雑記帳

2011年7月10日

◎国民のストレステストではないのか(ブログ)

 =大震災から4カ月 混迷の度を増す原発対応=

経綸の才に富む政治リーダーは問題の方向性を示して、それをそれぞれ所嘗する責任者に任せ専門的知見を込めて具体化させる。が、器量の小さい指導者は何でも自分でやらないと気がすまない。その結果、多岐にわたる問題が錯綜してしまい突破口が開けないまま八方塞がりとなって立ち往生する。
 大震災発生から4カ月になる。未曾有の大地震、大津波、そして世界の原発史上でも最悪となる東電福島第一原発の事故は、皮肉にも天が政権担当能力を欠いた民主党の力量を試すかのように起きた。
 この4カ月に菅政権が何を為し何ができなかったかは、ようやく復興基本法が成立しただけで、岩手、宮城、福島各県など広大な東日本太平洋沿岸域に広がる被災地の惨状を見るだけでよく分かる。特に、原発事故で故郷を追い立てられ異郷の地をさまよう被災者にとって、故郷に戻る見通しは全く立たない流浪の毎日だ。

<「国が責任を持つ」の確約はどうした>

例年より10日から2週間近くも早い梅雨明けで、関東以西の各地は猛暑が続いている。9日に続き10日も、まだ梅雨の明けない被災地も30度を超える熱波に見舞われた。国民が節電の呼び掛けに応じ電力供給はどうにか間に合っているが、今夏は綱渡りのような危なっかしい状況が続きそうだ。
 問題はその電力供給の3割を占める原発の扱いである。

 中部電力・浜岡原発の運転を全面的に停止させた菅首相が海江田経産相を佐賀県に派遣し、玄海原発の運転再開を「政治が全面的に責任を持つ」と確約した(6月29日)。と思ったら、その1週間後の7月6日、海江田氏が会見し全国の原発を対象に「ストレステスト」という新たな安全性評価を実施すると発表した。
 わずか1週間で何がどう変わったのか。国民誰もが狐につままれた感じだった。ストレステストは、これまでのように一定の基準を設けてそれをクリアしているかどうかで原発の安全性を評価するのではない。
 個々の原発ごとに立地条件を考えあらゆる事態に対応できる「耐性」があるか否かを判定して原発運転の適否を決めるEUの安全確認方式だ。EUはフクシマを契機に去る6月から始めている。菅政権がやろうとするストレステストの内容は定かではないが、EU方式を参考にしながら近くテスト項目やその評価結果をどう判断するか、日本版の方式を決めることになる。
 経産相が「安全宣言」を出し、運転停止中の原発の運転再開を要請したのは6月18日である。翌日、菅首相も経産相の要請を「私も全く同じ(考え)」とネット番組で追認した。そしてその10日後に経産相が佐賀県を訪問する。

一転してストレステストの導入が決まったのは、菅首相の指示によるものである。

佐賀県に伝えた政府の「安全宣言」、さらには「国の責任の確約」を巡って国会審議は紛糾、野党が首相と経産相の考えの違いを激しく追及した。経産相が声を詰らせながら、然るべき時期に「責任を取る」と辞意を表明したのは、この国会論議の中だった。


<突然飛び出す首相の場当たり発言>

政府方針が首相指示でわずか1週間でひっくり返る「珍事」に菅政権の原発事故対応の不徹底さが表れた形だが、首相が強調するストレステストは首相の原発運転再開に対する疑問からきているのかどうか、その真意が分からない。
 首相の言葉どおり原発の安全性を究めようというのであれば、それ自体を否定はできない。だが、佐賀県の古川知事や玄海町の岸本町長にとっては国の責任で安全を保証した約束がいとも簡単に反故になったのは、知事が言うように「なぜ、このタイミングなのか。何を信じていいのか、さっぱり分からない」であり、長の「小バカにされた」といった政権に対する激しい反発となって表れている。
 国と地方の関係は一体何なのか。場当たり的に変わる国の方針に振り回される自治体こそいい面の皮である。悪しき中央集権の典型であろう。
 知事も町長も「梯子を外された」わけだから、政権不信は解けそうにない。町長は九州電力の眞部社長に原発運転再開容認の撤回を伝えた。もはや、「覆水盆に返らず」である。

現在わが国の商業用原発は全体で54基。うち運転は17基、運転停止が19基、定期検査中が16基、これに定検の最終段階で調整運転しているのが2基である。原発運転に対する世論の反応に加えて、今回のストレステストが実施されると、来年春には国内の商業炉は全て稼動停止状態となる。電力供給能力は、かつてない危機的な状況となるのは間違いない。

 首相の経産省や原子力安全委員会、経産省の機関の原子力安全・保安院に対する不信感は強い。退陣表明をしながら政権維持にこだわる3条件は、首相としての責任を果たすだけでなくエネルギー政策の基本を根底から転換させようという政治的意思が強く働いていると見て間違いない。
 福島原発の機能が全面停止した直後に首相が突然、東京・内幸町の東電本店に怒鳴り込み、さらに混乱する原発事故の現場を訪問したのは、事故への危機感に加えて電力供給を一手に握る電力業界の寡占体制、地域独占体制に対する年来の大きな不信・反発が背景にあることを忘れてはならない。
 同時に、藪から棒とも言えるようなストレステストの指示を見ると、菅氏が首相に就任してからの言動とどこか共通点があるように思えてならない。いわゆる突然頭にひらめいたり、その場の雰囲気で場当たり的に飛び出す発言である。
 昨年夏の参院選で唐突に言い出した「消費税増税」の必要性と、その後旗色が悪くなると消費税増税を免除する年収層を300万円前後といったように、およそ財政問題の深刻さとは無関係な発言を続けた。結果は、民主党の参院選惨敗だった。

 平成の開国と銘打ったTPP問題、原発事故対応の組織乱発と結果としての司令塔不在、今年のサミットで各国首脳を前に華々しく打ち上げた「ソーラーハウス1000万世帯構想」は、国交省や経産省などと調整もしないで飛び出した「菅ドクトリン」である。原発事故の放射性物質の飛散懸念から言い出した「避難区域」の発表も首相自らが会見して言い出したものだ。
 避難区域に指定されれば、当該地域の住民をどうするかの配慮もないままの一方的な区域指定、避難指示・要請だった。つまり首相が言い出したことでどんな状況が想定されるのかも全く考えずに言い出したもので、政治の最高指導者とは言い難い言動だった。 これら以外にも大震災対策に欠かせない国会での与野党折衝に水を差す発言や自身が苦し紛れに言い出した「退陣表明」を巡る一連の言動は常人の理解を超えたものとしか言いようがない。

<フクシマを逆手に取った延命ではないか>

 その延長線で考えると、「ストレステスト」をどう位置づけられるのか、極めて分かりにくい。首相が退陣3条件として挙げた「再生可能エネルギー法案」は、緊急を要する大震災復旧・復興対策に続いて政局を見渡しながら自分の延命をにらんで出してきた「後出しじゃんけん」である。
 首相自身は浜岡原発の運転停止要請を大々的に演じて見せたが、それ以外の原発については経産相に対応を丸投げしてきた。再生エネ法案にこだわりを見せる一方で、原発運転再開にも現実的な対応を維持してきた。
 ストレステストの実施は否応なく原発の運転再開を先送りすることを意味する。それを首相が知らないわけはない。首相は原発問題について「専門家の意見を尊重する」としてきた。それは、今でも変わらない。だが、首相は中長期的なエネルギー政策の青写真を示したことはない。
 税と社会保障の一体的改革は財政問題にとどまるものではない。日本産業の国際競争力を強化する面からも重要なのだが、競争力強化は確固たるエネルギー政策と切り離せない。再生可能エネルギーの活用と言うだけでは戦略性がない。
 フクシマの経験からすれば、原発依存のエネルギー政策をこれ以上拡大すべきではないし、現実問題としてもそれはできないだろう。ストレステストが、そうした民意の変化を先取りしたものならば歓迎できるが、それもエネルギーの現状を踏まえた上での戦略性がなければならない。残念ながら、首相の言葉からそれを感じることはできない。

原発ではなく、国民を対象にしたストレステストではないのか、などと思わせてはならない。

(尾形宣夫のホームページ「鎌倉日誌」)