【守屋防衛次官の告発】E

▽あとがき

1995年秋起きた米海兵隊3人の兵士による少女暴行事件は、沖縄の基地問題を様変わりさせた。反基地のうねりは日米同盟を揺るがす危機的な状況を生み出し、基地問題の象徴となった海兵隊基地・普天間飛行場返還の日米合意(1996年)につながった。
 普天間返還交渉は紆余曲折を経ながら今日に至っている。が、返還交渉は日米合意から14年、そして国と沖縄県の関係断絶を修復した保守県政の誕生から12年も経つが、今なお返還の道筋は見えてこない。

 内閣府の外局に過ぎなかった防衛庁は2007年、懸案の防衛省に昇格した。「秘録」著者の守屋氏は自分に課された最大の仕事は防衛省昇格と日米同盟の本格的見直しと胸に刻み込んだ。日米同盟の見直しは、米軍の世界規模の態勢を変革する中で、在日米軍の再編、とりわけその中核となる普天間基地の返還を軌道に乗せることだった。
 守屋氏は防衛庁の省昇格の理解を得るため、与野党対策にかけずり回った。奔走の甲斐あって20071月、省昇格の悲願が成った。

沖縄問題に取り組むに当たって、まず必要なのは、戦後の軍政下に置かれた沖縄の歴史的事実を知ることから始めるのが普通である。米軍の統治下にあって沖縄「県民」の生活はどんなものだったのか。沖縄には苛烈な戦争体験から基地を忌み嫌う一方で、基地に頼らなければ生活が成り立たない現実もあった。
 反基地感情と生活の糧としての基地依存。この相反する現実が、戦後65年、本土復帰から38年たった今でも、沖縄県民の心の襞となって時折表れる。
 国土面積のわずか0・6%の沖縄県に、在日米軍の専用基地の75%が集中する。沖縄全体では10%、本島だけだと20%の土地を米軍基地が占めている。しかも、沖縄本島中・北部に集中する基地は、もともと肥沃な土地だった。いまだに、基地内に住民の墓地もある。
 沖縄の県民所得は全国平均の70%で、全国最下位である。完全失業率は全国平均の2倍に近い。特に、若年の失業率は約20%だ。本土復帰から38年、政府が目指した「本土並み」「自立経済」は、遠くにあってまだまだ手が届かない。

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普天間問題を振り返って見ると、今でも鮮烈な記憶として残るのは、橋本龍太郎がモンデール駐日米大使とともに、普天間飛行場返還の日米合意を発表した19964月の緊急記者会見だ。「5〜7年以内の実現」を明言する首相の表情は得意げだった。自ら沖縄に乗り込み、当時の大田昌秀知事との会談は前後17回を数えた。
 それと994月末、日本が主催国となる主要国首脳会議(サミット)の首脳会合を沖縄県名護市で開催するという、誰も予想だにしなかった小渕恵三首相の政治決断だ。最も驚き喜んだのは沖縄だった。
 小渕首相はサミット開催を目前に急逝した。かつて首相官邸に陣取った橋本、小渕、梶山静六、野中広務氏ら政府・自民党の錚々たる「沖縄応援団」が姿を消し、基地問題は明らかに政治の最重要課題としての重みがなくなり、経済振興策との駆け引きだけが目に付くようになった。

守屋氏の「秘録」に出てくる普天間交渉の政府内の不統一ぶりは、先にも触れたが、沖縄の基地問題を在日米軍再編の流れの中でどう位置づけるのか。つまり、「911同時テロ」を機に激変した米国の世界戦略の見直しを、冷戦時代のままの在日米軍が抱える基地問題解決につなげる、またとない機会だとの認識が外務省に欠けていた。
 守屋氏は「あとがき」の末尾で、「基地があることで沖縄県に入る金額は年間5829億円に上る」と試算している。「これによって潤っている人もいれば、そうでない人もいる。特に基地周辺に住んで基地被害に向き合っている個人には結果として14年もの間、負担を軽減する施策は取られてこなかったという現実が沖縄には横たわっている」と書いている。

 著者が言わんとするのは、膨大な基地関連収入が日々基地被害と向かい合う肝心の人たちに役立っていないということだ。普天間問題が一部の経済的恩恵につながるようなものであってはならないということを、守屋氏は様々な場面で実感したのだろう。普天間問題に隠れた「恥部」を見過ごすことがないよう、政府も心掛けなければならない。(おわり)

10819日 尾形宣夫のホームページ「鎌倉日誌」)