雑記帳

2011年6月23日

◎66年目の「慰霊の日」

=普天間問題は「不条理」ではないのか=

沖縄は23日、慰霊の日(沖縄全戦没者追悼式)を迎えた。糸満市摩文仁「平和の礎」は、今年もいつものように真夏の暑い太陽が照りつけていた。戦後66年の今年の慰霊の日は、直前にワシントンで開かれた日米両政府の外務・防衛相による安全保障協議委員会(2プラス2)で、県民が猛反発する普天間飛行場返還の日米合意をあらためて確認するという、県民にとっては許し難い中での祈念式となった。
 正午から始まった式典で仲井真知事が読み上げた平和宣言は、いつものように県民が基地問題に苛まれている状況を紹介しながら、基地負担の大幅な軽減と、世界一危険な基地と米政府首脳が認める普天間飛行場の一日も早い県外への移設と、米軍に関わる事件・事故処理が日本側の自由にならない現実を解決するための日米地位協定の抜本的な見直しを強く訴えた。
 そして知事は、大震災に苦しむ被災地の人たちに向けて「困難に立ち向かっている人々に深く思いをいたし、国全体のために何ができるかを真剣に考え、行動することが求められている」と述べた。

 沖縄県民にとって、大震災の惨状は他人事とは思えないようだ。
 というのも、想像を絶する大地震と大津波で一面瓦礫と化した被災地は、66年前の沖縄戦で焦土となった沖縄の光景を思い出させるからだ。当時の県民の3人に1人が犠牲となった沖縄戦の惨状を今、思い起こさせるのは「がま」と地元で呼ばれる洞窟ぐらいである。
 この日、「退陣問題」から解放され来賓として出席した菅首相の挨拶は、型どおり沖縄県の過重な基地負担を軽くする政府の努力を語る一方、日米合意に基づいて普天間飛行場の辺野古への移設を目指す考えを示した。
 首相は挨拶の冒頭で、「人間の尊厳と生命を守ることこそ政治の任務であることを心に刻んでいる」と語ったが、その言葉に実感を持った県民はいただろうか。首相の言葉とは裏腹に基地問題の前進はほとんどないという現実を知る県民には、はるか遠い言葉としか響いてこなかったはずだ。
 式典後、知事は帰京前の首相と短時間だが会談した。しかし、その中でも首相は日米の「2プラス2」には触れずじまいだった。 

 首相が今年1月召集の通常国会で行った施政方針演説のポイントは三つ。@平成の開国A社会保障と税の一体改革、そしてBが「政治の不条理をただす」である。ここでは@とAは省略する。Bの不条理は政治資金を巡る「小沢問題」そのものだ。
 「不条理」とは不合理、あるいは常識に反していることを指す。首相は民主党の小沢元代表を念頭に「政治の不条理」を言ったが、戦後政治の最大の不条理は「沖縄」である。在日米軍の専用施設(基地)の75%が狭い沖縄に集中している現実は、まさしく不条理そのものである。その不条理な基地問題の典型的なのが、いわゆる普天間問題である。
 政権交代で誕生した民主党政権は、旧政権で日米両政府が合意した普天間飛行場の名護市辺野古への移設を否定して「最低でも県外移設」を約束、沖縄県民の期待を膨らませた。だが、この約束は反故にされ、元の日米合意の「辺野古」に戻った。この辺野古合意を再確認したのが、慰霊の日の数日前の「2プラス2」である。
 首相が知事との会談で日米合意に触れなかったのは、沖縄側に全く譲歩が期待できない普天間問題を持ち出したところで、気まずい思いをするだけと思ったからだろう。
 現状では、普天間問題の進展は全く期待できない。日米両政府が再三合意を確認したところで、沖縄は県も県議会も、さらには地元の名護市・市議会も日米合意を認める気持ちは全くないからだ。世論調査でも、圧倒的多数が「県外移設」を求めており、世論の軟化は期待できない。決定的なのは、沖縄が菅政権を信用していないことである。

 最後の激戦地となった摩文仁が丘には、海の波が押し寄せる様子をイメージした戦没者の名前を刻んだ波型の長い碑が、幾重にも並んでいる。
 平和の礎から眺める断崖と岩に砕ける青い波は、幾多の命を飲み込んだ。私が沖縄で取材に駆け回った72年の本土復帰前後の、サトウキビ畑と鬱そうとした荒地の姿を今みることはない。戦跡公園としてきれいに整備され、幹線道路が縦横に走る現状からは、当時をうかがい知ることはほとんどできない。
 慰霊の日が来るたびに思い出す昔の沖縄は、単なる郷愁を超えた歴史の一コマだと私は思っている。慰霊の日のこの日、豊見城市糸満市の計3カ所で砲弾などの不発弾3発が見つかり、陸上自衛隊不発弾処理隊が緊急回収したと地元紙の沖縄タイムスにあった。
 不発弾が見つかるのは珍しくない。ガマの中では今でも遺骨が次々と掘り起こされる。癒しの島として人気の沖縄だが、華やかなリゾートの裏に「戦争」の痕跡が残っているのである。

(尾形宣夫のホームページ「鎌倉日誌」)