エッセー・雑感

1996年12月25日 00:00:00

共T473企画091



通年企画「海と生きる」(40)「村上水軍」    

中世のロマン残る海景  権力に抗した海賊大将軍


 大阪のビジネス街、北区中之島の土佐堀川に続く木津川は、北から南に真っすぐ大阪湾に注ぐ。
 中世・戦国後期、この河口で織田信長と毛利元就両軍による一大海戦が繰り広げられた。毛利方の水軍、なかでも瀬戸内海に君臨する村上水軍が織田軍を壊滅、一時、石山本願寺の窮地を救った。「第一次木津川河口の戦い」と呼ばれる。その村上水軍の総大将は、当時の守護大名の盛衰のかぎを握った能島村上家の頭領、村上武吉。「海賊大将軍」と呼ばれた人物である。
 だが、乱世の将は悲運の生涯を終えた。菩提寺は
山口県・屋代島の東和町の小高い丘にある。

 ▽教養と団結力

 
東和町内入(うちのにゅう)の元正寺。境内から見える安芸灘に浮かぶ島々は、夕日に黒い影を映しだしていた。
 「晩年の武吉はここから眺める光景が好きだった。故郷の能島(
愛媛県宮窪町)の情景を思い起させたのでしょう」。町の長老、岩本重雄さん(83)による境内の説明文には「武吉公の生涯に見る先見性に後世の人はいかに生きるべきか。人の世の出会いに手をあわせたい」とある。岩本さんが書いた「先見性」は「海賊」と恐れられたイメージを否定。すでに諸外国と積極的に交流し独特の文化を築いた先進性を指す。
 本堂のそばにある土塀が回された墓に立つ供養塔の左右に、真新しい菊の花が三本ずつ供えてあった。
 武吉の直系で能島村上家の三十六代当主、村上公一さん(64)は
名古屋市緑区に住む、私立女子高校の副校長。
 「関銭(海の通行料)の徴収などケチなものでなく、貿易で利益を上げていた。海外進出の利益はそこらの大名とは、けた違いに大きかった」。螺鈿(らでん)をちりばめた台座に置かれた香炉、ベネチアンガラスの船の置物、青磁のつぼなど、往時の隆盛を物語るほとんどは他人の手に移るか、
越智郡宮窪町広島県因島市に寄贈されたが、一部は屋代島の実家に残っている。
 金めの話だけではない。一族が集まって開いた「法楽連歌」が資料館に展示されている。戦を前にした連歌から生活を詠んだものなどは、教養の高さと一族の団結力を感じさせる。さらに、後世に引き継がれる兵法書や海運の手引とも言える文書を多く残し、有力大名との往復書簡も水軍の実力をしのばせる。
 「海賊衆は外国の船員と接する機会が多く、ヨーロッパのこともよく知っていた。本当の姿は海賊ではないんです。『海族』なんです」「講演を頼まれますが、知られていない先祖のスケールの大きい話をします」
 村上さんは海に生きた先人を語ることで、現代に欠けた「何か」を伝えようとしているのかもしれない。

 ▽全島が要さい

 瀬戸内海の航行を遮断するような村上水軍の城郭や要さいは、航路と潮流を綿密に計算したうえで配置されている。
 来島海峡の
愛媛県今治市波止浜の目と鼻の先にある来島と宮窪町の能島は、潮流が速く目まぐるしく変化する海域にある。潮流は八、九ノット、しかも海中から潮が盛り上がる「わき潮」が至る所で起きている。小じんまりとした両島は島全体が城郭。因島も同様で、島内に二十数カ所の出城を配置、船の航行を監視する体制ができている。
 宮窪漁港から約一キロの沖合にある能島は、村上武吉の居城跡。島は周囲が七百二十メートル。潮流が激しい宮窪瀬戸と、船折瀬戸に挟まれた能島に漁船で渡った。潮流が不気味な音をたてながら迫り、波頭はきばをむいて襲いかかる獣を思わせる。
 島の周囲に舟だまり、舟隠しがあり、水際には係留用の柱が立てられていた多数の穴が干潮で姿を現わした。矢に使った矢竹が今も繁茂している。海面から本丸までの高さはせいぜい二十メートル程度だろうか。馬の背のような道を伝って三の丸から順々に本丸まで上がった。

 ▽勇姿表わす碑文

 出丸から南西約百メートルの海上にある小さな鯛崎(たいざき)島は、かつて橋が架けられ能島と結ばれていた戦術拠点。大島と伯方島の間の見近島では、発掘調査で屋敷跡や備前焼の陶器、中国・明時代の硬貨、生活道具が多数見つかり、生活の場だったことをうかがわせる。
 能島、因島、来島の三島に本拠を置いた村上一族の水軍は、畿内と九州を結ぶ海上交易ルートの要衝、芸予諸島で立ちはだかった。
 平時は諸外国との貿易に励む一方、内海を通る商船から関銭を徴収して安全航行と警護を保障した。だが、有事には強大な武装集団として戦闘に「客将」として加わった。強力な大名の手から「自分の海」瀬戸内海を守る、との狙いからだという。
 しかし、
三島村上家は戦国時代を制した豊臣秀吉が登場してから団結が乱れ、独自の道を歩みだした。最後まで秀吉に屈しなかった総大将武吉は、手足をもがれた形で各地を転々とし、最後に周防(山口)・屋代島に身を引いた。

 「この因島から遠い昔、八幡船の男たちが南溟(なんめい)の海へ船出して行った。その村上水軍の男たちの歌声が南風に乗ってあの雲の下からいまもはるかに聞こえてくる」
 因島村上家の菩提(ぼだい)寺、金蓮寺(因島)に立つ石碑に書かれた、作家村上元三氏の追悼文である。遠い南海の大きな海、南溟を舞台に活躍した雄姿をほうふつさせる。また、作家城山三郎氏も小説「秀吉と武吉」の中で、海から離れられない武吉の激動の半生を書いている。
 「目を上げれば海」―城山氏は武吉の心情をこう表現した。瀬戸内海の海景は、今も遠い昔を想像させるロマンに包まれている。(文・尾形宣夫、写真・吉田勝憲)

 ▽近世によみがえった水軍魂

 十六世紀の半ばすぎ、中国地方の小豪族の毛利元就が西日本有数の大名になったのは、元就の知略と一族の団結が大きい。同時に「厳島合戦」(一五五五年)に代表される海戦を支援した水軍の役割も無視できない。その海戦で主力を担ったのが能島、来島、因島の「
三島上水軍」で、総大将は村上武吉。
 海賊衆とは水軍将兵の異称。海上や沿岸で略奪行為をした海賊は後の水軍の初期の姿ともいえる。海賊衆が最も活躍したのは南北朝時代。乱世に守護大名の盛衰を左右する戦功を挙げたが、乱世の終息で歴史の表舞台から姿を消した。豊臣秀吉の「海賊禁止令」や徳川時代の大型船建造禁止、鎖国令で日本の海外との門戸は閉ざされ、「海人」の活躍の場が失われた。
 しかし、江戸時代の北前航路の開設、幕末の咸臨丸の太平洋横断成功は、瀬戸内海の水軍の子孫が大きな役割を果たし、日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を全滅させた戦法は、村上水軍の古戦法から学んだ、と言われる。連合艦隊司令長官の山本五十六は一九四二年、あいさつのため屋代島の村上家の本家を訪ねている。