雑記帳

2011年6月10日

◎政治の常道を裏切る権力欲 (ブログ)
 =「退陣表明」から1週間=

 菅首相の「退陣表明」の中身は、行きつ戻りつしながら1週間が経った。見事な粘り腰という見方もあるが、大方の評価は「権力にしがみつく」だけの救い難い首相といったところである。かといって、国民は野党の攻勢を褒めるわけでもない。総じて言えるのは、日本の国際的信用が急落していることに対する国民の危機感がこの国を覆っていることである。

 少し時系列的になるが振り返ると、今月2日昼開かれた民主党の代議士会がそもそもの混乱の始まりだった。菅首相が震災対策に「一つのめどがつけば、若い人たちに責任をつないでもらう」と早期退陣の意思を明らかにした。この演出は、この日午前の鳩山元代表と亀井国民新代表との会談を受けたものだ。
 野党提出の内閣不信任決議案が可決される公算が大きくなって、両氏が「復興基本法案成立」と震災対策に欠かせない「第2次補正予算案編成のめどついた」段階での退陣を求め、首相がこれを受け入れた。それを踏まえた代議士会での首相の所信だった。
 ところが同日夕から3日かけて状況は一変する。
 首相が鳩山氏と約束したはずの早期退陣の「確認書」には退陣の「た」の字もない、約束もしていないと岡田幹事長らが言い出し、首相は逆に福島原発事故の1号機の「冷温停止」が予定される来年1月が「めど」だと続投の意欲を公然と言い出した。

 予想外の展開に民主党内も混乱、反発が表れ、裏切られた鳩山氏も首相をつかまえて「うそつき」「ペテン師」と口を極めて批判した。
 菅首相不信任案になびいていた民主党内が首相の策謀に乗せられたのか、あるいは小沢元代表の作戦ミスではないかとなどという話が永田町を駆け巡った。それよりも首相の居直りが野党だけでなく、与党内の反菅感情を噴き出させてしまった。
 そして、場面は再び早期退陣の流れを速め、首相の包囲網が出来上がった。マスコミも例によって後継者の名前を次々と挙げて政局をはやし立てた。こうなると、永田町の関心は後継レースであり、引きずられるマスコミの目も大震災よりも政局に軸足が移った。

 ポスト菅の後継レースは、与野党を巻き込んだ大連立論と併走した。水と油のような内部対立を続ける菅政権は国難の大震災を乗り越える力も知恵も備えていない。事情さえ整えば、大連立を模索するのは自然の流れである。民主、自民の折衝は本格化したが、ここでも双方の思惑がかみ合わない。民主・岡田執行部は大震災復興と税・社会保障の一体改革などでの「期限付き大連立」を提唱した。
 税・社会保障一体改革は菅首相の延命につながりかねない。枝野官房長官も会見で、「政治状況にかかわらず、国会が対応できる状態となっていることが望ましい」と語って会期延長に含みを残したが、同時に首相の退陣時期については「ほぼ常識の範囲」と、早期退陣を示唆している。

 だが、民自の大連立論は果たして現状において正しい方向と言えるのだろうか。
 政局の現状を見れば、菅政権の体たらくはいかんともし難い。かといって、大連立しか道はないというのも短絡過ぎる。「震災対策に絞る」というが、仮に国の尊厳が損なわれるような事態が起きたらどうする。内政、外交問題に前例がある。昨年の沖縄・尖閣諸島海域での漁船襲撃事件、日韓、日朝関係、北方領土問題で連立が十分機能するだろうか。そういった前例を思い出すべきではないか。
 大連立を「震災」に絞るといっても、外交がらみの難題が振りかかった時に、「連立の対象外」と言うわけにはいかない。震災対策でも財源問題で簡単に合意できるとは思えない。
 そして、今では大連立も政権内の後継者問題と絡めて、野党側が本気で政権側との折衝に乗ってこなくなってしまった。
 そして9日ごろから自、公は当初前向きだった第2次補正予算案についても、退陣する政権と交渉するわけにはいかないと言い出し、来週17日にも成立する運びの「復興基本法案」を最後に首相が退陣するよう求めている。事態は、ころころ変わるのである。

 永田町の権力闘争で少し脇に追いやられてしまったが、東電福島原発事故の方は一向に見通しが立たない状況が続いている。
 日を追うごとに明らかになる東電福島原発事故の深刻さは何を意味するのか。原子力安全・保安院が6日公表した解析結果では、原発事故で大気中に放出された放射性物質は77万テラベクレル(テラは1兆倍)で、保安院や東電の推計の2倍を超える。また1〜3号機ともメルトダウンを起こし、1号機は地震の5時間後には圧力容器が壊れていたという。
 当初から指摘されながら、政府も東電も否定していた事実が次々と明るみになったのである。

 政府の原子力災害対策本部は7日に、福島原発事故の報告書をまとめ国際原子力機関(IAEA)に報告した。中身は大災害・事故で指摘されてきた対策の遅れ、不備をほぼ全面的に認めている。原発立地の推進と規制を経産省が所管する矛盾を反省し、安全規制の責任を明確にするため、安全・保安院を経産省から独立させる改革案にも踏み込んでいる。
 安全・保安院の独立で原発行政が基本的に変わるかどうかは、機関・組織の位置付けを見ないことには分からない。構成メンバーも重要だ。霞が関の慣例として省庁間の垣根は高くない。原子力という専門的な分野では、第三者の関与にも限界がある。より基本的な問題として、国策として進められてきた原子力発電の立地・推進を支えてきたのは政界、官界、学界、産業界という盤石で強力な態勢である。この仕組みがつくり上げてきた問題を、保安院の独立で解決できると思うのはあまりにも甘い。
 ドイツのように脱原発を宣言できる政治力は日本にはない。原発に代わる自然・代替・再生エネルギーの活用による原発依存の低下も、相当腰を据えた態勢をつくらないと絵に描いた餅になる。

 「3・11」は世界の原子力事故として記録されることは間違いない。元々、日本には原子力の技術・知識は乏しく、米国からの「受け売り」でスタートした。にもかかわらず、原発の善し悪しを「イデオロギー問題」にすり替えて反対派を押さえ、安全神話を振りかざしてきたのが日本の原発の歩みである。
 「3・11」は、「万が一」を想定もせずに放置してきた神話に突き付けられた、途方もなく大きな被害と犠牲、さらには国際的な信用の失墜である。

(尾形宣夫のホームページ「鎌倉日誌」)