雑記帳

2011年7月16日

◎時代の大きな変わり目に大震災は起きた(ブログ)

=農山村活性化研修会講演の概要=

昨日(7月15日)、全国町村会など農山村活性化問題協議会が主催する「農山村活性化研修会」で講演した。主催者側が用意した表題は「日本の行方〜政治のあり方と農山村」である。全国の中山間地、とりわけ農山村の疲弊は目を覆うばかりだ。そんな現状を具体的に取り上げながら話を進めた。その概要を紹介する(要旨はhttp://futenma.dtiblog.comを参照。

▽日本の「原風景」が消える

 私は講演の冒頭で、最近各地の美術館で開催されている「日本の原風景」を取り上げた。例えば、奥田玄宋の「奥入瀬<春>」、河合玉堂の「早乙女」、東山魁夷の「緑潤う」といったわが国の著名な画家の作品や、全国各地の四季折々の光景を描いた原田泰治美術館(長野県諏訪市)などを紹介しながら、何故、今が日本の原風景なのかと問い掛けた。 その原風景が知らないうちに壊れ、消え続けている現状は何を意味するのかといった視点からである。

地方の問題を考える時、全国を塗りつぶすように広がる過疎地を脇に置いて語ることはできない。過疎法、いわゆる過疎地域自立支援特別措置法が「過疎」と指定した市町村数は776に及ぶ。平成の大合併で再編された市町村は1724となった。全市町村の半数近くが過疎と呼ばれる自治体ということになる。
 一方で昔ながらの光景がなくなりつつあるのは都市部でも同じだ。都市部では郊外の大型店舗に客を奪われた中心商店街が勢いをなくし、商店街自体に問題はあるにしても、お年寄りが気軽に買い物ができる場所がなくなっている。お年よりは「買い物難民」となって、日常生活に窮するようになっている。
 過疎と集中。この両極端な姿が日本列島に現れてきている。そして、都市と農山村を問わず「空洞化」という現象が私たちの身の周りに押し寄せ、生活を脅かすまでになってしまっている。
 かつて、空洞化は農山村から若者がいなくなる「人の空洞化」、そして農業後継者が減り高齢化による「土地の空洞化」となり、それがさらに悪くなった「耕作地の放棄」につながった。つまり「ムラの空洞化」である。加えて、前述の「買い物難民」の現出である。
 買い物難民は都市部に限るものではない。中山間地、農山村においてもはっきりした形で表れだしている。すなわち、「生活条件の空洞化」が都市、農山村を問わず広がっているのである。
 農山村問題の専門家で明治大学農学部の小田切徳美教授はそう指摘している。

▽経済的豊かさを信奉

 空洞化は地域のコミューにティーを崩壊させた。文化の宝庫と言われる農山村でのコミュニティーの崩壊は、その地域の歴史・伝統に裏打ちされた文化を消滅させようとしている。私も、いわゆる田舎と言われるような寒村を数多く訪ね歩いてきたが、少子高齢化で地域の伝統行事が廃れ、継続できなくなっている現実を目の当たりにした。
 様々な形の空洞化があるが、その原因は一様ではない。農山村からの若者の流出は高度経済成長がもたらした「負の遺産」であり、都市部の空洞化は消費生活の多様化、流通経済の変化、さらには機械的な都市計画などによるところが大きい。
 開発計画の失敗による中山間地の荒廃をもたらしたのは、一つには「リゾート計画」の挫折も大きい。バブル経済期に全国に蔓延したリゾート構想は大部分が失敗したと言っていい。見境のいない開発計画がもたらした傷跡は癒えるどころか、時間とともに大きくなっているのである。
 地域経済の落ち込みに政治は危機感を募らせ次々と手を打ったのだが、功を奏することはなかった。

 田中内閣の列島改造計画は、高速交通体系の整備を軸に「1日交通圏」を張り巡らしたが、同時に全国総合開発計画という名の国家的土木事業で地価高騰を招いてしまった。昭和30年代から40年代にかけての高度経済成長と、列島改造計画で日本は稀に見る成長と社会資本の整備が進んだが、同時に成長優先の政策に伴う「負の遺産」が膨らんだのも事実であった。
 そうした経済優先の豊かさを反省し、地域の健全な発展の重要性を説いたのが大平首相だった。大平首相は1979年1月の施政方針演説で「文化重視の時代」を訴え、同年9月の所信表明演説で「田園都市構想」という、地方の時代の到来を予感させる画期的な方針を打ち出したのである。
 だが、大平首相の理想はあまりにもタイミングが早すぎ、政治、行政だけでなく国民レベルでも大きな関心を呼ぶことはなかった。

ところで、地方政治の激変を考える時、忘れられないのは小泉内閣の「三位一体改革」だろう。小泉内閣の三位一体改革は、補助金の削減に見合った税財源の移譲がなかっただけでなく、地方にとっては虎の子財源だった地方交付税の大幅カットとなった。
 自主財源の強化という地方の要望とはかけ離れて地方財政を圧迫し、地方はかつてないような合理化・効率化を迫られ、それが地方経済の弱体をさらに進めることになってしまったのである。
 小泉内閣の後を継いだ安倍内閣は国政選挙に大敗し、その原因が「地方の反乱」とされるほどだった。この後、政権は安倍→福田→麻生内閣とつながれたが、いずれもわずか1年の短命政権で終わり、2年前の政権交代となって民主党政権が誕生につながった。
 ところが民主党政権は国民が期待に応えることはなく、いたずらに政権内の抗争に明け暮れ、具体的な政治理念、政策を脇に置いたまま迷走し今日に至っている。

▽大震災で試される新しい地方の役割

 地域の混迷にダメを押すように「3・11」の東日本大震災が襲った。政権の迷走で大震災の復旧・復興が遅々として進まない現状は見てのとおりだ。
 大震災は東電福島第一原発の大事故を併発させ、国民には事故処理がどのように進められか皆目見当がつかないような、東京電力のその日暮らしのような事故対応にとどまっている。
 こうした現状に地方がどう向き合うかの答えを出すことは極めて難しい。

ただ一つ言えることは、時代の大きな変わり目に今回の大震災が起きた。もはや従来の発想で中長期的な将来展望をつくることはできない。国と地方の関係、政治と行政、さらには国民一人一人が何ができ、何をなすべきかを考えなければならない。大震災で地方の役割が試されているのである。

(尾形宣夫のホームページ「鎌倉日誌」)