雑記帳

2011年3月16日

【東日本大震災】(ブログ)

◎蘇る被災地の思い出

 未曾有の惨事に見舞われた人たちの口から出てくる搾り出すような言葉と、悲しみを押し殺した表情が目に焼きついて離れない。
 「助けてください」。ある中年の女性が誰に語るともなく呟いた言葉がテレビから聞こえてきた。家族の行方がさっぱり分からない。ついさっきまで一緒だった我が子と母親が津波にさらわれたらしい。

 「子どもを連れて、身ひとつで避難しました。どうにか命は助かりよかった。だが、明日からの生活をどうしたらいいのか…」。この女性は、きっと夫も不明になってしまったのだろう。高台から見下ろす先は、瓦礫が延々と続くかつての市街地だった。小学校高学年とおぼしき女の子を抱きしめながら、瓦礫の町を無表情に見る目がうつろだ。おそらく、眺めているのは目の前の瓦礫の町ではなく、行方知れずの家族の姿を追い求めているのかもしれない。
 「目の前を知り合いの人が濁流に流されていきました。助けることもできなくて」と語る60代の女性は車ごと津波に流され、かろうじてつかまった大きな木が民家にぶつかり救われたという。だが、目の前の濁流に飲み込まれた知り合いは、あっという間に姿が見えなくなった。
 濁流から、かろうじて身を守った住民の声は悲痛だった。呆然と立ち尽くすその表情は、覚めやらぬ悪夢の恐怖に染まっているかのようにこわばっていた。テレビの映像を見ているだけで、こんな被災者の姿が見えるのだから、災害現場にいたらさぞ残酷な光景だったのではないか。

マグニチュード(M)9.011日午後2時46分ごろ起きた、三陸沖を震源とする大地震はわが国観測史上最大で、巨大地震が巻き起こした大津波は青森から茨城県にかけての太平洋沿岸を襲った。沿岸域だけでなく数`から10`も内陸部にまで牙≠むいた。
 私は、岩手県釜石市の高台からとらえたテレビの映像に体が固まってしまった。
 遠い入り江に白く盛り上がった津波が、第2波、第3波と湾内をめがけて押し寄せる不気味な様子をとらえていた。恐ろしいほどに速い。勢いを増した津波はあっと言う間もなく護岸・防潮堤を越えて民家を襲った。木造の民家が次々と流され、瓦礫となってまた次の家を飲み込んだ。港の漁船が、タンクが、乗用車が濁流に巻き込まれながら被害を拡大していった。まるで、連続写真を見ているようだった。
 私にとって岩手、宮城、福島の被災地の幾つかはかつて取材で訪ね、その自然美に酔った町である。やりきれない想いが募る。役場の建物が跡形もなくなって、行政が消えてしまった町。日は経つ毎に遺体が続々見つかり、収容される。一面瓦礫の光景は連日見たせいか、初めの頃の、あの驚きはなくなった。なくなったが、悔しさと無念さが逆に高じてくる。
 一方で、テレビに映らないために、地域(集落)の苦しみが知られていない山あいに住む人たちの叫びが聞こえてくるような気がする。都市部や町なかならば話し相手もいて気が紛れることがあるだろう。が、皆に知られることのない山あいの人たちは、隣の家は何百メートルも離れている。声掛けすらできない。そんな人たちへの救難は忘れられたままだ。
 春爛漫のような陽気があったと思ったら、今度は真冬の寒さがやってきた。東北では無常の雨が雪になった。被災者の気持ちはいかばかりだろうか。

記憶をたどりながら、思いつくまま被災地での思い出話を記す。
 岩手県陸前高田市は、地域おこしのリーダーである地元醸造業の当主と一夜、よもやま話に花を咲かせた。地元の若衆を率いて「けんか七夕太鼓」を主宰する、見るからに親分肌で、私と同年齢の男だった。生きのいいネタで握った鮨は文句なしにうまかった。互いに喧嘩っ早い2人だったが、妙にウマが合う。酒の量も進んだ。呑み疲れてホテルに送ってもらった。
 そのホテルが無残な姿でテレビに映っていた。鉄筋コンクリートのホテルだ、ほかに同じ鉄筋の校舎などがわずかに残るだけで市内は一面の瓦礫。ホテルから眺めた松原海岸の白砂青松は消えた。あの日足を延ばして行った海岸の、月夜が照らす海辺は言葉が要らない程きれいだった。

 かつての鉄の町、釜石市は日本選手権V7のラグビーの名門、新日鉄釜石のホームグランドである。鉄冷えで高炉の火が消え町の賑わいはなくなったが、名物の「橋上市場」に町の再生を信じる市民の元気な声が響いていた。橋上市場は、どこか小説「マジソン郡の橋」に似ている。小説のような男女の出会いはなかったが…。
 リアス式海岸の複雑な地形がつくる南三陸町の自然景観、「山は海の恋人」で知られる唐桑湾、そして少し離れた東松島も瓦礫の海と化してしまった。景勝地が一瞬にして地獄絵図に変わったのである。
 
 南三陸町は役場が津波にさらわれ跡形もなくなった。住民台帳も瓦礫に混ざってどこかに埋まっているのだろう。住民の消息を知ろうにも元となる台帳がない。「行政がなくなった」のである。住民の約
6割が行方不明となっている。行政が消えた同じような自治体は他所でもある。せっかく平成の大合併で大きくなった町や市が、大震災で元も子もなくなってしまった。合併前の元の役場はあるが、支所となっていて頼りにならない。合併による出来上がった広域行政の弱点が明らかになったのである。

 唐桑湾は、牡蠣の名所だ。周りから変人呼ばわりされたが、牡蠣の養殖には山を健全に育てることと、山と海を人間で言えば恋人関係になぞらえ、山の自然を守った人物がいた。その時のキャッチフレーズが「山は海の恋人」である。なかなか、説得力のあるフレーズだと思った。この話に興味を持ち、若い記者を送り込んで取材させた。

仙台港、仙台市若林区荒浜は、私が共同通信社仙台支社に籍を置いていた頃、釣竿を持って下手な投げ釣りで何度も通った海辺だ。手のひらカレイぐらいしか釣果はなかったが、それでも仕事を忘れて海の景色に自分の身を置くことができた貴重な時間を与えてくれた場所だった。
 この原稿を書いている今も体に感じる地震が続いている。私が受けた被害は、幸い被災地とは比較にならないくらい小さい。しかし、今度の東日本大震災が教えた教訓は大きい。さほど気にもしなかった津波の本当の怖さであり、不自由のない時代の無防備さではないか。

 津波被害に加えて、原発事故の恐ろしさは、自然の脅威を忘れてしまった人間の浅はかさを突いたと言っていい。私たちの日常は、自由、気まま、自己満足、無関心――今さらながら地域社会の大切さを忘れた、浅はかな今日的わがままに染まったものではないのか。阪神大震災の時も、いやと言うほど味わった親・兄弟・地域の絆の大切さを改めて思い出す。
 先ほども記したが、無常の雨は雪に変わった。私たちはこれまで、どちらかと言えば厳しい選択を迫られることはなかった。自由にわが道を歩むことができた。だが、これからは同じ道はないだろう。それぞれが全体をよく見て、いたわり合い、助け合う社会をつくらなければならない。「絆の時代」を再認識しようではないか。

大震災は多くの人命・財産を奪った。この痛みを教訓としなければ、復旧、復興も期待できない。そのことを互いに肝に銘じなければならないと思う。

(尾形宣夫のホームページ「鎌倉日誌」)