「車いす珍道中」

◎目的地は目の前なのに何故にこんなに遠いの?

                 木下美佐子(「UDまちづくりの会」代表)

私は「ユニバーサルデザインのまちづくり」のボランティア活動をしております。バリアフリーやユニバーサルデザインのまちづくりが言われだし、街は確かにハード、ソフト両面において優しくなりつつあることを実感しております。

 年末にこんな体験をしました。
 友人達との会食に母を連れて出かけた時のことです。この時の母は骨粗鬆症で腰を痛め歩くのが困難な為、移動には車いすを使用しなければならず、車いすを載せて名古屋駅のある有名なビルに着きました。
 車いすでの移動は初めてでも、これまで再三行っている所でもあり、待ち合わせの時間を見ると、十分ゆとりを持って約束の場所に行けると私は確信していました。
 まずビルに隣接された駐車場は多くの場合、設計の為か、経済的な為か、駐車場の全ての階から隣のビルへ車いすでの移動は出来ないことが一般的になっています。
 たまたま幸運にも私は、隣のビルへ移動できる階に車を停めることが出来ました。(実はこのことは後で分かったことです。)事前に調べて行った訳ではなかったので移動を示す看板は分かりにくく、車いすを押し、その階から隣のビルに行けないと思った私は、上階に下階にエレベーターでウロウロしておりました。そんな私を見て駐車場から車を出していたドライバーが、運転を止めて窓越しに指し示してくれました。
 ようやくの思いでビルに移動して、ハタと見ると目の前にあるエレベーターは行きたい一つ上の階は通過のエレベーターでした。
 困った私を見て「向こうにもエレベーターがありますよ」と、そこでも複数の方々が声をかけて下さいました。

時間を見ると約束時間に近付いていました。私は携帯で側まで来ているのだがまだ時間がかかりそうだと連絡を入れ、急いでエレベーターを探しに行きました。
 途中には年の瀬ということもあって、モダンなデザインの装飾の中に階段やエスカレーターがありました。多くの人々はその階段やエスカレーターで楽しく談笑しながら上階に下階に移動していました。
 やっと見つけたエレベーターに急いで乗り込む。
 しかし乗って見ると、またしても1階上の階は通過し2階上まで行って止まりました。仕方なく再び乗り換えて2階下の元の階に戻り、ビルの関係者と思われる方を探し目的の階に行くエレベーターは何処にあるのかと聞きましたが、聞かれた相手も詳しくないようでよく知った方を探しに行って下さいました。
 この頃にはもう約束の時間はとうに過ぎて、友人の一人が階段を使って私の所に来てくれていました。

さて、関係者の方が「荷物運搬用のエレベーターかと思っていた」と、頭を下げながら上の階に移動できるエレベーターのある場所を案内して下さいました。
 車いすを押し1階上に移動できるエレベーターの前に到着した時、関係者でも荷物運搬用のエレベーターかと思ったと言われた意味が分かりました。
 それはエレベーターが古いのではなく、その場所はビルの中心にあるにも関わらず、入り組んだ通路を通りエレベーター前に行けるようになっていたのです。有り体に言えば、そのエレベーターは分からないように置かれていたと言うように感じました。もちろん看板はあります。しかし私には、知ってみれば「あらあった」と言う看板でしかないと思われました。
 この時の私の気持ちは、不自由だと感じている人に合わせることはみんなにも住みやすいことであり、それは決してデザインを損ねるものでもないと学んできましたし、それを信じて活動をしてきましたから、華やかな街には不自由さを感じる人には合わせない配慮のなさがこうもあるのかと腹立たしさを覚えました。
 同時に、知っているビルだと考えていた自分は、一体これまで何を見ていたのだろうか…と思い、当事者になってみないと、見ていても見ていないということを、たった1階上の階ながらこうも遠い上階を恨めしく見ながら、右往左往と車いすを押しながら考えておりました。

 約束時間には大幅に遅刻したものの、その後の会食の話題はこのことで大いに盛り上がり食が進みました。

今私は、みんなが住みよいユニバーサルデザインのまちづくりの活動を通し、心に留めている言葉があります。
 “情けは人のためならず”
 “折り合い”
 です。
 街はいろいろな人が住んでいるために、折り合いを付けながら暮らしています。そして個人が“一寸譲る”ことで全体が得し、それがまた個人にも得になるということを一人でも多くの人が実感して欲しいと思いつつ、今年も活動に精を出したいと思いました。

(09年1月13日)