雑記帳

2011年3月27日

◎想定外≠フ災害にどう向き合うか(ブログ)

 3月も終わろうとするのに、各地から「さくら便り」がさっぱり届かない。我が家の近くの桜並木の蕾は膨らんできたが、この数日の冬のような寒さに出鼻をくじかれてしまった。梅は終わった。ツツジもサツキも若葉が日に日に増えている。寒さ続きだが、自然は黙っていても季節の変化を知らせてくれる。

 今朝も寒い一日の始まりだった。抜けるような青空を見上げていると、震災の被災地はどんな天気なのだろうと思ってしまう。だが、テレビは今日も被災地の「今」を映し出していた。岩手県宮古市の被災地には雪が舞っていた。頭からマフラーをすっぽり被った被災者が、瓦礫が少しばかり片付いた道路を黙々と歩いている。塩釜港に大型タンカーが接岸、待望のガソリン、灯油が被災地の港に届いた。石油を満載したタンクローリーが足早に岩手県に向かったとアナウンサーが言っていた。被災地への救援・支援の手が少しずつだが手厚さを増しているようだ。
 だが一方で、東電福島第一原発の現場は実態がつかめないまま事態は悪い方へ、悪い方へと進んでいる。安全・保安院の説明も相変わらず、その時点での状況説明しかない。質問されても明確に応える材料がない頼りない状態が続いている。復旧の足音が、僅かに聞こえ出したが、放射能という見えない不気味な恐怖が住民の身辺にひたひたと近づいているのだ。
 原発施設周辺では、今日も原子炉が破損したとしか思えないような異常な放射性物質が観測されている。
 東電が27日夜発表したところによると、2号機のタービン建屋地下の水たまりの表面の放射線量が1時間当たり1000ミリシーベルト以上という高い数値を計測したという。同社は同日午前、採取した水の放射性物質の濃度は、通常に運転している原子炉内の水の
1000万倍に当たると発表したが、夜になって分析結果に誤りがあったと訂正した。だが、東電や安全・保安院の説明は、放射性物質の漏れの原因が何であるかは「分からない」、枝野官房長官も「調査中」と言うだけだ。これでは、「安心しろ」と言われても、その言を信用する者はいない。不安を抑えるどころか、助長させるような説明しかしてくれない。

 今度の原発事故で浮き彫りになったのは、これまでの原発の耐震設計審査指針や既存原発の耐震性の基準が通用しなかったということである。「想定外の地震・津波」と言われるが、それは逃げ口上、原因を自然災害のせいにする責任逃れでしかない。
 05年の宮城県沖地震や07年の中越沖地震が原発にとって「想定以上の揺れ」だったことは、この二つの地震が原発の耐震性再評価につながったことでも明らかだ。つまり、想定外を2度も経験しているのだから、今度の大震災を「想定外」と片付けることはできない。想定外の地震が常にありうるという設計思想がなかったと言わざるを得ない。
 福島第一原発周辺地域からの住民避難が続いている。
 幸い、隣接の
群馬県山梨県が積極的に避難者を受け入れてくれている。山梨県は約6000人、群馬県2400人の引き受けを決めている。既に福島県から栃木など首都圏各地に避難した人は多いが、西日本各地からも避難受け入れや支援物資の提供、ボランティアの派遣・申し入れが被災地に舞い込んでいる。共助の精神が、これほど旺盛なことを忘れかけていた日本のアイデンテティーを自慢したいくらいだ。被災地での冷静な行動、各地からの支援に諸外国からの驚嘆の声があがるのもうなづける。

 ところで避難にも土地柄、県民性が表れるということなのだろうか。
 朝日新聞の27日付朝刊一面トップ記事に「集団疎開 心が痛む」「周囲に遠慮 少ない参加」岩手…とある。災害救助支援バスに自分たちだけが乗って温泉旅館に行くことをためらう高齢者がいるという。また、地域の仲間、皆を捨てて行けない、と疎開を断る人もいる。高齢者を優先的に避難してもらおうという行政の気持ちが通じない現実をどう理解すればいいのか。
 同じような例は、
岩手県に限らない。宮城でも福島県でもある。東北人特有の我慢強さ、地域の仲間意識、絆の強さがそうさせるのかもしれない。

 東日本の太平洋岸に牙をむいた大震災の復旧・復興がどうあるべきかを考えさせる事例が岩手県大船渡市の綾里白浜地区にあった。
 この地区の約60世帯の家屋は浸水もなく、もちろん人的被害はゼロだった。25メートルと推定される大津波に襲われながら被害を最小にとどめたのは、家屋が並ぶ地区が高台にあったからだ。もともと海辺近くで生活していたが、明治三陸大津波(1896年)と昭和三陸津波(1993年)を経験した地区住民らは津波から生命、財産を守るため、全世帯が住居を高台に移したという。
 今度の大津波の怖さは、浜辺を囲む高さ3メートル、幅1メートルの頑強なコンクリート製の防潮堤が粉々に壊され、200メートルも飛ばされたことでも分かる。2度の津波の経験を生かさなかったら、集落が消滅していたことは間違いない。

 被災地の復旧、復興が論議され始まった。「想定外」の大地震、大津波を今後の復興、まちづくりにどう生かすのか。阪神大震災後の都市計画、区画整理の経験を今度の大震災に当てはめることができない。海岸線での生命・財産をどう確保するか。復旧は被災の現場を元の形に戻すことであり、復興はふたたび社会・経済活動が盛んになることである。
 想定外の災害が現実となったことで、「復旧」は再考されなければならないかもしれない。さらに、都市計画や区画整理で短兵急な結論を出すようだと阪神大震災の時と同じような地域社会、人間関係、権利などの問題が表れる。
 その教訓は生かさなければならない。復旧、復興は個人の権利との関係を抜きには考えられない。場合によっては特別立法が必要になるかもしれない。関係者、関係機関の腰を据えた論議、調整で何をなすべきか熟考しなければならない。早めにその仕組みを考えはじめるべきではないか。

(尾形宣夫のホームページ「鎌倉日誌」)