雑記帳

2011121

◎止まないマスコミ批判(ブログ)

 つい先日、ある有力経済人Aさんと会った。取材の約束を兼ねたアポイントだったが、意外だったのはマスコミ批判が突然飛び出したことだ。温厚で知られるAさんの口から出るとは予想もしていなかった。正直言って面食らった。
 Aさんが言うには、「新聞は自己批判をしない。責任を果たさない」と一つの例を語った。大手総合商社系の企業が根も葉もないことを書かれてひどい目に遭った」と言う。「こんなことをしているから新聞の部数は増えない。当たり前です」
 広島市の秋葉市長が今年の仕事始めの翌日の5日、インターネット動画「ユーチューブ」で今期限りで引退する意向を表明した。記者クラブの会見要請を拒んだ上での不出馬宣言である。ユーチューブ出演は、内紛が続く民主党元代表の小沢氏もやっており、菅首相までもが登場しているから、置いてきぼりをくった既存の大手マスコミ各社が怒るのも無理はない。Aさんはこれらのネット動画を例に引きながら、「マスコミ不信は深刻です」と。
 もっともこの3人がネット動画に出た理由は同じではない。秋葉市長と小沢氏は既存の大手マスコミ嫌いが明確だが、菅首相の場合は大手マスコミ批判ではなく、このところ勢いを増しているネットメディアの活用に主眼があった。不人気挽回策であることは誰でも分かる。
 いずれにしても、権力の地位にある人物がネットを使い出したことは、大手のメディアの寡占状態だった情報管理社会に転換期がきたことの表れである。

 私は昨年10月から物珍しさもあって、「ツイッター」の世界に足を踏み入れた。私などは遅れて登場した人間だから、いまだにネットメディアの影響力は正確に把握できていない。だが、はっきりしているのは未成年から相当な年配者まで年齢層は広い。しかもツイートする内容は、ごく当たり前の日常会話から政治・経済・行政、さらには世界情勢にまでわたる。
 ツイートのネタ元は新聞、テレビからのものが多いが、それにしても限られた新聞、テレビニュースでは手が届かないものが流れてくる。思い込みの強いものもあるが、細かい話題まで取り上げるのは、それだけ「ニュースとは何か」を間接的に問うているからなのかもしれない。
 ツイッターの世界に入ってもう一つ思い知らされたのは、既存の大手メディアに対する不満・不信が連日、これでもかこれでもかとばかりに届くことだ。大手メディアで長年取材で走り回り、どこよりも早くいいニュースを得ようと明け暮れていた私にとっては、はなはだ不愉快な現実だった。
 何故、これほどまでに批判され、腐されなければならないのか、正直言って納得できないとことは多々ある。記者クラブの閉鎖性、政・官・業との関係も反省すべき点は多い。少しずつ改善されてきたとはいえ、まだまだ特権にあぐらをかいていると決め付けられているようだ。

 そんなマスコミ批判が頭にあったから、Aさんの指摘に反論できなかった。現役を退いて長いこと経つので取材現場がどうなのかは想像の域を出ないが、政治・経済界の要人が言うには、「最近の記者はおとなしい。昔のような怖さはない」らしい。裏を返せば、言うことを聞いてくれる「おりこうさん」が多いということだ。
 派閥政治が永田町を牛耳っていた頃は、よそ者(他派閥担当)は見事に排除され近づけなかった。政治家と記者の身内意識が強く、よそ者をシャットアウトするのは、永田町政治の舞台裏を知られないようするためだ。それは政治家と記者との間で暗黙のうちに決まっていた「契約」みたいなもの。それを破れば、もちろん出入り禁止で、相手にされなくなる。永田町だけでなく、極端な話では報道機関の社内でも同じである。
 にもかかわらず、当の政治家や経済人の評判が芳しくないのは、Aさんが言うように「書きっぱなし、責任を果たさない」からだ。書いた記者は自信を持ってのことだろうが、その事実がないばかりでなく、書かれたことによる被害に対するフォローがないことをAさんは怒るのだ。いわゆる「書かれ損」でしかないのでは、書いたその新聞社への怒りは収まるはずはない。

 ネットに表れる大手マスコミ批判は、口を極めて辛らつに切り捨てている。世間的には名の通った編集委員や論説委員、さらには評論家もネットでは攻撃の的になっている。にわか評論家やアナウンサーまでが司会者の尻馬に乗せられて批判する光景は、滑稽でしかない。それがまた視聴者に受けていることも事実だから、民放TVのワイドショーはあたかも「被疑者」を追及する正義の味方になったかのように切りまくる。
 そうした光景がネットでは我慢ならないようだ。同時中継的に、批判・反論がネットに表れる。

 かつて、新興IT企業が大手メディアへの経営参入を試みたことがあった。その時に大手メディアが強調したのは「報道の自由を守る」だった。
 報道の自由とは何ぞや?今それが問われているのである。

(尾形宣夫のホームページ「鎌倉日誌」)