【中国漁船衝突事件】

◎政権担当能力を疑う


▽ガイアツ
 戦後日本外交の最大の弱点は何かと問われれば、私は躊躇なく「外圧に弱かった」ことを挙げる。今ではあまり聞かれなくなったが、欧米先進国の対日関係者の間では「ガイアツ」が当たり前のように使われていた。日本に政治、経済分野で譲歩させる最も効果的な攻め方がガイアツである。日本語ではなく世界の共通語とさえ言われていた。
 ガイアツは、日本の主体性のなさを皮肉った悪い言葉だが、私も現役時代によく耳にした。そのガイアツが、沖縄・尖閣諸島海域で起きた中国漁船衝突事件に絡む中国政府の強硬姿勢で蘇った。中国の態度は、まさしく日本の弱みにつけ込んでとことん追い込み、尖閣諸島の領有権を有利に持ち込もうという許されざるごり押しだ。
 尖閣諸島事件の何がガイアツかと言えば、船長の逮捕・勾留以来、中国政府が日本側に畳みかけるように言って来た無理難題に根負けして、那覇地検が「外交上の配慮」で船長を処分保留のまま釈放してしまったことだ。
 菅首相はじめ各閣僚は「那覇地検の判断を尊重する」とコメントした。いかにも、釈放は那覇地検の独自の判断で政府のものではないと言いたかったのだろうが、一地方検察庁である那覇地検が外交問題にコミットすることなど常識的にもありえない。最高検との十分な打ち合わせの上での釈放だから、政府の判断があったことは間違いない。つまり、司法権までが中国の強圧に押し切られたということだ。
 船長は中国政府が差し回したチャーター機で帰国した。まさに「英雄」扱いの出迎えで「対日戦勝利」に湧いたという。日本人記者団は取材を阻まれ、中国メディアの報道を間接的に紹介するしか手はなかった。そして中国政府は船長釈放を論評せず、「逮捕は不法不当」だとして日本政府に謝罪と賠償を求めた。

 国連総会から帰国した首相は中国の新たな要求に応じるつもりは全くないと拒否、尖閣諸島は日本の固有の領土であることをあらためて強調した。さらに今後の対応については、戦略的互恵関係で両国首脳が冷静に話し合う必要がある、と語った。
 今さらの感もあるが、腰を据えて万全の態勢で問題に対処してもらうしかない。

▽尖閣海域の緊迫を懸念
 今回の漁船衝突問題で中国政府が強硬な態度を崩さないのは、国民の反日感情が政府に飛び火する懸念や、政権移行期の中国の政治事情があるのは確かだ。しかし、菅首相らが何と言おうと、中国側は「日本政府が我々の言い分を認めた」と元気づいている。
 意図的であろうとなかろうと、今後中国の漁船が尖閣諸島の漁場にどんどん乗り込んでくるだろう。その場合、日本政府は、そして海上保安庁はどう対応するのか。前原外相は依然、「領土問題は存在しない」として、今後予想される事態にも国内法に基づいて取り締まる意向を明言しているが、果たしてそれができるのか。海上保安庁にも今後の対応をどうすべきか戸惑いがあるようだ。
 尖閣諸島海域は好漁場で中国や台湾籍の漁船が操業、これを日本の巡視船が取り締まっているのが現実だ。尖閣諸島を囲む海域は緊迫した状況になることはさけられない。

▽新聞各紙は政府対応のまずさを批判
 そもそも日本という国は戦後この方、外交面で各国のガイアツで自国の方針や政策を変えてきた悪しき習慣がある。先進各国との貿易摩擦による対日批判や安全保障問題での米政府の注文は、日本の政策を大きく変えさせた。経済面における「内需喚起」や「市場開放」等の要求がそれである。世界市場を荒らしまわる日本企業は「エコノミック・アニマル」などとこき下ろされた。
 安全保障面でも在日米軍基地問題は、米側の世界戦略が優先され、沖縄米軍基地問題に見られるように、日本側の言い分が通ることはわずかだった。そのガイアツが尖閣諸島の領有権という国家主権に及んだことの重大さを菅内閣はどこまで認識しているのか、これまでの事件対応を見ていても理解できないのが大多数の国民の実感ではないか。

 大手新聞各紙の社説(25日付)は船長釈放を厳しく批判した。
 「唐突な釈放は厳正な法律の適用・執行といえるのか。深刻な懸念を抱かざるを得ない」(日本経済)、「甘い外交、苦い政治判断」(朝日)、「関係修復を優先した政治決着」(読売)、「不透明さがぬぐえない」(毎日)、「どこまで国を貶(おとし)めるのか」(サンケイ)、「禍根残す定見ない判断」(東京)、「屈服外交は禍根残す」(共同通信)といった具合だ。

▽臨時国会の一大争点に浮上
 漁船衝突事件は、民主党の政権担当能力を疑わせることになることは避けられない。臨時国会の新たな、大きな争点として野党は攻撃してくることは明白だ。国会論議は相当熱くなるだろう。そのことが、日中間の新しい対立を呼び込むことも避けられない。ただでさえ政権基盤が弱い菅内閣が山積する国内案件に加えて、国益に絡むより刺激的な事案を抱え込んだのである。
 中国政府は、尖閣諸島の領有権問題で大々的なプロパガンダを展開している。それに引き換え日本政府の対応は十分とは言えない。尖閣諸島が日本領土であることは論を俟たない。中国漁船の不法が明らかならば、なぜそれを公表しないのか。各国首脳が集まった国連の場で尖閣問題を取り上げなかったことも理解できない。「固有の領土だ」と国内でお経読みしているだけでは各国の理解を得ることは難しい。
 南シナ海における近年の中国の動きに東南アジア各国は神経を尖らせている。今年7月の東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF)閣僚会議でも激しい議論が繰り広げられ、米国は「南シナ海の安全航行は米国の利益」と明確に中国を牽制した。
 さらに9月に米ワシントンで開かれた米国とアセアン10カ国首脳会議は、中国とベトナム、マレーシア、フィリピンなどが島の領有権を争う南シナ海の自由航行をうたった共同声明を発表している。
 そうした中で尖閣諸島の漁船衝突事件が起きたのである。事件に日本政府がどういった対応をするかを、アセアン各国は注視している。菅首相ら閣僚がどう抗弁しようとも事件対応が国益を損なう重大な判断ミスとしか言いようがない。釈放の理由、そして釈放のタイミング、さらに内閣や外務省が事件にどう関わったかを示さなければ、国民の納得は得られない。「検察当局の総合的判断」で済ませられる問題ではない。

2010年9月26日)=尾形宣夫のホームページ「鎌倉日誌」