【守屋防衛次官の告発】D

▽日本外交はこのままでいいのか

守屋氏は目下、法廷闘争の身である。200711月、防衛装備品を巡って軍需専門商社・山田洋行との贈収賄容疑で東京地検に逮捕され、翌年11月、東京地裁で実刑判決が下った。翌年12月、東京高裁は守屋氏の控訴を棄却、1審の判決を支持したが守屋氏は最高裁に上告した。

「秘録」は守屋氏が日記風に記した詳細なメモを基に書かれた。米政府や沖縄側との交渉の中身を具体的に記しているだけに、交渉当事者でしか分からない「言葉」には説得力がある。
 かく言う私も普天間問題で数え切れないほど沖縄に渡った。本土復帰当時はまだ若く、エネルギッシュな大衆運動の指導者も老域に入っていた。「秘録」を読み進むごとに、当時の官邸や永田町、霞が関で話し合った政治家や官僚たちの言葉が蘇ってくる。ページごとに当時の状況を記憶の片隅から引っ張り出し、手元の資料と照合しながら当時の様子を組み立ててみた。
 普天間問題に手を染めた者なら、政治家、政府関係者、経済界、さらには沖縄県および同県内市町村長、地元経済界を問わず、わが身をそのストーリーの中に見い出すのではないだろうか。米政府の交渉当事者についても同じだろう。

 「秘録」で明らかにされた事例に関係者の反論も出ている。終戦の日の前日の14日に放映された民放テレビの特番は「普天間交渉の秘録」だった。守屋氏もゲストで出演、普天間交渉の知られざる事実を語っていた。番組放映に様々な苦情があったという。おそらく、永田町・霞が関からのものと容易に想像できる。
 番組の中で、当時の沖縄県知事の稲嶺恵一氏や外相だった自民党の町村信孝議員は、「秘録」で明らかにされた事実を否定した。町村氏は「守屋氏が何をやったか関心もない」とにべもなかった。だが、町村氏のコメントは、外交の責任者である外相たる者の言い方とは思えない。
 守屋氏が刑事被告人だから、まともに相手をしたくもないのかもしれない。が、普天間問題に対する当時の外務省の対応は、いかにも事務的で本質的な沖縄問題を考える官庁とは思えなかった。「外務省はどこの国の役所なのだ」―こんな言葉を私は沖縄の各界の指導者から何度も聞いた。
 交渉事は、当事者が置かれた立場で見方も考え方も全く違うことは多々ある。「秘録」に書かれた内容は、難問に奮闘する筆者の思いが強く出すぎた面はあるかもしれない。普天間問題のような外交と内政が複雑に絡み合った事例では、真相が明らかにされることは稀だ。だが、事実は一つしかない。守屋氏の告発は、日本の安全保障問題をあらためて見直すきっかけになるかもしれない。

守屋氏は「防衛庁・防衛省の天皇」と言われるくらいの実力ある事務次官だった。その彼が贈収賄事件で刑事被告人となったことで、社会的に断罪された。守屋氏の存在を快く思わなかった永田町・霞が関にとって、事件は歓迎すべき出来事だったのかもしれない。
 「秘録」は、こと政治的な問題で「事なかれ主義」を通す官僚世界の内幕を暴露すると同時に、経済大国という地位に安住して諸外国首脳と対等な付き合いができない貧弱な政治家に対する、近来にない官僚OBの告発書である。特に、小泉内閣以降の短命政権の対応は、まさに場当たり的で政治戦略と言えるものはほとんどなかった。

普天間取材に長年関わった私としては教えられるところは多いが、今あらためて思うのは沖縄問題に対する政治家と官僚の意識の浅さである。同時に、沖縄側からもたらされる「情報」を鵜呑みにし過ぎたことはないか。沖縄問題では、薄っぺらな同情論は少しも建設的でない。そして、その情報が永田町や霞が関で都合よく使われたことがないとは言えない。
 守屋氏が「天皇」と呼ばれ部下を厳しく叱責したり、「恥を知れ」と怒鳴ったのも、防衛問題を専管としながら「外局」の生活に慣れてしまった幹部職員を奮い立たせるためだったと思う。(つづく

(10年8月19日 尾形宣夫)