雑記帳

2011年6月30日

◎なぜ、原発運転再開をそう急ぐ

=経産相要請と株主総会に表れる「現実論」=

 日本という国は、どうしても「原発」から離れられないようだ。
 電力各社の株主総会は「脱原発」を巡ってかつてない長時間の論議となったが、一部株主による定款変更は否決され「安全対策」の徹底を約束するだけで終わった。
 フクシマは、当面の決め手とされる汚染水の循環冷却がトラブル続きで工程表どおり進まないことが明らかだし、従って事故検証などは先の先の話である。にもかかわらず、経産相はしきりに「浜岡とは違う。安全だ」というだけで、具体的な論拠も示さず原発運転再開を求めている。
 電力各社の株主総会がこれまでのような「シャンシャン総会」とならなかったのは当たり前だが、株主にすれば安定した資産株として持っていた株が、東電株のような無残な株価となれば死活問題だ。大口株主の資産評価が大幅下落するだけでなく、個人投資家にとってはお先真っ暗といった状況だろう。
 株主とすれば
「もし脱原発とでもなったら…」と考え、現状の仕組みを守ろうと考えるのは当然かもしれない。しかしフクシマが起きてからは、株価が大事なのか、あるいは電力会社が事業主体としてこれまでどおり存続することが望ましいのか、といった次元で考える時代ではないことが明確になった。にもかかわらず目先の損得から離れられない。
 政府も地方自治体も大株主にも、目先の電力需給体制がどうなるという視点だけで、中長期的な「あるべき姿」を語る考えがないようだ。産業界に広く根を張った「原子力村」がいかに強力であるかは論を俟たない。そして、地方においては地域独占企業の電力会社が地元に浸透した影響力は、地域振興と切り離せないくらい大きい。
 そういった盤石な仕組みを壊すことを意味する脱原発に踏み込もうとするなら、余程の強い政治力を使って原発に替わり得るエネルギー供給体制をつくらなければならない。その意気込みが政府にあるかどうかが問われているのである。

<「政府の責任」の意味は…>

ところで、定期検査を終えた原発の運転再開の突破口を開こうと佐賀県を訪ねた海江田経産相の要請に古川知事は「玄海原発の安全性が約束された」と運転再開を容認する姿勢を示している。
 佐賀県知事が運転再開の条件としたのは@国が安全性を担保するA地元(玄海町)が受け入れるB県議会が容認する――の3点だ。玄海町長は即答を避けたが、容認の考えを変えていない。県議会は知事の考えを受け入れるというから、玄海原発は運転再開に向けて大きく動き出した。
 経産相が「玄海再開」にこだわるのは、菅首相が要請した中部電力浜岡原発の全面運転停止で広がった脱原発の動きに歯止めをかけると同時に、想定される今年の夏の電力供給不安を払拭したい。その突破口として地元町長が容認を口にしている玄海を位置づけ、政府の「決意」を示すことで全国の原発の運転再開につなげようと考えるからだ。
 だが、この「決意」がパフォーマンスであることは、経産相の要請と「安全の約束」に具体的な中身がないことでも明らか。方針が加わったわけではない。「政府の責任」を口で約束しただけだ。それを知事も町長も「評価した」のである。

では、「政府の責任」とは何か。何を意味するのかを考えなければなるまい。
 万が一、フクシマ同様の事態が発生した時に政府が果たさなければならない責任はごく当たり前のことで、それを今、地元に約束するといったことで済むような次元の話ではない。
 さらに想定しておかなければならないのは、まだ正式に確定はしていないが、フクシマと同じような賠償問題が起きた場合、賠償や様々な補償が形はどうあれ「増税」として国民にツケが回されることである。

 端的に言って、「国の責任」は「国民の責任」と同義語と考えるべきではないか。

<アリバイづくり>

佐賀県知事、玄海町長への要請に先立って政府の原子力安全・保安院による住民説明会26日、佐賀市内のケーブルテレビ会社のスタジオで行われた。国が選んだ7人の「住民」と保安院審議官らが話し合う形式だった。保安院側は十分説明できたと言うが、「国選」の意見陳述人らは「説明不十分」「時間が足りない」「話が専門的過ぎる」などの不満が多く、原発問題という難問について県民の意見を聞く住民説明会と言えない経産省ペースの説明会だった。
 経産省とすれば説明会は運転再開に向けた手続きの一つである。それをこなした上で知事や地元町長に「挨拶する」ことで問題を決着させる、のがシナリオだ。言葉を替えるなら、地元説得のアリバイを一つずつ積み重ねることである。
 経産相の焦りと言えるのは、IAEA閣僚級会議を目前にした6月18日夕の突然の会見がある。
 経産相は会見で、原発を持つ電力各社に定期検査を終えた原発の運転再開を要請した。会見後、経産相はIAEA閣僚級会議に出席のため、慌しく日本を出発した。会議の「主役」は日本である。当然、海江田氏の話は注目される。それを考えてのIAEA会議直前のセレモニーだった。
 IAEAで経産相は予定通り日本の原発事故対策の説明をしたが、循環冷却稼動失敗で原発事故収束に大きな狂いが生じている事実には触れなかった。経産相が経産省官僚の手のひらでフクシマを論じている事実が、いやでも世界に発信されたのは当然である。

<首相の真意はどこにある>

理解し難いのは原子力行政が経産省の所管とはいえ、菅首相は原発運転について浜岡原発の運転停止要請以外は、経産相の海江田氏に任せっきりで自ら先頭に立って発言していないことである。首相は海江田氏の発言を「了」とし、自分は政局絡みの「再生可能エネ法案」の成立にこだわる言動を続けている。
 首相はエネルギー基本法を抜本的に見直し、原発依存を低下させると強調しているのだから、原発運転再開問題に言及してもいいはずなのだが、それがない。退陣表明はしたが、その後の政治状況の変化を見て政権続投の意思を強めた首相の頭には、「再生エネ法案」しかないかのごとくである。
 つい先日の内閣の入れ替えで浜田参院議員を一本釣りされた自民党は、菅首相の汚いやり方に激怒し、国会は延長したものの審議に入れない空白状態だ。原発事故収束の対策も被災地の復旧・復興対策も、いつ本格化するのか、そのメドさえつかない。

そんな状況の中で政府が「国が責任を持つ」と言って原発の運転再開に乗り出したことが、原発立地県の関係首長の考えにどう影響するのだろうか。
 史上最悪の原発事故フクシマは、事故は原発が立地する地域だけの問題ではなく、広範な地域に影響することを明確にした。
 電力会社に対し原発の半径30キロ圏内の自治体が「安全協定」を結ぶよう要求する動きが表れている。従来は地元自治体と県が協定の対象だった。もはや原発は、原子炉がある地元だけの存在ではないということだ。
 ということは、地元と県が運転再開を了承したとしても、周辺自治体が電力会社に厳しい条件をつけてくることは十分予想される。
 今や原発は地域を限定した「点」ではなく、周辺地域、あるいは隣県も取り込んだ「面」となったのである。原発行政はその意味でも、発想そのものから変えなければならない時代になったと言えよう。

(尾形宣夫のホームページ「鎌倉日誌」)