「再見――わが町」 鈴鹿市

伝統の再興目指す伊勢型紙

近鉄名古屋線の鼓ケ浦駅から南に徒歩で3分の所に白子観音寺はある。子授け・安産の観音さまとして信仰を集める別名「子安観音寺」、高野山真言宗の寺である。境内の本堂前に立つ銅燈籠の左手に、根本から数本の太い枝が四方に伸び、冬でも可憐な花を咲かせる国の天然記念物「不断桜」があった。
 その昔、不断桜の虫食い葉の模様の美しさに魅せられた古老が、家に持ち帰って紙に当て彫り布に染めたのが、「伊勢型紙」の始まりと伝えられている。
 小紋、友禅、ゆかたなどの柄や文様を着物の生地に染める伊勢型紙の発祥は、8世紀の延暦年間。現在まで、そのほとんどを生産する三重県鈴鹿市の白子・寺家地区は、伊勢型紙のふるさとである。

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昨年11月下旬、地元で開かれた伊勢型紙産地協議会が主催する「匠の里・伊勢型紙フェスタ」に、約4000人の見学客が訪れ、奥深い伝統工芸の魅力を味わったという。
 伝統技術の継承が叫ばれている。科学技術の発達で、昔ながらの職人技が腕を振るう機会が少なくなり、衰退が心配されている。伊勢型紙も、その一つだ。フェスタはそんな不安に駆られた型紙業界が、再生を期して取り組んだ初のイベントだった。事前の不安がウソのようだった。業界が危機感で一つにまとまったからできたと、フェスタ開催に奔走した「産地協議会」の林庸夫会長は言った。
 協議会設立までの道のりは険しかった。業界には流通、職人組合の4団体があって統一の議論はあったが、各組合の言い分はかみ合わない。行政も「統一」がなければ支援はできないとの立場だった。
 そんな中で、「型紙を地域ブランドにするしか残された道はない」が林さんの主張だった。統一がなければ、地域ブランドを手にすることはできない。業界が同じ目線で現実を直視、各団体の幹部が初めて集まった。そして協議会ができ、その結束を具体的に表したのがフェスタだった。
 伝統工芸士の六谷梅軒さんは同市寺家に住む。
 近くには白子観音寺などがある寺町だ。六谷さんは錐彫(きりぼり)の職人である。型紙職人は道具の小刀をすべて自分で作る。鋼板を型盤で形を整え、「焼き入れ」で固くした錐は細いものだと刃先は0・2_。半円状の錐を型地紙に突き刺し、小さな「○」を幾つも彫って紋様を作っていく。

 自宅を訪ねたその日、六谷さんは「当て場」という傾斜が緩く低い作業台に置かれた、美濃和紙を柿渋で張り合わせた型地紙に錐を突いていた。父親の仕事を見よう見真似ねで始めて50数年がたつ。

伊勢型紙が隆盛を誇っていたころは、地元に職人が300から400人もいて技を競った。親身になって面倒を見る親方。得意先の染色業者も気前がいい。親方は「注文がなくとも職人に仕事をくれた」そんな時代だった。人間国宝に認定された職人は6人もいた。
 しかし、情報化社会の到来と流通の大きな変化が業界を襲った。「変わり目は(昭和40年代末の)オイルショック直後だった」と六谷さんは振り返った。職人は最盛期の10の1に減った。
 型紙業界が目指す次の目標は、地域ブランドの知名度アップと新商品の開発である。照明器具に併せたインテリアや壁掛け額用など住まいを彩る商品、靴メーカーと連携した商品デザインが具体的に進んでいる。伊勢型紙を使った音楽CD/DVDジャケットも試作した。
 小紋や友禅のように、職人の指が生み出す神技のような型紙の価値は誰もが認めるが、職人が手掛ける作品は手間ひまがかかる。
 近年の機械プリントされた文様や、型紙を写真版にしたシルクスクリーン染めは比較的価格も安い。斬新な柄を染めたり、自由な染色もできると人気が出ているという。
 それ故、新しい需要開拓が進むかどうかの不安は消えない。だが救いは、歴史的伝統技術が将来の目標に向って歩みだしたことだ。閉鎖的な伝統技術の世界の新たな息吹である。

年の瀬も迫った師走の晴れた日、ひとり白子観音寺を訪ねた。境内の不断桜に白い一重の花弁の花があった。その木の下には数個の花弁が落ちていた。野鳥が花の蜜を吸い落花したのだという。
 今の不断桜は樹齢25年ほど。見ごろは、3月から4月で、ほかの桜と変わりはない。

(「地域政策」09年新年号)