところが法的整備が進んだ割には、自治体や民間の協力に不安が付きまとったままだ。東京都の石原慎太郎知事は、米軍横田基地の全面返還を打ち出し、神奈川県の岡崎洋知事らは米空母艦載機の夜間離着陸訓練(NLP)に激しく抗議している。

 沖縄の場合、普天間飛行場の移設問題は、県や地元名護市が求める十五年の使用期限をどうするかまったくめどが立たない。基地の整理・縮小をうたったSACO合意の進展も思わしくない。
 沖縄の基地問題はこのところ、振興策の議論に隠れて目立つような動きはないように見えた。特に昨年七月の主要国首脳会議(沖縄サミット)後は、その傾向が強かった。だがつい最近、また米兵によるわいせつ事件が起き県民感情を強く刺激し、基地問題の現実をさらけ出した。
 日米合同委の合意は、沖縄に限らず“液状化”し始めた基地問題への当面の布石と言っていいかもしれない。米戦略上不可欠な沖縄を意識し、かつ安定的な防衛協力の達成を目指した日米両政府の配慮であろう。

(2001年1月16日付)