雑記帳

2011年3月21日

◎編集責任を終えた解放感かな(ブログ)

 報道機関を定年退職して間もなく、ひょんな縁で担当した政策情報誌(季刊)の最終号の編集作業が終わった。
 企画・編集を手掛けてから丸7年の歳月は、思い起こして見ると長いような気もするが、「いつの間にか7年も経ったのか」が実感である。同誌のタイトルは「地域政策−三重から」。地方自治問題の政策研究情報誌として2001年7月に第一号が出されたが、私が編集長を打診され引き受けたのは3年後の4月だった。前任者が重い病気で倒れ仕事が続けられなくなり引き継いたのだが、正直言って初めは雑誌編集のノウハウもなかったため戸惑いの日々だった。爾来、「習うより馴れろ」の言葉どおりの編集作業だった。

本誌は地方分権改革の動きが具体化し始めた状況に併せるように、改革派知事の機関車役的存在だった三重県北川正恭知事(当時、現21世紀臨調共同代表、早大大学院教授)が、「三重県から自治・分権を全国に発信しよう」と創刊された。北川氏は2期で引退、その後を元衆院議員で松阪市長を務めた野呂昭彦氏が継ぎ、今日に至った。その野呂知事が今期(4月)限りで辞することになり、全国に読者を開拓した本誌も惜しまれながら発行を閉じることになった。

少しばかり感慨を込めて言えば、足を踏み入れたこともない三重県の海、山、川の魅力に引き込まれた日々だったような気がする。その昔、三重県「伊勢の国」と呼ばれ、時代の変わり目に必ずと言っていいほど登場する歴史上も戦略的な要衝だった。誰もが知る伊勢神宮(内宮と外宮)は日本の精神文化の原点であり象徴でもある。伊勢から紀伊に通じる深山に宿る熊野信仰は、いながらにして俗人の汚れを洗い落としてくれる雰囲気を持つ。
 伊勢湾、熊野灘につながる海域は海の豊かさをもたらし、後背の霊感漂う山々と共に伊勢の国に豊饒を供した。
 そんな歴史を持つ三重県を知るには、都市部を見て回っても大して意味はない。そんなわけで、自治問題の難しい話を「中和」しようと、県内の意外に知られざる地域を選んで本誌の企画に「再見―わが町」を組み入れた。歴史的な遺産の豊富な三重県の各地を訪ね、歴史的な文化遺産が隠れた場所を紹介することも、分権時代に沿うものだと考えたからだ。いわゆる地域文化の掘り起こしである。
 「再見」では歴史をたどって、いわゆる田舎を見て回った。編集スタッフの県庁職員を同行させての取材行だったが、案の定、彼らは自分たちの住む県の生の姿を意外に知らなかった。彼らが言うには「いろんな地域を、町を回ることができて勉強になった」と。県庁で机に向かって縦割りの仕事しかしていない現実の物足らなさを感じたのだろう。
 本誌の最終号を入念にチェックしたのが17日だ。その晩は、東京の有名私大を卒業した若手と酒を交わしながら思い出話に花が咲いた。翌18日、県の3役、主だった部局長を訪ね挨拶を終えた。中でも知事、副知事との話は中身が濃かった。
 県幹部への挨拶を済ませ、帰途についた。すべてが終わったせいだろう、何とも言えない解放感があった。頼まれた仕事を全うしたとは言えないかもしれないが、これまで気が付かなかった「次の仕事」への頭の切り替えをしないで済むことの重圧感がなくなったということだろう。

帰途の東海道新幹線は東日本大震災の影響はなく、平常どおりの運行だった。静岡駅を過ぎてしばらくすると、「左手に富士山がきれいに見えます」と車内放送があった。雪をすっぽり被った富士の雄大な姿があった。新幹線乗務員が車内アナウンスしたのは、私の経験では初めてだ。17日の往路も凛々しい富士を見ている。私の仕事の最後を祝ってくれるような富士の姿だった。

最後に大震災に触れておく。17日に自宅を出るときは少しばかり不安だった。大きな揺れはなくなったとはいえ、始終体に感じる揺れがやってくる。宮城、岩手、福島各県の被災地は、私が仙台、盛岡に赴任中に取材や遊びでよく訪れた町だ。HPの「ブログ」にも書いているので、関心のある方は是非目を通していただきたい。
 それら被災地には当然知り合い、友人もいた。長いこと連絡はしていないが、よりによってこんな惨事に襲われて昔を思い出すとは、私も情けない。そんな思いを引きずりながらの三重の往復旅行だった。三重・津市に着いて飲料水が欲しくなりコンビニに入った。店内の棚は食品、その他いろいろなものがぎっしり並んでいたのが不思議だった。この数日、私の自宅の町でさえ、店という店の商品棚は売り切れでガラガラだった。
 三重県は東海地震、東南海地震、南海地震の三つに襲われる可能性が極めて高い。そのための震災対策も整備されているが、今回の東日本大震災はそれらを合わせたよりもさらに巨大な自然のエネルギーの爆発だった。マグニチュード(M90、もちろんわが国観測史上最大の地震だ。野呂知事は、私との話の中で、震災・防災対策を根本から見直さなければならないと言った。
 東日本の被災地への支援、復旧作業は全国から寄せられる協力で進みつつある。だが、これからは被災地、避難先で生活の維持、健康などの面でさらに難しい問題が次々と表れるだろう。その事態にどう対応できるか、私たちにも試練が待ち受けているような気がしてならない。

(追記)最終号の作業をすべて終えた後、本誌の企画・編集の趣旨を理解し協力を惜しまなかった識者ら関係者に概要、次のような個人的な挨拶を送った。

 皆さまのご協力とご支援に感謝します。
 自治・分権問題の政策情報誌「地域政策」(季刊)の最終となる2011年春季号の編集作業を終えました。 私が本誌の編集を預かって丸7年が過ぎました。この間、特集、インタビューをはじめ多くの企画に皆さまの執筆を中心としたご協力を得て、何とかゴールにたどり着けたと思っています。
 季刊誌とはいえ、時宜を得た企画を皆さまにお届けすることの難しさを味わいました。共同通信記者として長い間デイリーのニュースに携わってきたとはいえ、雑誌の編集・企画は全く違った感覚が求められます。
 とはいえ、企画にタイミングは欠かせません。世の中の動きを先読みしながら企画を形づくる、綱渡りのリスクを感じながら勝負に出ることは、新聞とは違った緊張感があるものです。
  「地域政策」は、いわゆる商業ベースでの情報誌ではありません。それゆえの苦労もありましたが、要は良質な情報をお届けできるか否かが勝負と思って製作に励んでまいったところです。 本号をもって最終号となることに、識者の方をはじめ多くの読者から温かい言葉をいただきました。編集者としても、今日の地域主権の迷走を見ると、もう少し…といった気持ちがないわけではありません。十分とは言えませんが、皆さまのご支援のもとで、少なからず分権問題の前進に役立てたのではないか考えております。
 混迷する政局に畳み掛けるように大震災に見舞われました。被災地の救援、復旧・復興に全国の力が注がれております。地域の協力が今ほど求められていることはありません。本誌の最終が、このような自然災害の渦中の中で迎えたことは、私にとっても忘れ難い記憶となりそうな気がします。
 読者の皆さまのますますのご健勝をお祈りします。

(尾形宣夫のホームページ「鎌倉日誌」)