【まちづくりの知恵と文化力】

◎地域のリアリティが求められている

 地域活性化に欠かせない「まちづくり」には、地域住民の意識と「わがまち」ならではの地域資源の発掘・活用――が常識的な考え方である。一般論としては分かるが、それでは、具体的にどうすればいいのか。こんな疑問に具体的に応えてくれたのが、三重県伊賀市で先月末開かれた「文化シンポジウム・まちづくりと地域文化」(三重県主催)だ。
 シンポジウム開催にかかわった者として、多少手前味噌な紹介があるかもしれないことを最初に断っておく。

 シンポジウムに参加したのは倉敷市の顔とも言える大原美術館の大原謙一郎理事長、世界のトップレベルの観光ノウハウを持つJTIC・SWISS代表の山田桂一郎、伊賀市で草の根的にまちづくりを実践している中盛汀両氏と司会を務めた帝塚山大学大学院の中川幾郎教授。
 大原理事長が基調講演で紹介した倉敷のまちづくりの基本は、例えば祭り・イベントについて言えば、「この指とまれ」式で仲間が集まり皆が汗を流すやり方だ。だから、気が乗らないときは無理して実行しない。あくまでも自分たちの気分が乗ったときに、そのエネルギーをぶつける。だから、カネもそんなにかからないし、地域の人たちも大いに盛り上がる。
 行政が主導するイベントでは、こうはいかない。行政が手掛けると、「その気にならないから」やめると言ったら、その責任を問われるのは間違いない。結果はどうあれ、予定通り実施するのが行政の常である。
 理事長が最も力点を置いたのは、パブリック・マインドを持った民間とNPO・シビル・マインドを持つ行政に、「おもしろがるプロフェッショナル」が加わった形だという。
 民間がすべてパブリック・マインドを持っているとは限らない。同時に行政に携わる者に多くのシビル・マインドを期待することは現実的でない。要は、その意識を持つ人たちが目いっぱい行動することだ。具体的な事例として、理事長は倉敷市の人気の「花七夕」「屏風祭り」を挙げた。
 そして、もう一点、理事長の言葉で「ホー」と思ったのは、観光客が大勢押しかける連休などには、イベントは設定しないということだ。観光客を目当てにイベントをやるのではなく、あくまでも地元のために催すのが、地域おこし、まちづくりであるという認識である。
 それは「倉敷だからできること」という反論があるかもしれないが、このやり方は、昨日、今日始めたわけではなく、長い伝統に裏打ちされた方式だから、自信を持って言うことができるのかもしれない。

山田氏は日本とスイスを年間180回も往復する。山田氏が再三言ったのは、「リアリティ」があるかどうかだ。いくら観光振興を叫んだところで、そこに地域のリアリティがなければ見向きもされないと断言した。
 日本人なら誰でもあこがれる「アルプスの少女ハイジ」の舞台のスイスの田舎は、生活風習のリアリティであって、作られた装置ではない。スイスの文化として残っているものが人を引きつけるのだという。
 外国人の評判が悪く、リアリティがない一例として山田氏が挙げたのは、「よさこいソーラン踊り」だ。若者が楽しく踊る姿は楽しそうだが、全国どこでも「よさこいソーラン」では芸がない。地域のリアリティが全くない。楽しそうだと思うと、地域性も考えずに、われもわれもと同じことをやろうとする知恵のなさを嘆いているのである。
 山田氏は、「住民参加」という言葉に強い拒否反応を示した。
 「住民参加は行政のエゴだ。本当は『行政参加型』。住民参加と言うと、行政が真ん中にいて『お前たちを参加させてやるぞ』―ではない。住民・事業者として頑張る。その時に民間は民間で何をやるべきなのか、行政は何をやるべきなのか」と言った。
 つまり、何気なく使われている「住民参加」は、住民と行政が主客転倒した言葉だと注意を促している。「行政参加」こそが、あるべき姿というわけだ。

中盛氏は公共交通機関としての鉄道の重要性に気づき、夜中まで頑張っていると経験談詳しく語った。彼女が得た教訓は、行動しないと皆に分かってもらえないという住民運動の原点を、自分の活動で体得したことである。そうすることによって仲間が増え、ネットワークが広がる。「とにかく動かなくては何も始まらない」が中盛氏の主張だった。

司会を務めた中川教授は、研究・実践者らしく文化と地域づくり、まちづくりの切り離せない関係を学問的視点と実際の経験をもとに語った。

シンポジウムは今回が4回目となる。地方の疲弊、格差社会の広がりを前に、地方自治体はかつてない困難に直面している。窮地を抜け出す妙案はそう簡単には見つからないし、まして活性化の即効薬があるわけではない。
 カネもない今のご時世で、地域活性化の道を何に求めるべきか。そんな難題に向き合うべく文化シンポジウムを始めた。カネがなければ知恵を出せ、経済最優先できたツケを今突きつけられている。今こそ自分たちの足元を見詰めて地元にある、忘れられていた「資源」を掘り出し、活用することではないか。
 「文化」と言っても、そう大げさにかんがえる必要はない。日常の生活文化を見つけ出し、皆が寄り集まって自分のまちを考えることから始めたらどうだろう。その際気をつけなければならないのは、観光客を呼ぶための「装置」をつくることではない。倉敷流に、まずは自分たちが楽しむことを考えたい。自分たちが楽しくないようでは、誰も見向きもしない。
 情報社会だ。知らない土地での楽しさは、すぐ伝わる。「ちょっと行って見ようか」となる。そのためには仕掛け人は必要だし、汗を流す仲間がいなければならない。最初から贅沢を言わないで、細々であっても、とにかく始めることだ。

(注)本稿では、シンポジウムのほんの一部を紹介したにすぎない。詳細は近く刊行する自治問題の政策情報誌「地域政策」の新年号を参考にしていただきたい。

081215日)