雑記帳

2011年1月26日

◎「続 ツイッター・考」(ブログ)

ツイッターの仲間入りして4カ月になる。感想を言うなら、情報社会の広がりを実感すると同時に、多様な伝達手段のスピード感、反応の速さに驚き、戸惑いさえ感じる。人一倍早い情報のキャッチ、伝達の世界に長年身を置きながら「何を言うか」と叱られそうだが、通信手段の高速化が従来の通信手法だけでは国民は納得しない時代がきたということだろう。

■ツイッターの効用―思わぬ質問と蘇る懐かしさ

毎日流れる膨大な量のツイートは、それこそ朝晩の「あいさつ」から始まって、各個人の行動を簡潔に伝える「…なう」、さらには「思うこと」「見たこと」が絶え間なく伝えられる。そして、それに応える言葉がすぐさま跳ね返ってくる。1人で街を歩いていても、旅行していても、仕事中でも、常にツイッター仲間が身近にいる安心感があるようだ。仕事中や学生が講義中に交信するメル友やツイートはルール違反だが、今の時代、それをやめさせる物理的な方法は通用しない。大学で講義中は電源を切るように言い渡す教授はいるが、学生がどこまで言うことを聞いているかはなはだ疑問である。高校でも同じらしい。
 もし、そんな学生なら就活でどんなに装っても、すぐバレるからそのつもりでいるといい。学生にごまかされる程、面接者はバカではない。

ツイートをやっていて意外だったのは、思いもしなかったような質問をぶつけられたこと。モノの見方が「なるほど、そんな見方もあるか」と思えるようなこと、さらには、気にもしなかったことを気付かされもする。
 つい、この前のことだが、昔の若かりし頃の生活にタイムスリップすることがあった。懐かしいやら、切ないやらあの頃の思い出が蘇ってきた。
 最初の「思いもしなかった質問」を寄こしたのは、沖縄県出身と思われるインターシップ中の学生U君だ。私が沖縄で取材にあたっていた復帰前後の思い出を綴ったコラムの中身について質問してきた。質問は「米政府がドル防衛策で沖縄駐留の米兵の給料半分を強制的に本国に送金させた」事実の出典は何か、それはいつまで続いたかというもの。

この質問には参った。出典などはない。質問そのものがいかにも大学生らしい。当時私は「那覇特派員」として取材に駆けずり回っていた。その中で米兵が小遣いの少なさに音を上げ、何故?と調べて分かった公然の事実。米大統領の年初の一般教書でも明言している。
 戦場に送り出す兵士に満足な給料を手渡せないほど、米国はベトナム戦争の戦費を使った。兵士にとっては「ペイデイ」(給料日)は、サラリーマンの誰もがそうであるように街に出てひと時を酒を飲みながら楽しむささやかな日である。ところが、沖縄基地で出動を控えた兵士にはそんな余裕がなかったようだ。
 給料の半額強制送金は、ベトナム終戦どころか、信認を失くしたドル防衛で延々と続けられた。独身米兵こそいい面の皮だった。

沖縄関係でもう一つある。地元紙のベテラン記者Tさんからの知らせだった。
 都市再開発が進む
那覇市のことを伝えてきた。それに乗って何気なく送った返事が元で、昔よく飲みに行ったスナックが場所を替えて営業を続けているのではないかと、昔の想いを膨らませてしまった。
 店の名前は昔、酔客が群れをなした歓楽街・桜坂の「悦ちゃん」だという。今は再開発でかつての歓楽街は見る影もなくなったが、私の頭に残る桜坂慕情は昔のままだ。
 Tさんは20年前の新人の頃、その店で酔い潰れるくらい飲んだらしい。現在のママは2代目だという。私の頭に蘇った同じスナックなら、引退したママは復帰直前の大衆週刊誌の表紙を琉装で飾ったほどの美人だった。是非、真偽を知りたいと言ったら、Tさんは調べてみると言った。これもツイッターの効用と言える。

■強まるマスコミ批判

 ツイッターの激しさは、このところの菅内閣に対する痛烈な批判に典型的に表れている。「政治とカネ」を論拠に、小沢元代表を引きずり回していると辛らつだ。菅首相の名前をもじった蔑んだ名称は、これが一国の首相に対して言っていいものかと思わせるほどだ侮蔑に満ちている。こんなに蔑んだ名前を付けられた首相はいない。
 この反菅感情が、大手マスコミ攻撃にも飛び火している。大手マスコミは証拠も不確かな疑惑で小沢追放をもくろんでいると、小沢擁護を続けている。大阪地検特捜部の証拠捏造発覚以来、政治とカネの問題は仕組まれた陰謀だと断じているのだ。大手マスコミは、フリージャーナリストらから記者クラブ問題で追い詰められており、これに小沢問題をきっかけに年来のマスコミ批判が急膨張して防戦一方の観を呈している。
 記者OBとしては何とも見過ごせない現状だが、コメンテイターと称する俄か評論家が、まことしやかに論評するのを見せられると、これではマスコミ不信が増幅するのも仕方がないと思わざるをえない。我慢ならないのは、れっきとした中央紙のベテラン記者が、司会者や芸能人の口車に乗せられているとも知らず、脱線した解説をしていることだ。これなどは、いい悪いの対象とすることそのものが不愉快である。

■ヴァーチャルな世界の独り言

政治や外交などの硬い問題とは別に、たわいのないツイートの往復の中に、おやっと思うようなきわどい言葉を時々見つけることがある。若者の交信ではなく、中年位の年代層に散見される。想像をたくましくしても仕方がないが、当人同士はそうすることで、通じる何かがあるのかもしれない。私のツイートに届く英語のツイートは俗語を使ったストレートなものがある。国民性の違いなのか。
 もっともツイートを厳密にあれこれ理屈をつけてもつまらない。大体、ツイート、呟き自体が現実であって現実でないような「ヴァーチャル」な世界を漂う言葉だ。空想の世界で誰がどんなことを呟こうが、それは現実との境界がはっきりしない(ファージー)領域での出来事なのだから、人それぞれが自分の思考で楽しめばいいだけの話。大体、同じ言葉を使っても、その意味がまるで違うことだってある。
 現実のやり取りを交わすのもツイーターであれば、ヴァーチャルな気持ちで楽しむのもツイーターである。どちらを楽しむかは、人それぞれでいい。
 私は、「ツイート中毒」にならないよう、注意するつもりだ。もっとも、中毒になるくらい時間に余裕がないからだが、楽しみは程々がいい。適当な刺激を与えてくれるのがツイッターの効用なのだから。

(尾形宣夫のホームページ「鎌倉日誌」)