2011年4月29日

◎最高顧問の諫言(ブログ)

「私なら、手をついてお願いする。電話でなんか頼まない」

29日午前の衆院予算委員会で質問に立った民主党最高顧問の渡部恒三氏は、菅首相の震災対応の弱さを諌めるようにこう語った。東日本大震災対策に苦慮する菅首相が先に、自民党の谷垣総裁に震災対策担当相を電話で打診したことを取り上げたのだ。
 「手をついてお願いする」とは、少しばかり時代がかっていたが、言わんとすることは「本気で自民党の協力を得たいと思うなら、直に会って頭を下げろ。電話なんかで済ませようとするな」ということだ。
 政権不慣れだ、慣らし運転だなどと政権運営を散々こき下ろされながら、相変わらずやること為すことが大人になりきれていない菅首相を叱ったのである。

渡部氏は竹下登元首相が率いた経世会、いわゆる旧竹下派の「7奉行」のひとりである。饒舌ではないが、福島なまりの語り口は相手の気を削ぐなかなかの策士だった。
 いまでは「平成の黄門さん」などと呼ばれて老境の域にあるが、今度の東日本大震災の菅首相の対応には黙っていられなかったのだ。
 渡部氏の地元は福島県である。大震災では地震、津波に加えて東電福島第一原発事故に見舞わられた。原発事故では第一原発から周囲30`が避難区域となり、圏外だが飯舘村などは計画的避難区域に指定され、村民は1カ月以内に避難しなければならない。30`圏内の人たちは、政府から避難に際してその後の生活をどうすればいいのかを知らされないまま、着の身着のままで散りじりに故郷を後にした。
 避難区域指定を通告する首相も、枝野官房長官もただ避難区域指定を言うだけで、避難に伴う生活上の様々な問題をどうするかを脇に置いたままの一方的な避難指示だった。
 「危険だから避難しなさい」は分かる。だが、避難を指示されたほうには様々な生活上の問題がある。「それを言わないで避難しろ」だけでは、あまりにも住民のことを考えていないのではないか。渡部氏は、そんな県民の苦衷を閣僚席に座る菅首相らにぶっつけた。そして原発事故についてはこうも言った。

 「県民は東電のために原発を認めたのではない。国家のために仕方なく、我慢して(立地を)認めたのだ。原発は地域住民が使う電気ではない。すべて首都圏の人たちが使うための原発なのだ」

 平成の黄門さんの面目躍如だった。
 県民は原発の危険がいつなくなるとも分からないまま、不安な生活を遠く離れた慣れない他所の土地で見守っている。そうした県民の心情を訥々と話しながら、首相の決意を質したのである。
 政府の震災対策は20もの○○本部や○○会議といった組織があるが、屋上屋を重ねる組織、役割が明確でない組織など全体の指揮・命令系統が整理されていない。その日暮らしのような生活を強いられる被災者は、毎日行われる枝野官房長官の会見や、東電の説明を固唾を呑んで見守るしかない。その中身が現状の説明だけで、例えば汚染水が増えたといっても、何故増えたのか理由は分からないという説明では、この先どうなるのか全く予想もできない。
 しかも、今は会見は一本化されたが、官房長官会見、安全・保安院会見、東電本社会見、福島現地での会見といった具合に、情報発信の場が幾つもあった。そして、それぞれの説明に微妙な違いも少なくなかった。被災者はその都度、内閣の対応に一貫性がないことを知り、「何を信用すればいいのか」と戸惑い、不安を一層膨らませたのである。

岩手、宮城両県の被災地は今なお震災の恐ろしい傷跡をさらしているが、それでも少しずつ復興への歩みを始めている。
 ところが福島県の場合は佐藤知事が政府の「復興構想会議」で言ったように、「災害が進行中」といった状態だ。放射性物質の飛散という目に見えない恐怖が県民を追い込んでいる現状から、いつになったら住民が解放のされるのか分からない。東電が発表した事故対応の工程表はあるが、9カ月で事故処理が終わる保証はほとんどないと言っていい。
 避難地域の農地は荒れるがままだし、酪農家が放置せざるを得なかった家畜は衰弱、殺処分を余儀なくされている。住民が去った避難区域の町は、文字通りゴーストタウンとなり、豊かな作物を生産した農耕地は後継者がいなくて放置された中山間地の「耕作放棄地」と同じような姿となってしまった。

 被災地は、これから気の遠くなるような復興の道のりを歩まなければならない。だが、前述したように復興が緒についた岩手、宮城両県と、原発事故の今後の成り行きを引きずる福島県とでは、復旧・復興の中身が全く違う。
 壮大な復興計画も取り沙汰されるが、差し当たっての生活をどうするのか、多岐に渡る農漁業分野の補償、休業補償に加えて、「精神的苦痛」に対する補償も焦点になる。よほどの覚悟と政治力を備えた態勢がなくして、今日の危機を乗り切ることは望めない。

(尾形宣夫のホームページ「鎌倉日誌」)